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哲学はなぜ間違うのか

why philosophy fails?

哲学の科学

2006年11月25日 | 1哲学はなぜ間違うのか

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拙稿では、一般に哲学という人間の営みを、その外側、というか、裏側(メタ側?)から、生物学的かつ工学的に考えていくことになります。つまり哲学的問題に悩んでいる人間の肉体とその脳、の物質的メカニズムと情報処理システム、そして地球上にそれを生み出してきた群棲動物としての人間集団の生態とその進化のプロセスなどについて注目します。人間というシステムを、脳を含む人体を生存環境の中でいかに効果的に設計変更していくかというDNA(正確にはゲノム)繁殖戦略のゲームの解のひとつ、とみる見方です。いわば、典型的な科学的アプローチですが、この方法を人間の感情、認識、あるいは言葉という現象、科学そして哲学という現象、に素直に当てはめていくと、いままで解決不可能とみえた諸問題がすっきり解けていく可能性があります。

さらに科学的アプローチの対象を哲学という観察者の主観に絡んだ現象とすることから、ふつうの科学のアプローチを超えて、いわゆる主観客観問題に切り込んでいくことができます。つまり自我問題のような観察者と観察対象との自己包含関係の問題を自然に解決していけることが期待できます。これは科学全体を、観察者と観察対象の関係がつくる二元論の謎から解放し、精神と物質の両方の難問を同時に片付けるという一挙両得を狙える可能性があります。

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錯覚としての哲学

2006年11月24日 | 1哲学はなぜ間違うのか

つまり筆者は、哲学という活動を、生物としての人類の群集団が集団運動の共鳴によって共有する脳の錯覚の問題、とみなせるのではないか、という観点で考えています。

またこうすることで、哲学でいういわゆる解決されない諸問題、心身二元論心脳問題、認識論、存在論、独我論、自我問題意識問題主観客観問題などが、すべて解明できていくはずだ、という立場をとっています。

これら哲学の伝統的な問題は、現代哲学においても、「人間に自由意志はあるのか?」とか、「人間は、なぜ他人の心が分かるのか?」とか、「コンピュータに言語の意味は分かるのか?」、あるいは「意識とは何か?」、「クオリアとは?」、「意識のハード・プロブレムとは?」などと形を変えて提起されています。これら現代哲学の諸問題といわれるものも、これらが人間の集団的な脳の錯覚の共鳴から生ずるものとして解明できます。人類の脳の働きが、なぜいまあるように進化したかを考えれば、これは自然に思いつく発想です。

しかし筆者が探した限り、国内にも国外にもこのような発想をきちんと展開した文献は見つかりませんでした。くしゃみとあくびと哲学の関係を論じた論文はありませんでしたし、歌と踊りと芝居、あるいはゲームとセックスが哲学になっていく発達理論も見つかりません。

たぶん、いまのところ、これは拙稿独自の見解なのでしょう。結局、拙稿はいわゆる現代哲学の流れとはかなり立場が離れてしまっているようです。また古典哲学、近代哲学などと呼ばれる過去の偉大な西洋哲学とも拙稿の見解はほとんど無関係と言わざるを得ないようです。

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裏側から哲学

2006年11月23日 | 1哲学はなぜ間違うのか

欧米や日本での現代の哲学者は、もちろん、拙稿が提起するような言葉の限界に関する問題についても、近代西洋哲学の流れを汲む現代哲学の方法(分析哲学など)で心理や言語の理論として研究しています。それらはまたいろいろ魅力的な理論(たとえば、カテゴリー間違い論、意図問題、双子地球論メリーの部屋問題無限後退論など)を作り出しているので、いろいろかじることが好きな筆者などは、素人なりにそれらを論評してみたい誘惑にもかられます。しかし拙稿では、これらの諸説から引き出す議論はしないことにしましょう。それらについては専門家による良書が多くあるからでもありますが、哲学を遠く外側(裏側?メタ側?)から眺める拙稿の独自の見解は、既存の哲学の中身とは連結していないからです。

拙稿では、哲学の諸問題を哲学の伝統と歴史からひとまず切り離して、ずっと外側から自然科学を下敷きにして捉えていきます。存在論認識論というような深遠な概念から西洋哲学は始まりますが、筆者は、くしゃみ、あくび、貧乏揺すりとか、血圧、動悸、冷や汗、あるいは空耳、座敷わらし、さらに複数の人間集団がする歌と踊りと芝居、またはゲームやセックス、など卑近な身体運動から、哲学という人間の集団活動を調べようと思っています。

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いまさら後戻りはできない

2006年11月22日 | 1哲学はなぜ間違うのか

なぜ、世界の中で西洋文明だけが一人勝ちしていくのでしょうか。明治維新いらい、西洋と東洋の間を行ったり来たりしながら合いの子のように生きてきた日本人は、ずっとこの謎に悩んできましたが、いまだにすっきりした答えは見つかっていないようです。

たしかに、科学や医学、産業技術のような実用的な知識ばかりでなく、法律、社会制度、金融、経済政策、思想、芸術、エンターテインメントなど現代の文明的なものは、残念ながら東洋からは少なく、多くが西洋から発信されています。つまり結局は、各国語に翻訳された西洋の言葉を使って現代文明は表現され使いこなされているのです。それだけ西洋の考え方、その根底を作る西洋哲学が世界中の人々に信頼されているのです。欧米から湧き出て地球全体に拡散するその流れは、現在、グローバリゼーションとも呼ばれています。

ところが、大成功したはずの西洋哲学が、二百年くらい前から、だんだんとおかしくなってきました。西洋哲学自身、百年ほど前からこの自らのおかしさに気づき始めたようです。現在、現代哲学や脳科学の研究者たちから、いろいろな形で近代西洋哲学への懐疑論が提起されています。しかし私たち現代人は、いまさら後戻りはできない。その哲学の上に築かれてしまった現代文明の重みのために、もう修正は難しいでしょう。

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西洋文明は人類全体のお手本

2006年11月21日 | 1哲学はなぜ間違うのか

ギリシアで発生し、ローマ帝国でキリスト教と融合して発展した西洋哲学が繰り出す力強い言葉に負けない文明はありませんでした。まず原始的な呪術を信仰していた北方のゲルマン人がキリスト教に改宗し文明化しました。このギリシア・ローマ・キリスト教文明がヨーロッパ中に広がったから、現代それが、ヨーロッパ文明、つまり西洋文明と呼ばれているわけです。この文明を身につけたスペイン、ポルトガル、オランダ、イギリス、フランス、ロシアなどの各国は 次々と新世界やアジア、アフリカに乗り出して、西洋哲学で鍛えられたヨーロッパ言語で世界中の人々を説得し始めたのです。その説得は言葉と同時に銃火器も使い、カステラやコーヒーなど魅力的な物質生活の輸出もその文明の普及に威力を発揮しましたが、とにかくそれらは大成功し、この数百年の間に、西洋文明は人類全体のお手本となりました。

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