京都・圓徳院は
慶長10年の創建
高台寺の塔頭である
政所窯というお庭窯もある
家に香合や茶碗などあったはず
探してみよう
圓徳院と言う名前はねねの甥の木下利房の院号だ
利房が伏見城の北政所化粧御殿を移築
ねねが晩年の19年間を過ごしたとか
京都は歴史が身近にある
阿部龍之介の小説「等伯」にも登場した襖絵があった
これが あの襖絵かと感動し松風さまに
ほらほら等伯にでていた襖があるわよ
その襖がこれですって・・・と喜ぶが
でも目の前にあるのは複製だと聞いて
騒いで恥ずかしかった
襖絵は重要文化財
天正17年(1589年)頃の制作。
元は大徳寺の塔頭・三玄院の方丈を飾るものだったが、
明治初期の廃仏毀釈によって流出し、
今日では円徳院に山水図32面が、
京都楽美術館に松林山水図4面が、それぞれ分蔵されている。
等伯はかねてより三玄院で襖絵を制作するを懇願していたが、
住持春屋宗園は修業の場に絵は不要と相手にもしなかった。
ある時宗園が2か月ほど留守をすることを知った等伯は、
この時ぞとばかりに三玄院に押しかけ、
止める雲水たちを振り切って客殿に上がり込み、
一気呵成にこの襖絵を描いた。
帰ってきて事の次第を知った宗園は
いたく立腹しつつも絵の出来栄えには感嘆し、
結局この襖絵を認めてそのままにしたという。
襖絵の料紙が作画にはおよそ不向きな
雲母刷り胡粉の桐紋様の唐紙であることから、
この逸話はおおよそ事実に近いと考えられている。
全36面もの襖絵のすべてを
桐紋様の上に描いた作品は
他に例を見ない特異なものとしても知られている。
また、雲母刷りの桐紋様を
降り続く雪に見立てていることが特徴である。
≪ウィキペディアより≫
原本は京都国立博物館と石川県七尾美術館に寄託されている とのことだ
下の写真は
圓徳院の出口の近く歌仙堂
お仲間がお二人でお参りしている
私の分もお願い
歌が上手になるように
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