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哲学はなぜ間違うのか

why philosophy fails?

真理は重要ではない

2008年10月26日 | x8私はなぜ言葉が分かるのか

Rubensx

しかしながら、ここで安心して、「言葉は万能だ。言葉を上手に使いこなせば、人間は何でも表現できる。この世の真理を究められる」などと誇大な妄想を抱くのは間違いです。言葉に真理を期待し、言葉を磨くことですべての問題を解決しようとすることは、危ない。たとえば、学説や経典や哲学書などに究極の答えを求めようとすると、ひどい落とし穴に落ち込んでしまいます。

私たち人間の言語(自然言語)は、もともと、(拙稿の見解では)物質以外の経験を正しく表現することができない。人間の言語は、人間どうしを深く結びつける素晴らしい機能を持っていますが、それは真実を語れるからではない。語る内容にかかわりなく、まず対話の存在に反応してお互いの身体の感覚と運動が共鳴することで、人間どうしは結びつけられる。世界の真理を語るという機能については、言語は完全ではない。つまり、人類の生存と繁殖にとって、この世の真理を語り得るかどうかは、たいして重要な問題ではなかった。真理追求の機能ではなく、人間どうしの感覚と運動を共鳴させて、集団的な協力を作り上げるという機能が人類の生存繁殖に役に立ったから、言語は現在も存続している。

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錯覚は人類の財産

2008年10月25日 | x8私はなぜ言葉が分かるのか

社会構造を構成する身体運動‐感覚受容シミュレーションは個々の社会に特有ですが、それによって社会構造を学習する脳のシステムは(拙稿の見解では)人類共通です。人類の脳が共有するこの社会学習システムが、人類の繁栄の基礎となった。だから脳のこの仕組み(社会学習システム)が私たち現代人の身体に定着している。人情や人間関係を表現するのに便利な人称代名詞、敬語、意思表示表現など、多様な言語表現が、この仕組み(社会学習システム)の上で共進化した。

客観的物質世界を正しく表現していようといまいと、錯覚であろうとそうでなかろうと、現存の言語が表わすものは、私たち現代人の物質生活や社会生活に不可欠のインフラ構造になっているから、現実に使われている。それは毎日の生活に不可欠な、人類の貴重な財産に違いありません。これからもこれらを大いに使いこなして、人類は繁栄を続けるでしょう。また、そうする以外に、人類が存続することはできません。

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社会構造⇔ゲーム得点

2008年10月24日 | x8私はなぜ言葉が分かるのか

Rubensvenus

私たちは、人称構造を備えた言語によって、他人を確認し、自分を確認する。私たちは、他人と自分との相互関係、互いの立場や役割、を交換可能な場として客観的世界の中に作り出すことで社会構造を安定させる。同時に、社会構造を集団的な感情共鳴に反映させて価値を共有化する。その価値を得点として組み込んだゲームを作り出して仲間と共有し、仲間の一員となり、そのゲームの内部で協力したり競争したりしながら、懸命にプレイする。それが私たちの社会的生活です。そういうふうに組み立てられた私たちの価値観、人生観の共有関係が組み合わされて、現実の社会構造ができている。

その社会構造が、また集団的な条件反射として、私たちの身体にしっかりと埋め込まれている。私たちの身の回りで起こる物事の社会的意味は、私たちが学習した集団的な条件反射によって無意識のうちに私たちの身体の反応を引き起こすことで、客観的世界の中に現れる。それらの学習された条件反射による運動共鳴は、さらに言語を媒介として、連想による身体運動‐感覚受容シミュレーションを呼び出し、感情機構に反映して、連鎖的に私たちの社会的行動を引き起こす。

つまり、私たち一人一人の脳に、集団的な学習によって身体運動‐感覚受容シミュレーションとして埋め込まれた現実としての社会構造が、言語を媒介として連鎖的に運動共鳴を引き起こすことで人間の社会が動いている。

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キャラクターの交換可能性

2008年10月23日 | x8私はなぜ言葉が分かるのか

人々は、このように、互いの自己中心視座を再認識し、運動共鳴によってその使い方を共有し、その共有の上に作られる人称構造文法を使って互いの自己中心視座に憑依しあう。この仕組みによって私たちの社会構造は維持できる。人々は互いに相手の立場に入れ替わって、考えたり感じたりすることができる。人の立場や役割やキャラクターや地位を、場合によっては自分もそれに成り代わる可能性があると感じられることで、交換可能な属性と捉えることができる。

立場や役割やキャラクターや地位が交換可能な属性として共通の認識対象になれば、それらは人々の間で共有することができる。お互いの視座に伴う立場や役割などの属性が、はっきりした存在感を持って共有できる感情の対象となる。そして、人々が、そのようなそれぞれの場に置かれていることが人称構造を備えた言語によって表現されることで、他人というものも自分というものも、それぞれの立場や役割やキャラクターや地位を伴った客観的世界の中にある自己中心視座としての存在感を持つようになる。この仕組みによって、(拙稿の見解では)他人あるいは自分というものが、はっきりと客観的に存在する(と感じられる)ようになった。

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三人称の上に一人称を作る

2008年10月22日 | x8私はなぜ言葉が分かるのか

Rubensthreegraces

私たち大人が言語を使うとき、自分をどう表現しているでしょうか? 話し手は、聞き手が、話し手をまず人間として見てくれていることを確認します。これは当たり前ですね。話し手と聞き手は、おたがいを人間どうしだと思っているから、ふつうに会話しているわけです。話し手は、まずは、人間の一つとして、動いたり感じたりすることを表現する。それを述語で表現する。人称構造を使うと三人称で表現される。つまり、話し手は聞き手と共有する客観的世界の内部を動き回る三人称で表される人間の一つとして自分を表現する。次に、話し手は、赤ちゃん返りのふりをして、自己中心視座から一人称で自分を表現する。

ふつう、これでセンテンスが完成して、発声されます。こうして、三人称→一人称と変換される過程で一人称表現は作られる。これを繰り返しながら、(拙稿の見解では)私たちは言語を操っている。一人称表現はその下敷きとしての三人称表現の上に作られている。私たち大人が一人称を使って自己中心視座を表現している場合、それは本当の赤ちゃん的視座ではなくて客観的視座の下敷きの上に作られている見掛けの赤ちゃん返りだといえる。

ちなみに、一人称や三人称を駆使して書き下される小説や、カメラのアングルで登場人物の視野を表現する映画や、吹き出しで内語を表現するマンガ、あるいはビデオゲームなどを見ると、私たちが楽しむ物語やドラマやゲームの表現は、このような二種類の人称(一人称と三人称)つまり二種類の視座(自己中心視座と客観的視座)の混合によって作られていることが分かる。

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