言葉を使える私たち大人の赤ちゃん返りは、本当の赤ちゃんのナイーブな自己中心的行動をそのまま再現するものではない。言語を使う限り、本当の赤ちゃんにはなれない。言語という構造は仲間と共有する運動共鳴を土台として作られているので、仲間の視点を持たないナイーブな赤ちゃん的自己中心視座を、そのまま再使用することはできない。
私たちが言語を使う場合は、話し手と聞き手は、(拙稿の見解では)無意識のうちに、互いに相手の自己中心視座を認め合い、互いにそれに憑依しあうことによって、運動共鳴を共有する。こうして、互いの自己中心視座は客観的視座から認められる存在感を持つことで、あたかも客観的物質世界の一部分であるかのように扱うことができる。私たちが、このように、他人の身体の中にあるその人の自己中心視座に憑依できるかのように感じられるとき、その人の内面に、心といわれるものの存在感を感じる(拙稿8章「心はなぜあるのか?」)。こうして(拙稿の見解では)人称構造は全般の言語構造の中に埋め込まれていく。
逆説的な言い方をすれば、自分が赤ちゃんに見えると知っている赤ちゃんは本当の赤ちゃんではない。それは赤ちゃん返りのふりをしている大きな子供です。
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