言葉以外のコミュニケーション方法のほうが言葉よりも大事なことを伝えている場合が、たくさんあります。視線、表情、手振り、身振り、声の高低、ピッチなどです。
さらに身体を動かして共同運動を一緒にすることで人間どうしの相互理解が進むことは、誰もがよく知っています。たとえばセレモニー、音楽、合唱、ダンス、スポーツ、ゲーム、会食などです。親分肌の先輩などが「こんど、一緒に飯を食おう」とかよく言いますね。口で言うだけだったりしますが。人間どうし、お互いに社会的行動、お金のやりとり、集団内の序列、役割、性別、年齢、服装などを見れば、言葉以上に理解が深まることもよく知られています。
これら種々の身体運動、身体表現の共鳴、共感、状況認識の全体とともに、言葉は使われています。その結果相互理解がうまくいく(あるいは、そう思う) わけですが、人間はつい、それが言葉だけでなされたと思い込むのです。
たとえば、この文章が、無名の筆者が書いたものではではなくノーベル文学賞受賞者の最新話題作だと思ってください。一語一語が輝いて見えませんか? まあ、実際、筆者がそういう偉大な作家とは全然関係ないことをはじめから知っている読者諸賢に、そういう想像を強いても無理でしょうね。とにかく、読者が筆者を何者と思っているかによって、書かれた文の存在感はまったく違ってくるのです。
筆者の顔写真によっても、実は読む気がしてきたり、しなくなったりするくらいです。顔も知らない人が長々と書いている文章(たとえば、拙稿がそれですが)を、ふつう、読む気はしないのです。もともと人の話はその人の顔を見ながら聞くという仕組みが人間の脳にできているからです。笑いながら語っているのか、眉間にしわを寄せながら語っているのか、同じセンテンスでも意味はかなり違ってきます。無意識のうちに、人間は話し手の顔つきの印象によってその人の言うことを聞くべきかどうかを判断するのです。
今、この文章がコンピュータの人工知能によって書かれていることが分かったら、どう感じますか? 文章の中に人間の心を感じることもできなくなるでしょう? 人間は、文章を読むとき、無意識のうちに書き手の姿かたちを想像しながら読んでいるのです。知っている人の文章なら、当然、その人の肉体がこれを書いていることをイメージしながら読むわけです。