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哲学はなぜ間違うのか

why philosophy fails?

現実という虚構

2009年10月02日 | xx私はなぜ息をするのか

私たちの身体がその一部になっていると思えるこの客観的現実世界は、(拙稿の見解では)実は私たちの身体が作り出している。人間の身体が仲間の動きと共鳴することで映し出されてくる現実という虚構の世界です。

そのことに私たち自身は気がつくことがない。自分の身体のこの仕組みを私たちは自覚できない。しかしもしそうであるとすれば、この現実世界全体は私たちの身体の一部分としてある。それは私の仲間の運動や感覚と共鳴して私の身体が感じ取る世界の存在感です。これは私たちの身体の一部分であって、すべてではない。実際、この現実世界は、私たちの身体が感じ取る物事の小さな部分でしかない。

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生臭い自分の身体

2009年10月01日 | xx私はなぜ息をするのか

Ertew

目に見える自分の身体を、ペットのように愛する。それを世界の中心と思うようになる。そうして、客観的で冷たい無機質な物質でできている身の回りの現実と生臭い自分の身体が発する感情との間のギャップに悩んだりする。それを高尚なことだと勘違いすると、間違った哲学になります。

テレビに向かっていくら声援を送っても、それとは無関係にチームは負けてしまう。ペットをどこまでも愛したとしても、それは生物体として、自然に死んでしまう。自分の身体という物質を、私たちがどこまでも愛したとしても、やはりそれは生物体として、自然に死んでしまうのです(拙稿15章「私はなぜ死ぬのか?」)。客観的な物質世界の現実は、私たちの内部の感情とは無関係に動いているからです。そのことは、私たちはよく知っている。大人になった人間は、それを知りすぎるほど知っています。

それでも、それにもかかわらず、やはりそういうとき、私たちはやりきれないむなしさを感じることがある。目の前のこの現実が、なにかうそっぽい幻のようなものに思えてくる。こういうとき私たちはだれもが、この目の前にある客観的世界だけが唯一の現実だという間違った哲学に冒されている。

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お気に入りの身体

2009年09月30日 | xx私はなぜ息をするのか

幼児のころから慣れ親しんできたこの身体を、いつのまにか私たちは、お気に入りのゲームの主人公のように、ひいきのサッカーチームのように、愛玩するペットのように、愛するようになる。

私たちは、お気に入りのゲームの主人公の動きを、ひいきのサッカーチームの動きを、そして愛玩するペットの動きを注目する。そうすると、それが何をしようとしているかが予測できる。その予測によってそれがしようとしていることを、それの欲望と感じる。その、お気に入りのゲームの主人公の、ひいきのサッカーチームの、そして愛玩するペットの、欲望が、私たちの欲望になる。それと同じ仕組みで、私たちは私たちの身体の欲望を私たちの欲望と思い込む。そしてその身体がするであろうと予測される行為を私たちの意志と思う。

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運動出力と感覚入力

2009年09月29日 | xx私はなぜ息をするのか

Ertev

私たちは、自分が感じる内部感覚や感情を、目の前に見える現実世界の一部であるように見える私たち自身の身体という物質に貼り付けて感じ取る。この身体という物質がそれらの内部感覚や感情を発生している、と感じる。内部感覚や感情ばかりでなく、見えるものも聞こえるものも、自分のこの身体という物質が感じている、と思っています。たしかに、感情が高ぶって涙が出るのはこの目だし、その目をつぶればものは見えない。この耳をふさげば音は聞こえない。

しかし結局、(拙稿の見解では)それはそういう理屈でそう思うのではなく、身体でそう感じる。つまりそういう運動感覚シミュレーションがうまく物事を予測できるから、私たちの直感はそう感じるように学習した。運動出力と感覚入力がうまくシミュレーションにあわせ込める。そのマッチングのシミュレーションに使える物質世界の対象物を、私たちは、自分の身体と思う。そうしてとらえた自分の身体を使いこなす感覚が身についてくる。使いこなしていく自分の身体に慣れ親しんできます。

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なぜ現実は唯一なのか?

2009年09月28日 | xx私はなぜ息をするのか

ここで重要なことは、このような現実の作られ方を私たちは直感ではまったく感じ取ることができない、ということです。複数のいろいろな現実が現れることがある、ということも直感では感じられない。それらの現実がときには矛盾することも、私たちの直感は感じ取れない拙稿19章「私はここにいる」)。むしろ私たちの直感では、現実はただ一つしかない。そして完結している、と感じられる。

私たちにとって現実は、はっきりとここにそれがある、としか感じられません。逆に言えば、そうでなければ困ったことになってしまう。現実が唯一でなければ、私たちは確信を持って身体を動かすことができませんからね。

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