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哲学はなぜ間違うのか

why philosophy fails?

ダブルスタンダード

2006年12月05日 | 1哲学はなぜ間違うのか

この例はすこし極端ですが、こういう具合に話がすれ違い、それに互いに気づかないことは日常的にいつも起こっています。いつも会話を交わしていることで、皆がお互いに理解しあっていると思い込んでいるのです。それで社会生活はたいていうまくいきます。それでうまく行くような社会制度、生活習慣の創設に、人類は成功しているからです。成功した人間の集団だけが生き残ったからです。

まあ、このことを利用して、同じ話を裏表二通り、あるいは三通りに解釈できるように作って、外の集団と内側の集団で意味が逆転するような仕掛けを作っておくこともできます。ある地方では、人家を訪問した際に「お茶を召し上がりますか」と聞かれたらば、すぐ退出しないといけません。あとで何を言われるか分らないそうです。この手法を悪用して、ダブルスタンダード(全員に聞こえがよいきれいごとを言いながら、実際は、暗黙の了解で特権的少数者の利益のために動いていく仕掛け)が社会にはびこるわけです。現代社会では、競争しあっているはずのマスコミがいつのまにかダブルスタンダードに加担していたりするので、油断がなりません。

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人事異動の助言

2006年12月04日 | 1哲学はなぜ間違うのか

筆者は若い頃から頭が固くて、言葉を聞くと、ストレートな意味だけを受け取ってしまうところがありました。

あるとき、事務所の廊下ですれ違った先輩から「あの部屋は空気が悪いですね」と、言われました。あの部屋? ああ、私たちの仕事場のことかな、と思った私は「どうも、空気の循環が悪いものですから」と言い訳をしました。相手は「そうですよ。空気がよどんでいるようですよ。新人が不健康になってしまいそうですよ」と笑いながら言いました。私は「はい、ときどき空気を入れ替えては、いるのですが」と申し訳なさそうな顔を作って言い訳します。相手は「そうですよ。もっと思い切って、入れ替えしたらいかがでしょうか?」といい、私は「はい、そうしてみます」と従順な声で答えて、会話は終わりました。それで私は整備課に電話して、その部屋の換気扇を大型のものに交換してもらったのです。

私は、先輩の忠告のおかげで、部屋の隅に座っている若い新人の健康を守れたことに満足したわけです。先輩は、私の鈍感さに呆れて、もう人事異動の助言などはしてくれなくなりました。

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見かけの肉体

2006年12月03日 | 1哲学はなぜ間違うのか

問題は、言葉を聞いたり文章を読んだりするとき、私たちは、話し手や書き手の見かけの肉体や身分などから自分が受けているはずの印象をしっかりとは意識せず、文章の中身だけで理解していると思っていることです。

言葉を使っている人間は、話し手も聞き手も、言葉が通じていないとは思いたくない。分かっている、言葉を使う相互理解は、言葉の中身によって一〇〇%成功している、と思いたいのです。

実は言葉の中身はよく理解できなくても、聞き手は話し手の声の調子を聞いて、あるいは身体の動きを見て、あるいはその言葉が発せられた場の雰囲気を想像して、あるいは過去の似たような経験から類推して、なんとかつじつまが合うような錯覚と想像を自分の脳で作って、それで言葉が理解できたことにしてしまいます。

それは駄目なことではありません。実生活では、むしろ言葉で伝わらないものを話し手の声色表情や周りの雰囲気、あるいは相手の身分、立場で理解することが重要なのです。それら身体表現や状況、距離感による判断は言葉を理解することを補助する、とよく言われます。しかし補助というよりも、言葉以外で伝わるもののほうが主役で、言葉のほうがそれを補助する役割を果たしていたりするのです。

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センテンスの存在感

2006年12月02日 | 1哲学はなぜ間違うのか

言葉以外のコミュニケーション方法のほうが言葉よりも大事なことを伝えている場合が、たくさんあります。視線表情手振り、身振り声の高低、ピッチなどです。

さらに身体を動かして共同運動を一緒にすることで人間どうしの相互理解が進むことは、誰もがよく知っています。たとえばセレモニー音楽合唱ダンススポーツゲーム会食などです。親分肌の先輩などが「こんど、一緒に飯を食おう」とかよく言いますね。口で言うだけだったりしますが。人間どうし、お互いに社会的行動、お金のやりとり、集団内の序列、役割、性別、年齢、服装などを見れば、言葉以上に理解が深まることもよく知られています。

これら種々の身体運動、身体表現の共鳴、共感、状況認識の全体とともに、言葉は使われています。その結果相互理解がうまくいく(あるいは、そう思う) わけですが、人間はつい、それが言葉だけでなされたと思い込むのです。

たとえば、この文章が、無名の筆者が書いたものではではなくノーベル文学賞受賞者の最新話題作だと思ってください。一語一語が輝いて見えませんか? まあ、実際、筆者がそういう偉大な作家とは全然関係ないことをはじめから知っている読者諸賢に、そういう想像を強いても無理でしょうね。とにかく、読者が筆者を何者と思っているかによって、書かれた文の存在感はまったく違ってくるのです。

筆者の顔写真によっても、実は読む気がしてきたり、しなくなったりするくらいです。顔も知らない人が長々と書いている文章(たとえば、拙稿がそれですが)を、ふつう、読む気はしないのです。もともと人の話はその人の顔を見ながら聞くという仕組みが人間の脳にできているからです。笑いながら語っているのか、眉間にしわを寄せながら語っているのか、同じセンテンスでも意味はかなり違ってきます。無意識のうちに、人間は話し手の顔つきの印象によってその人の言うことを聞くべきかどうかを判断するのです。

今、この文章がコンピュータの人工知能によって書かれていることが分かったら、どう感じますか? 文章の中に人間の心を感じることもできなくなるでしょう? 人間は、文章を読むとき、無意識のうちに書き手の姿かたちを想像しながら読んでいるのです。知っている人の文章なら、当然、その人の肉体がこれを書いていることをイメージしながら読むわけです。

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メールは危険

2006年12月01日 | 1哲学はなぜ間違うのか

閑話休題、さてそろそろまじめに本題を展開しようと思います。誰でも実は分かっていることですが、言葉は万能ではありません。どんなに巧みな言葉遣いをしても、言葉はこの世のすべてを言い表すことはできないのです。

二人の人間が対面して会話する場合、聞き手は話し手の表情顔の赤さ鼻の穴の開き具合目の輝き目が死んでいる視線ふらつき声のピッチなど、細かい身体運動まで詳しく見聞きしています。そうすることで総合的に相手の存在感を感じます。これは目と耳の感覚神経を集中して、相手の脳内での運動神経系と感覚神経系の活動を感知する人類(および、もしかしたら、その他類人猿{ヒト科})に特有な、脳の認知機構の自動的な働きです。人間の言葉は、話し手と聞き手が共有するこの脳の機能、いわば人体の運動神経系の共鳴と感覚神経系の共感に基づいて作られているからです。

これら人間どうしの身体から身体への共鳴と共感の伝播は、日常会話などでは、たいていうまくいきます。セックスの場合など、すごくうまく行く場合が多い。しかしいつでも頼りになるものではありません。セックスが終わってからお金の話をしたりすると、とたんに気持ちが全然伝わらなくなったりします。つまり、あいまいな話はよく伝わるのに、正確な議論、難しい概念、論理が入ると、言葉は急に伝わりにくくなる。たくさんの錯覚が入り込み、幻影が入り込み,想像が入り込み、嘘が入り込みます。

最近はすっかり電子メールの時代になってしまいましたが、筆者は、メールはビジネス用件だけに使うようにしています。文字だけのやりとりでは、すぐ行き違いや誤解からけんかになってしまうからです。うっかり感情を込めたりすると、たちまち自己顕示自己陶酔のすれ違いになってしまったりします。言葉は危険です。まして顔が見えず声も聞こえない文字だけの文章は、非常に危険です。

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