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哲学はなぜ間違うのか

why philosophy fails?

ニセ赤ちゃん

2008年10月21日 | x8私はなぜ言葉が分かるのか

言葉を使える私たち大人の赤ちゃん返りは、本当の赤ちゃんのナイーブな自己中心的行動をそのまま再現するものではない。言語を使う限り、本当の赤ちゃんにはなれない。言語という構造は仲間と共有する運動共鳴を土台として作られているので、仲間の視点を持たないナイーブな赤ちゃん的自己中心視座を、そのまま再使用することはできない。

私たちが言語を使う場合は、話し手と聞き手は、(拙稿の見解では)無意識のうちに、互いに相手の自己中心視座を認め合い、互いにそれに憑依しあうことによって、運動共鳴を共有する。こうして、互いの自己中心視座は客観的視座から認められる存在感を持つことで、あたかも客観的物質世界の一部分であるかのように扱うことができる。私たちが、このように、他人の身体の中にあるその人の自己中心視座に憑依できるかのように感じられるとき、その人の内面に、心といわれるものの存在感を感じる(拙稿8章「心はなぜあるのか?」)。こうして(拙稿の見解では)人称構造は全般の言語構造の中に埋め込まれていく。

逆説的な言い方をすれば、自分が赤ちゃんに見えると知っている赤ちゃんは本当の赤ちゃんではない。それは赤ちゃん返りのふりをしている大きな子供です。

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拝読ブログ:「進化と人間行動」の感想 

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赤ちゃんの孤独

2008年10月20日 | x8私はなぜ言葉が分かるのか

Rubenspeace

私たちの脳内にあるこのような憑依機構の上に(拙稿の見解では)言語は作られている。話し手は聞き手が、話し手の視座に憑依してくることを期待して、話し手自身の自己中心視座から見える光景や感じる世界を言葉で表現する。これが(拙稿の仮説による)人称構造の起源です。つまり、人称構造の発明によって、話し手は、聞き手を話し手の自己中心視座に引き込み、話し手の視界を聞き手が今見渡しているという前提の下に話を展開することができる。

話し手は自分ひとりで孤独に孤立して自己中心視座に座っているのではなく、一人の、あるいは多数の聞き手、つまり仲間とともに集団として、自分の自己中心視座から客観的世界をながめている。こうして私たちは、安心して、聞き手が分かってくれることを期待しながら、自己中心視座から見える世界を語ることができる。自分を理解してくれる人がいるのかいないのかも分からずに泣き喚いている赤ちゃんの孤独に陥る恐れなしに、安心して、私たちは赤ちゃん返りができるようになった、といえる。

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ポップアップされる自己中心視座

2008年10月19日 | x8私はなぜ言葉が分かるのか

あるいは、もっとよい比喩は、マンガの手法に使われる吹き出し、でしょう。マンガのコマの中に描かれた人物の頭の辺りから吹き出しが出て、その中に文字が書かれる。単純な形の吹き出しには、ふつうセリフが書かれるが、もうひとつ別種の、モコモコした雲型曲線で囲まれたタバコのケムリ状の吹き出しが使われることがよくある。そこには口に出さない言葉、つまりその人物が今思っているけれども言わない心の中の言葉(内語)が書かれている。

コンピュータゲームを作る場合、アイコンや人物像をクリック(またはマウスカーソルをアイコンに移動)すれば、吹き出しがポップアップされるように作ることができる。モコモコ雲型の吹き出しにして、その人物が内心で思っていることを文字で書ける。文字の代わりに絵に描くこともできる。そういう吹き出しの代わりに、その人物から見た自己中心視座からの光景をポップアップさせることも技術的には可能です。その仕組みは、私たちの脳内に映っている客観的世界の内部で、それぞれの人物にその自己中心視座を貼り付ける憑依機構の働きと同じものとなります(実際そういうゲームが製作されているかどうか、筆者は不勉強で、知りませんが)。

拝読ブログ:SL動画にマンガの吹き出しセリフを付けるサービス

拝読ブログ:文章の書き方シリーズ その1 一人称と三人称

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他人あるいは自分の外面

2008年10月18日 | x8私はなぜ言葉が分かるのか

Rubensleucippus

こうなると、子供は、言語化されていない赤ちゃん時代からの自己中心視座を、他人あるいは自分の外面に貼り付けて外面化することで、言葉によって外面的に表現することが可能になる。自分が自己中心視座から世界を見ているのと同じように、他人もそれぞれの自己中心視座から同じ世界を見ている、という客観的世界の存在感を感じ取る。

テレビで野球を見ると、センター方向からのカメラが、バックネット側や一塁側のカメラに切り替わったり、戻ったり、自由自在に移動しますね。カメラ切り替え係りの人がしているのですが、この仕事は、私たちが脳内で他人の視座に憑依する仮想運動と似ています。いくつものカメラが、いろいろな方向から同じ一人の投手の投球運動を見ている。投手の現実的な存在感が、このことではっきり感じられる。私たちが現実世界を見てとる場合も(拙稿の見解では)同じように、自分の目の位置からの自分だけが見える光景だけでなく、いろいろな位置にいる他人の目に映る光景を無意識に想像しながら立体的に現実の有様を読み取っている。

拝読ブログ:人の顔

拝読ブログ:“大人”のXbox360プレイリポート、3本立て

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自己中心視座の外面化

2008年10月17日 | x8私はなぜ言葉が分かるのか

自己中心視座は、もともとは、言葉を話せない赤ちゃんたちの認知世界の構造です。自己中心視座だけを使っていた赤ちゃん時代を終え、子供が幼児になると、家族や仲間との運動共鳴により客観的世界を共有することによって、客観的視座を獲得する。そして、言葉を話すようになる。幼児の発達過程において、運動共鳴による客観的視座の獲得が(拙稿の見解では)客観的物質世界の存在感の獲得とそれによる言語の習得のための基礎になっているからです。

次に幼稚園に入るころ、子供は、さらに運動共鳴を利用して、仲間の視座に乗り移る憑依運動を獲得する。仲間の人間と自分は、同じように、それぞれの自己中心視座から世界を見渡している、という相互的人間関係の存在感を獲得する。このときから、子供は、自己中心視座を仲間の人間の内部に自由に移動させることができる。つまり自己中心視座を、客観的視座が作る客観的世界の内部に埋め込んで、自由自在に扱えるようになる。子供が成長して、人の心が分かるようになった、ということです(拙稿8章「心はなぜあるのか?」)。

こうなると、子供は、言語化されていない赤ちゃん時代からの自己中心視座を、他人あるいは自分の外面に貼り付けて外面化することで、言葉によって外面的に表現することが可能になる。自分が自己中心視座から世界を見ているのと同じように、他人もそれぞれの自己中心視座から同じ世界を見ている、という客観的世界の存在感を感じ取る。

拝読ブログ:発達科学・発達心理学を考える:Mental verbの獲得について考える② 

拝読ブログ:みかんとフロイト。

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