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村雨庵 茶の湯日記

日々是茶の湯

家にあれば笥ケに盛る飯を

2020-07-18 21:46:24 | 和歌と歌人
家にあれば笥ケに盛る飯を
草枕
旅にしあれば椎シイの葉に盛る
和歌・歌人17
 有間皇子アリマノミコ
『万葉集・巻二・141』

家にいるときは当然
笥ケに盛って供える飯であります。
その飯を、
今は旅の途中にあるから、
椎の葉に盛って差し上げます。

有間皇子アリマノミコは
孝徳天皇の子
曾我の赤兄の謀略にかかって
反乱を企てた為に捕らえられ
紀伊国の藤白坂で絞殺された

若くして悲運に散った有間皇子
この時代のことは正直
よくわからないが
わからないままに
来てしまった気がする
これを機会にもう一度
漫画「天上の虹」を読んでみようかな
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大原の古りにし里に

2020-07-15 23:36:18 | 和歌と歌人
我が里に
大雪降れり
大原の
古りにし里に
降らまくは

和歌・歌人15
 天武天皇テンムテンノウ
『万葉集・巻二・103』

天武天皇
第四十代の天皇
舒明天皇ジョメイテンノウの子
母は皇極天皇。
天智天皇テンチテンノウの弟。
天智天皇テンチテンノウの崩御671後
天智の大友皇子と対立し、
翌年壬申の乱が興る。
これに勝利を得て、
673飛鳥浄御原宮で即位した。

わたしの住む浄御原キヨミハラの里に、
今大雪が降っている。
あなたのいらっしゃる大原の
古びてしまった里に降るのは、
まだずっと先のことでしょう

題詞に
天皇、藤原夫人に賜う御歌一首

藤原夫人とは
藤原鎌足の娘の
五百重娘イオエノオトメのこと
天武天皇との間に
新田部皇子を生んでいる


今日は水曜稽古
お盆中ゆえ
掛物は
平安時代末の経切
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豊旗雲トヨハタクモに入日さし

2020-07-14 23:17:28 | 和歌と歌人
わたつみの
豊旗雲トヨハタクモに入日さし
今夜コヨヒの月夜ツクヨ
さやけかりこそ
 和歌・歌人14
天智天皇テンチテンノウ
『万葉集巻一・15』

大海原の
遥かに浮かぶ豊旗雲トヨハタクモに、
今しも入り日がさして
見事なことだ。
ああ今夜の月は
さやかであってほしいものだ。

豊旗雲トヨハタクモとは
旗がなびいているように
空にかかる美しい雲
昔の旗は横に長かった

天智天皇テンチテンノウは第38代天皇
舒明天皇ジョメイテンノウの子。
母は皇極天皇。
天武天皇の兄。
名を葛城皇子カズラキノミコ、
中大兄皇子ナカノオオエノミコと称す。
孝徳天皇、斉明天皇の皇太子をつとめる。
645藤原鎌足フジワラノカマタリとはかって
蘇我氏の専横を除く。

万葉集に四首。
百人一首の冒頭にあり
平安王朝の太祖とする敬意のあらわれ
百人一首歌番号1
『後撰集』秋中・302
秋の田の仮庵の庵の苫をあらみ
わが衣手は露にぬれつつ
これはスラスラ

今日は恐る恐る
お謡のお稽古に出かけた
どこにも触らず
どこへも寄らず
洗面所も使わず一目散に帰ってきた
今日からお稽古するのは「天鼓テンコ」
写真は
四天王寺の扇面法華経冊子の写し
昨日13日はお盆の入り
藤原時代の写経も掛けた
父母に祖父母様
祖先の皆々様
いつか必ず参ります
そこへ
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安見児ヤスミコ得たり

2020-07-13 23:04:53 | 和歌と歌人
我はもや
安見児ヤスミコ得たり
皆人ミナヒトの得かてにすといふ
安見児ヤスミコ得たり

和歌・歌人13
 藤原鎌足フジワラノカマタリ
『万葉集巻二・95』

鎌足が采女ウネメの
安見児を下賜カシされ
妻問い得た時の歌

藤原鎌足フジワラノカマタリは
614―669
中臣御食子ナカトミノミケコの子
中大兄皇子ナカノオオエノミコらと協力し
蘇我入鹿を殺し大化改新を進めた
孝徳天皇、斉明天皇、天智天皇のもとで
内臣ウチツオミを務め
律令体制の基礎作りに加わった。

内臣ウチツオミとは
飛鳥から平安初めに置かれた役職
天皇の最高顧問

采女ウネメとは
後宮の雑役に従事する者だが
各国の少領以上よりの
姉妹、子女の中から
形容端正なものが選ばれ、
本来、宮廷の神と天皇とに奉仕する為の者。
臣下が妻問うことはできなかった。


藤原鎌足の歌は
万葉集を勉強していたのなら
知っていたのだろうか
この歌をよむと
若き鎌足が
安見児を得て
ウキウキと喜んでいる
そんなチャラい姿は
私にとって想定外だ


写真は
アガパンサス
ユリ科
開花時期は、 6/20 ~ 7/末頃。
南アフリカ原産
明治時代中期に渡来
紫君子蘭ムラサキクンシラン
アフリカンリリー
とも言うらしい
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山川に鴛鴦オシ二つ居て

2020-07-12 22:51:34 | 和歌と歌人
山川に
鴛鴦オシ二つ居て
偶タグヒよく
偶タグへる妹を
誰か率イにけむ

和歌と歌人12
 野中川原史満ノナカノカワラノフヒトマロ
『日本書紀・113』


山間の川に鴛鴦オシドリが二羽遊んで
仲が良いなあ
妻と仲よく連れ添っていたのに
その妻をいったい誰が
連れ去ったのだろうか

妻の造媛ミヤツコヒメが
なくなり
皇太子中大兄皇子ナカノオオエノミコの
悲しみが深いのをみて
二首の歌を詠んで奉った

野中川原史満ノナカノカワラノフヒトマロ
帰化人


古事記は漫画で見たが
日本書紀は何も読んでないからか
聞いたこともない人物だ
知らなかった
明日は
お盆の入り
普段は近くのお坊様に
棚経を頼んで有るが
今年はコロナもあるし
昨日お布施をお届けし
仏壇を綺麗にした
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とりよろふ天の香具山

2020-07-11 21:53:30 | 和歌と歌人
大和には
群山ムラヤマあれど
とりよろふ
天の香具山
登り立ち
国見クニミをすれば
国原は
煙ケブリ立ち立ち
海原は
かまめ立ち立ち
美味し国そ
あきづ島
大和の国は

和歌と歌人11
 舒明天皇ジョメイテンノウ
『万葉集巻一・二』

天皇、香具山に登りて
国見したまふ時の御製歌オオミウタ

舒明天皇ジョメイテンノウは
第34代の天皇
第30代敏達ビダツ天皇の子の
押坂彦人大兄皇子
オシサカヒコヒトオオエノミコ
の子
名は田村皇子タムラミコ
推古天皇の没後
蘇我蝦夷に擁立されて629即位
都を飛鳥岡本宮アスカノオカモトノミヤに置く
蘇我氏の力に押されて、
政治上の功績をあげないまま
641崩御

とりよろふ
とは
とりわけてよいさまであるの意とも、
すべてのものが集まり
整うの意とも、
宮の近くに寄っている
の意ともいう。

写真は
学校の裏通り
毎年毎年切っても切っても
生えてくる
梶カジの木
足が悪くずっと長いこと
駅まではタクシーかバス
この道を
通ることはなかった
久しぶりに
昨日通ると同じ所に
枝を伸ばしてる
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いなてる片岡山に

2020-07-10 23:09:00 | 和歌と歌人
いなてる
片岡山に
飯イイに飢ウえて
臥フせる
その旅人あはれ
親なしに
汝生りけめや
さす竹の
君はや無き
飯に飢て
臥せる
その旅人あはれ

和歌と歌人10
 聖徳太子
『日本書紀・104』

聖徳太子は用明天皇の子。
推古天皇元年593
皇太子となり
摂政として
冠位十二階・十七条憲法の制定。
国史の編纂。
学術工芸の奨励。
大陸文化の導入に努め、
仏教に深く帰依して
「三経義疏サンギョウギショ」の著述チョジュツ。
法隆寺・四天王の建立。

三経義疏サンギョウギショとは
『法華経』・『勝鬘経』・『維摩経』の
三経の注釈書(義疏・注疏)。

聖徳太子は
推古天皇21年(613)12月1日
片岡カタオカに出かけた。
片岡とは
現奈良県北葛城郡香芝町今泉付近
その時飢えた旅人が
道のほとりに倒れていた。
太子は飲食物を与え、
自分の衣服を着せてやって、
この歌を詠んだ。

近いような遠いような
聖徳太子
遠いけど親しくなりたい
和歌を詠んでるのは
知らなかった

写真は
お弟子様に貰った
御殿場の虎屋の羊羹
美しく美味し
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万葉集巻頭歌 籠コもよ み籠コ持ち

2020-07-07 21:32:28 | 和歌と歌人
籠コもよ
み籠コ持ち
ふくしもよ
みぶくし持ち
この岡に
菜摘ナツます児コ
家イエ聞キかな
名告ナノらさね
そらみつ
大和の国は
おしなべて
我こそ居れ
しきなべて
我こそいませ
我こそば
告らめ
家をも名をも

和歌と歌人9
 雄略天皇ユウリャクテンノウ
『万葉集・巻一、二』

素敵な籠を持って、
とても良いふくし
(菜を取るため掘り起こすヘラ)
を持って
この岡で春の若菜を
お摘みになっている
お嬢様
あなたのお家
あなたのお名前をおっしゃって
この大和の国は
すべて私が支配し
統治しているのだよ
その私がまず言うからね
私の家をも
名前も

万葉集の巻頭の歌。

春の野で若菜摘みをしているおとめに、
雄略天皇ユウリャクテンノウが求婚した
と伝える歌。
春の初めに新しく
萌え出たばかりの野草を摘むのは、
古く神祭りのため。
若菜を摘む乙女は
春菜を神に供え
一年の豊穣を予祝してもらう
神女の資格に立つという。
古代では
女性の名を聞く事は
求婚を意味していた。
女性が男性に名を教えることは、
結婚を承諾する事だった。

雄略天皇ユウリャクテンノウは
第21代天皇
允恭天皇インギョウテンノウの子
勇武にして激しい感情の持ち主。


前にお弟子様の四十階のマンションから
地上を見た
前にスカイツリーの展望台から
地上を見たその時
家並みより先に
川が目に飛び込んできた
マンションからは多摩川が
スカイツリーからは隅田川が
想像以上大きく広く
迫力満点に流れていたのを
思い出した
自然災害の恐ろしさに
震える

写真は
高島屋のうちわ
濱田台児のカワセミ図
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あまだむ軽のおとめ

2020-07-06 21:58:00 | 和歌と歌人
天飛むアマダム
軽カルの嬢子オトメ
甚イタ泣かば
人知りぬべし
波佐ハサの山の鳩の
下泣きに泣く

和歌と歌人8
 木梨軽太子キナシカルノタイシ
『古事記・82』

天飛むアマダムは
軽カルの枕詞
ダムは
トブの音韻変化
軽カルは
奈良県橿原市大軽町のこと
波佐の山は
軽近くの山か

軽のおとめよ
そんなにひどく泣いてしまったら、
他人は我々のことを
感づいてしまうではないか。
あの波佐ハサの山の鳩は
心密かに鳴き続けてる。
お前もずっと忍び泣いているのだね

木梨軽太子キナシカルノタイシとは
允恭天皇インギョウテンノウの子。
古事記には天皇の崩御後、
皇位につくべきであったが、
同母妹ドウイボマイの
木梨軽大郎女キナシカルノオオイツラメに
通じたので
道後温泉に流されたとある。
日本書紀では、
天皇生前の事として、
流されたのは妹の方で
軽太子は皇位継承争いで
弟の穴穂皇子アナホノミコに敗れて
自害したと。

軽太子は
知らないことばかりだった
先日片づけ中
昔に買った日本の天皇
という宝島社の本を
大して見てないが
破棄したばかり
改めて買うほどではないから
取っておけば良かったかしらと
ちょっと悔やんだ
興味はあるが
苦手な部門なので
ホントに欲しくなったら
また買えばよしとしよう

写真は
背の高いのが遠州ムクゲ
背が低く小さいのが
おととい植えた宗旦ムクゲと野紺菊
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我が恋やまむ

2020-07-05 23:07:05 | 和歌と歌人
秋の田の
穂ホの上ヘに霧キらふ朝霞
いつへの方に
我が恋やまむ

和歌と歌人7
 磐姫皇后イワノヒメノオオキサキ
『万葉集・巻二』
秋の田の稲穂の上に
一面に掛かっている朝霞よ。
それがいつの間にか
どこへともなく
消えて行くではないか。
同じように私が
あの方を恋慕う心は、
いつ、どちらの方に
行くのだろうか

磐姫皇后イワノヒメノオオキサキとは
古墳時代の皇妃
葛城カツラギの曾都比古ソツヒコの子。
仁徳天皇ニントクテンノウの后キサキ。
嫉妬深い女性として、
仁徳天皇ニントクテンノウが
吉備黒日売キビノクロヒメや
八田若郎女ヤタノワキイツラメに
心をよせるのを
激しくねたむ話が、
歌謡物語として記紀にある。

古墳時代の人物は
漢字も難しいし
名前を聞いたことがある人もいるが
どのような人物かは
詳しくはわからない

でも
磐姫皇后イワノヒメノオオキサキは
名前も知らなかったが
嫉妬深い性格の仁徳天皇の后
として私は記憶
もっとも
すぐ忘れてしまうけど
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登りて見れば煙ケブリ立つ

2020-07-04 21:04:20 | 和歌と歌人
高き屋ヤに
登りて見れば煙ケブリ立つ
民のかまどはにぎはひにけり

和歌と歌人6
 仁徳天皇ニントクテンノウ
『新古今集・巻七』

高殿タカドノに登って国情コクジョウを見ると、
炊カシぎの煙が
盛んに立ちのぼっているではないか。
ああ民衆の生活はこんなにも
豊かになってきたんだな。
まことに喜ばしいことであるよ。

仁徳天皇ニントクテンノウは
第16代天皇
応神天皇オウジンテンノウの子
記紀に多くの歌謡を伴った伝承がある。
農業を奨励し、
池堤の改修を行い、
朝鮮・宋へ使者を派遣するなど、
仁政を行ったという。

今日は
森金さんと
カサチカさんが
午後からやって来た
サカチカさんが茶花の苗木を買って
森金さんが庭を掃除して
植えてくれた
コロナ禍で植木屋さんが来てくれず
茂ったままの草木を
綺麗にカット
スッキリした
苗は
宗旦ムクゲ2鉢
紫蘭
野紺菊
箱根菊
白花岩桐草イワギリソウ

イワギリソウは
近畿地方以西、四国、九州の
渓谷の岩壁に生える
イワタバコ科の多年草。
崖の岩などに着生し、
草丈5~10cm位となり、
初夏にスミレに似た花を
次々と咲かせる。
毛の多い葉や花の形が
桐(キリ)に似ており、
岩上に生えるのでこの名がついた。
とネットに出てた
植物って楽しい
写真は
箱根菊
育ってくれるかな
可憐なものを見守ろう
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難波津ナニワヅに

2020-07-03 22:12:25 | 和歌と歌人
難波津ナニワヅに
咲くや木コの花
冬ごもり
今は春べと
咲くや木の花

和歌と歌人5
 王仁ワニ
『古今集・序』

この歌は
仁徳天皇の御代ミヨの初めを
祝った歌だと
木の花とは梅の花
また
難波津の歌は手習いの歌として
昔から用いられたという
源氏物語の若紫では
「まだ難波津をだに」
枕草子の二十三段に
「難波津もなにも、ふとおぼえむことを」
とあるから

王仁ワニとは
百済クダラの学者で
応神天皇オウジンの代に渡来したという
古事記には和邇吉師ワニキシとあって、
論語10巻千字文センジモン1巻を
貢進コウシンしたとある。
貢進コウシンとは
貢ミツぎ物を奉タテマツること
実在の人物か
確証はないようだ

百人一首には含まれてはいないが、
全日本かるた協会が
競技かるたの際の
序歌に指定しており、
大会の時に一首目に読まれる歌である。
そうだ

昨日は木曜稽古だったが
午前中は謡の稽古に出かけ
キョロキョロせずにとっとと帰って
午後からは自宅で
お茶のお稽古
今までののんびりゴロゴロ生活とは
なんと違う事よ
今日はゆっくり
のんびり
柿の種食べて一日
過ぎた
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問トひし君キミはも

2020-06-30 20:59:28 | 和歌と歌人
さねさし
相模サガムの小野に燃ゆる火の
火中ホナカに立ちて
問トひし君キミはも

和歌と歌人4
 弟橘比売命オトタチバナヒメノミコト
『古事記25』

(さねさし)とは
相模の枕詞
(君-は-も)とは
文中に用いて上の語を
取り立てて強める意を表す。

相模の野で盛んに燃えている炎の中に
雄々しく立って私の安否を尋ねて下さった
あなた様よ

弟橘比売命オトタチバナヒメノミコトは
倭建命ヤマトタケルノミコトの后キサキ
若建王ワカタケルノミコを生む
倭建命の東征において
走水海ハヤミズノウミで入水ジュスイした
(走水海ハヤミズノウミ)は東京湾浦賀水道

倭建命ヤマトタケルノミコトは
相模国(現神奈川県)の国造クニノミヤツコに
だまされて火攻めにあった。
その時に向かい火をつけて危難を脱出、
国造クニノミヤツコを討ち滅ぼした。
また走水海ハヤミズノウミを渡ろうとしたとき、
渡りの神に荒波を起こされて
船を進める事が出来なかった。
音橘比売命オトタチバナヒメノミコトが海に身を入れるや
波は静まり船を進める事が出来た。
この歌はその時に詠んだ。
別離し、いざ入水するときに
火難の時の心遣いを回想し
夫を深く思慕している。

昔の相模国とは
神奈川県だそうだが
川崎市と横浜市は含まれていないらしい
それらは武蔵国だった
とは
知ってるような
知らないような


今日六月三十日は夏越しの祓い
夏越の祓ナゴシノハラエ
または
水無月祓ミナヅキバラエ
穢ケガれを祓ハラい清め、
無病息災ムビョウソクサイを祈願する
茅チの輪をくぐり、
人型に穢ケガれを移し流したりする。

六月ミナヅキの
なごしの祓ハラヘする人は
千とせの命
延ぶといふなり 
『拾遺和歌集』

半年過ぎた
明日からは
新しい半年が始まる
写真は今日植えた桔梗
早速 雨に打たれた
もう少し背が伸びるといいな
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倭は国のまほろば

2020-06-29 22:07:34 | 和歌と歌人
倭ヤマトは
国のまほろば
たたなづく青垣アオガキ
山隠ゴモれる倭ヤマト美ウルワし

和歌と歌人3
 倭建命ヤマトタケルノミコト
『古事記31』

倭建命ヤマトタケルノミコトは景行天皇の子
日本古代の英雄
悲劇の王として人々から愛されてきた
命ミコトが子供の時に兄を殺害し
その激しい気性を恐れた天皇は
身辺に近づけないために熊曾征伐に出す。
命は女装して宴に紛れ首長格の兄弟を打つ。
その時に瀕死の弟が倭建ヤマトタケルの名前を献じた。
その後山野の荒神や出雲建など平定。
大和に帰還するも、
休む暇も与えず天皇は東国征伐を命ずる。
種々の苦難と戦いながら、
旅先で妻も得たが旅中に
伊吹山の神に障サワって落命する。
その時に歌った思国歌クニシノビウタが
この歌だ。と

(思国歌クニシノビウタ)とは
くにしのひうた
とも
故国を追憶した歌。
また、国土をたたえる歌。
(シノフ)は
ほめる,
遥かなものをしのぶ意。
(まほろば)とは
「素晴らしい場所」
「住みやすい場所」という意味の日本の古語。
「まほらば」「まほらま」「まほら」
ともいう。楽園。理想郷。

「思国歌クニシノビウタ」のこと
知らなかった
まず読めないしね

写真は
大徳寺黄梅院
小林太玄筆
この世にて
雨に降られて
ぬるるとも
晴れて喜ぶ
日のあることを

今の世を詠ってるよう
6/30は夏越しの祓いだ
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みつみつし

2020-06-28 22:40:59 | 和歌と歌人
みつみつし久米クメの子等コラが
粟生アワフには
臭韮カミラ一本ヒトモト
そねが本モト
そね芽
繋ツナぎて
撃ウちてし止まむ

和歌と歌人2
 神武天皇ジンムテンノウ
『古事記12』

威力イリョクある久米の人々の
粟畑アワバタケには臭い韮ニラが
一本生えている
その根や芽が繋いでひとつにして
しまうように
やすやすと敵らを
まとめて撃ってしまおうぞ

てなとこかしら

神武天皇ジンムテンノウは
第一代の天皇
神武天皇の大和入りの際
それを阻ハバむ登美毘古トミビコを
撃退するときの戦闘歌謡のひとつであり
久米歌クメウタでもある

みつみつし とは
久米の枕詞で威勢がよい事を表してる

戦闘歌謡セントウカヨウとは
戦いに臨んでうたう歌で
記紀歌謡キキカヨウにはよく
が詠まれているとの
記紀歌謡キキカヨウとは
古事記と日本書紀に納められている歌
戦いの場面は茶の湯には
滅多に登場しないからか
戦闘歌謡を知らなかった

古事記も日本書紀も私はよく知らないから
仕方ないが
知らない事を調べるのも
事によっては面白い


写真は昨日から
書き始めた和歌と歌人のことを
書く種にしている本だ
飽きたり
面白くなくなったら
やめるかも
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