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哲学はなぜ間違うのか

why philosophy fails?

人間はどこまでも進歩する

2006年11月20日 | 1哲学はなぜ間違うのか

その考え方に自信を得た人々は、言葉を洗練させ雄弁に語り合って、宗教を深め、哲学を確立し、正しい行いと間違った行いとをはっきりと区別しました。それからその正義にもとづいて子供達を教育し、また法律を作りました。同時に偉大な神が創造した偉大なこの宇宙を詳しく知るために自然科学を研究したのです。

特に早くから言葉を精緻に洗練させて実用的な法律、制度や近代科学を作り上げたのはヨーロッパの人々です。民主主義を発明し、広場での堂々とした議論を好んだ古代ギリシア人たちから始まる伝統でしょうか? ヨーロッパの知識人はギリシア哲学の古典を学び、理性に基礎づけられた自分たちの言葉に自信を深めていきました。その磨かれた言葉や論理を万能と思い、それですべてが解明できると思っていたようです。

正しく言葉を使って知識を深め、正しい議論を進め、考え方を洗練させていけば、人間はだれもが全知全能の神に近づくことができる。何事も議論を尽くせば正しい結論に到達できる。言葉を使いこなして真理を追求して行けば、必ずこの世のすべては解明できる。どんな野蛮人でも外国人でも、人間ならばだれもが、言葉で文明に開化できる。人間はどこまでも進歩し、知識を高め文明を発展させ、ますます聡明になり幸せになっていく、と思っていたのでしょう。

その理想に燃えて、西洋の人々は言葉を洗練させ、はっきりした言葉の使い方を法律や制度や慣習として社会に浸透させました。言葉を徹底的に使いこなすことで哲学を磨き、キリスト教の神学を発展させました。

哲学で理論武装した力強い言葉は古い呪術的なものを破壊し、新しい力強いものを作る能力がありました。それが正義を守る法律を作り、真理を表す科学を作り、生活に役立つ産業を作って世界中に広まり、アジア、アフリカ、アメリカ、と西洋文明の植民地を拡大していったのです。

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哲学者たちはよく間違う

2006年11月19日 | 1哲学はなぜ間違うのか

しかし大哲学者たちはよく間違うのです。こういう人たちは真理の追究に熱心なあまり、根っこのところを、よく勘違いしてしまうのですね。

哲学者たちは、神秘的で深遠な言葉の中に、この世の究極の謎と真理の匂いを感じ、怖れ敬う気持ちを持ったのでしょう。そして、その謎と真理をなんとか解き明かしたい、と勇躍奮励して彼らの哲学を作っていったに違いありません。

哲学者たちはこれらの言葉の意味を深く考え抜き、言葉を使って理論を発展させました。そうすることで世界と人間の原理をどこまでも理解することができる、と人々に教えました。

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底なしの落とし穴

2006年11月18日 | 1哲学はなぜ間違うのか

こういう言葉たちを、深く考えること自体が危険なことなのです。深く考えるほど、ずるずると、底なしの落とし穴に落ち込んでいくのです。近頃、若い人の間ではやっているらしい自分探しなど、一番いけません。人間をだめにするだけです。その理由は後で述べます。

むずかしい哲学の問題を考え抜いた過去の哲学者たちの努力は尊い、と思います。彼らは、本当の意味で、尊敬すべき善意の人たちだったと思います。ただ筆者が少々いじわるに観察するところ、西洋近代(日本もたぶんその一部)の知識階級は大哲学者たちを真理を語る天才と思い込み、その学説を崇拝しすぎる嫌いHatena6があるようです。一種のフェティシズムですかね。

かつて長老や高僧を崇拝した遺伝子がそうさせるのでしょうか。<shapetype id="_x0000_t75" stroked="f" filled="f" path="m@4@5l@4@11@9@11@9@5xe" o:preferrelative="t" o:spt="75" coordsize="21600,21600"> <stroke joinstyle="miter"></stroke><formulas><f eqn="if lineDrawn pixelLineWidth 0"></f><f eqn="sum @0 1 0"></f><f eqn="sum 0 0 @1"></f><f eqn="prod @2 1 2"></f><f eqn="prod @3 21600 pixelWidth"></f><f eqn="prod @3 21600 pixelHeight"></f><f eqn="sum @0 0 1"></f><f eqn="prod @6 1 2"></f><f eqn="prod @7 21600 pixelWidth"></f><f eqn="sum @8 21600 0"></f><f eqn="prod @7 21600 pixelHeight"></f><f eqn="sum @10 21600 0"></f></formulas><path o:connecttype="rect" gradientshapeok="t" o:extrusionok="f"></path><lock aspectratio="t" v:ext="edit"></lock></shapetype><shape id="_x0000_i1025" o:button="t" href="http://musai.blog.ocn.ne.jp/.shared/image.html?/photos/uncategorized/hatena6.jpg" alt="Hatena6" type="#_x0000_t75" style="WIDTH: 75pt; HEIGHT: 120.75pt"><imagedata o:href="http://musai.blog.ocn.ne.jp/jijimusai/images/hatena6.jpg" src="file:///C:DOCUME~1ADMINI~1LOCALS~1Tempmsohtml11clip_image001.jpg"></imagedata></shape>高僧がつかった風呂の水を飲めば、長生きするとか。あるいは、蒙昧な世間常識を打ち破って真理を語ってくれる天才的な個人、というものを渇望する気分がそうさせるのでしょうか? あるいは自分は頭が良いから難解に語られるその深遠な真理を理解できるのだ、と自分自身思い込みたいからでしょうか。そのためには、大哲学者は、至極難解な言葉を語る天才であるほうが好ましいわけです。

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哲学の正しい出発点

2006年11月17日 | 1哲学はなぜ間違うのか

さて、・・・古代ギリシアの時代から偉大な西洋哲学が始まります。(西洋哲学の歴史と過去の哲学者の業績がいかに偉大であったかについては、拙稿ではほとんど言及しません。正確に知りたい読者は市販の哲学入門書〔マンガもあります〕を買うか、なんとかペディアという無料のインターネット百科事典などで調べてください)

過去の哲学者は、言葉を自在に操って、人生の深遠な謎を研究しました。

人生の謎は、次のような尊厳に満ちた言葉で言い表されます。

命、心、欲望、存在、

言葉、自分、生きる、死ぬ、

愛する、憎む、幸福、不幸、

世界、人生、美、正義、

・・・・

深遠な響きを与える言葉たちです。昔も今も、世界中の人々が作る詩歌やポピュラーソング、少女漫画、伝承の物語、感動のテレビドラマのセリフなど、必ずこれらの言葉が使われています。人間はどこの国の人でも、こういう言葉を人生で一番大事な言葉だと思って生きているのです。

「人生、わずか五十年、最近では百年かもしれないけれど、不老不死のドラキュラたちに比べれば、夢か、幻みたいなものだよね。一度この世に生まれてきたということは、いずれはいなくなるということなのさ」と、幸若舞とかでも歌われています。日本人が大好きな歌ですね。

哲学は、こういう人生の根源であるような直感的にはっきりと存在感のある概念を議論の基礎に据えて出発しました。

これは当然、正しい出発点である、と思えますね。

しかし、筆者の考えでは、それがそもそもの間違いです。

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言語技術者

2006年11月16日 | 1哲学はなぜ間違うのか

それにしても、哲学はどのあたりから間違えてしまったのでしょうか?

筆者の考えでは、それは人々が「自分たち人間は言葉がはっきりと分かる。何事も言葉でしっかり説明すればお互いに理解できる」という西洋古典哲学以来の思い込みが過ぎたところからです。特に、言論を職業にする知識人、聖職者、教師、作家、思想家、哲学者たちが、それです。

こう言うと、世界中の人文系の人々を全員敵に回してしまいそうで、背筋がぞっとします。しかしあえて拙稿では、その恐ろしい危険を冒してみようと思います。筆者のいかほどでもない社会的生命など、あと惜しむほども残っていないことを思えば、怖いものなどありません。それに、拙稿を読む人はとても少ないでしょうし、それもたぶん、賢明で寛容な人ばかりと予想できます。その予想に甘えて、拙稿では、言論を職業にする人々をひっくるめて言語技術者、と少々侮蔑的な響きを持つ呼称を使って呼び捨てにします。そしてまた、その人たちが言葉を敬いあがめてそれらがあたかも客観的に存在しているかのように語り合うことで、哲学の間違いを(故意ではないにしても)隠蔽してしまった共犯者たちであると(僭越ながらこの筆者が)糾弾してみようかと思います。

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