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哲学はなぜ間違うのか

why philosophy fails?

メールは危険

2006年12月01日 | 1哲学はなぜ間違うのか

閑話休題、さてそろそろまじめに本題を展開しようと思います。誰でも実は分かっていることですが、言葉は万能ではありません。どんなに巧みな言葉遣いをしても、言葉はこの世のすべてを言い表すことはできないのです。

二人の人間が対面して会話する場合、聞き手は話し手の表情顔の赤さ鼻の穴の開き具合目の輝き目が死んでいる視線ふらつき声のピッチなど、細かい身体運動まで詳しく見聞きしています。そうすることで総合的に相手の存在感を感じます。これは目と耳の感覚神経を集中して、相手の脳内での運動神経系と感覚神経系の活動を感知する人類(および、もしかしたら、その他類人猿{ヒト科})に特有な、脳の認知機構の自動的な働きです。人間の言葉は、話し手と聞き手が共有するこの脳の機能、いわば人体の運動神経系の共鳴と感覚神経系の共感に基づいて作られているからです。

これら人間どうしの身体から身体への共鳴と共感の伝播は、日常会話などでは、たいていうまくいきます。セックスの場合など、すごくうまく行く場合が多い。しかしいつでも頼りになるものではありません。セックスが終わってからお金の話をしたりすると、とたんに気持ちが全然伝わらなくなったりします。つまり、あいまいな話はよく伝わるのに、正確な議論、難しい概念、論理が入ると、言葉は急に伝わりにくくなる。たくさんの錯覚が入り込み、幻影が入り込み,想像が入り込み、嘘が入り込みます。

最近はすっかり電子メールの時代になってしまいましたが、筆者は、メールはビジネス用件だけに使うようにしています。文字だけのやりとりでは、すぐ行き違いや誤解からけんかになってしまうからです。うっかり感情を込めたりすると、たちまち自己顕示自己陶酔のすれ違いになってしまったりします。言葉は危険です。まして顔が見えず声も聞こえない文字だけの文章は、非常に危険です。

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