哲学はなぜ間違うのか

why philosophy fails?

赤色という色は赤い

2009年10月04日 | xx私はなぜ息をするのか

たとえば認知科学で、自分だけしか感じられないと思われる生々しい感覚そのものの存在を問題にする議論がある(クオリア論など、一九九五年 デイヴィッド・チャーマーズ『不在クオリア、薄れ行くクオリア、踊るクオリア』既出、一九八二年  フランク・ジャクソン随伴現象クオリア』既出)。「私が感じている赤色は、あなたが感じている赤色とは違うかもしれない」という問題などです。赤色を感じるときの感じとは何か? 私たちが人と共感できることは、赤色という色は赤い、と言葉で言えることだけです。赤色の感じについて言葉で語れることはそれしかない。赤色の感じそのものについては、私たちはうまく語れない。

語れないことを語ろうとすると、この世には科学で説明できない不思議なものが存在することになってしまう。人とは通じない感じがあるとしても、それを言葉で言うことはできない。実際、人と共有できないけれども感じられるという物事はたくさんあります。

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