それらは、科学で扱われる物質の属性や、経済で扱われる貨幣による価格など、目に見えて数字で表わせるものよりもずっとあいまいなものです。たとえば、命一個の重量は何グラムか? 心一個の値段は何円か? A君の欲望はB君の欲望に比べて、何倍あるのか? 測定方法もない。どの本にも書いてない。だれに聞いても答えられません。
それにもかかわらず、命も心も欲望も、人間にとっては、物質や金銭よりもずっと重要なものと感じられる。私たちにとってそれらの錯覚は、錯覚というのがはばかられるような重い存在感を持っている。命は地球よりも重い。心はお金で買うことはできない。あの人はだれよりも欲が深い。などと言う。私たちは、それらの存在感をはっきり分かっている。それらは、人間だれもにとって、無意識のうちに身体が共感し共鳴して動いていくことで、客観的なものであるかのように安定して存在する。
命、あるいは、心、欲望、存在、自分、生きる、死ぬ・・・私たちは、これらの存在によって私たち人間が動いている、という感覚を体感する。その動きは、私たちだれもがよく知っている、世の常識、に従っていると感じられる。その常識を使って、私たちは、他人や自分の、毎日の行動を予測することができる。それらの存在やその常識は、しかしながら、実は、物質現象ではない。物質現象でないものは科学では説明できない。そしてそれらは物質現象ではないが、私たちがよく知っている常識として、れっきとした法則にしたがっている。それは、科学でいう自然法則とは別の、信頼性と再現性のある法則である、と感じられます。
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