それでいいのです。あえて言えば、人間が使う言葉は内容を正確に伝える必要なんかない。大体分かればよろしい。あるいは、もっと言えば、分かるような気がすれば、たいていの場合それでよいのです。錯覚でよいから互いに分かったような気持ちになって仲良く協力できればよい。それで人類は生き残れたし、それどころか、大繁栄したのですからね。意味なんかよく伝わらなくても、仲間を信頼し互いに力をあわせる気持ちが伝われば、それでよいのです。逆に、コンピュータ通信のように内容が正確に伝わったとしても、それで仲間と集団行動がうまくいかなければ何にもならない。仮に完璧に真理を伝え合えるすばらしい言語体系を持った人類の一族がいたとしても、真実を言い合い過ぎて団結できない人類は滅びていくから、その言語体系は現在残ってはいないはずです。
空耳(聴覚の錯覚)とか、聞き間違え、と言うのはよくあります。薄暗いところでは枯れススキを人と見間違えたりするでしょう? 筆者も年をとって耳や目が悪くなったのに自分でそれと認めないので、このごろとみに聞き間違い見間違いをします。人の言っていることを三回に一回は聞き間違え、トンチンカンな答えをしているようです。向かうから歩いてくる人の顔などは、二回に一回は見間違えて、挨拶しそこなったりします。それでも、うまくごまかしながら、ふつうの人間のふりをして生きているのです。でも若い人どうしの会話も、それほどではなくても、いい加減に間違いを含みながら伝わりあうものでしょう?
文明人はもちろん、言葉や文書に頼る自分たちのやりかたが良いと思っています。
現代人、つまり文明人は、言葉による相互理解に皆がすっかり自信を持って暮らしています。互いに言葉を交わせば、相手の考えていることが分かると思っています。でも皆がそう思っているということと、実際に相互理解があるということとは違います。
私たちはなぜ言葉が理解できるのか? 言葉の意味を知っているからですか? 意味って何ですか? 辞書に書いてあるのが意味ですか? 辞書は言葉を言葉で説明してぐるぐる回しているだけでしょう。私たちのだれも、言葉の意味とは何かを知らないのです。人間は、意味とは何かを知らずに、意味が分かっていると思っているわけです。このような状態の私たち人間が、世界の真理を解き明かすなどという大それたことができるのでしょうか?
言葉を使っているとき、話し手と聞き手はどのように相互理解をしているのか? 何を相互理解しているのか? お互いの脳で何が起こっているのか? これが実は、人間にはよく分かっていないことなのです。それをすっかり分かっているかのごとく錯覚して思い込んでしまう機構を人間の脳は持っています。まあ、そう思い込んでいるから、安心して生きているわけですね。
西洋の哲学者ばかりでなく、たとえば日本人も「話せば分かる」、「話してくれれば何とかしたのに」・・・というようなことをいつも言い合っています。人間は誰もが、言葉を、すべての物事に明快な意味を与えてくれるもの、絶対的なものとして信頼しています。そうしないと、社会生活はなりたちません。
「言葉で話しても分かりあえるはずがない」、「話し合ってもどうにもならない」などと、友達に言ってみましょう。なんて危ないやつなんだ、と思われるでしょうね。こういう言い方をする人は反社会分子です。こういうことを言いふらす人とは友達にならないほうが無難です。
つまり結局、言葉にすっかり頼って生きているものが文明社会のふつうの人間なのです。
言葉を間違いなく使いこなせば、間違いなく世界を生きていける。正しい言葉で考えれば、人間は正しい考えを持つことができる。社会にどっぷりつかって上手に言葉を使いこなしながら生きていく文明人は、だれもがそう思うようになったのです。
未開人はそうではありません。自然の息づかいを言葉ではなく身体で感じ、それに対して言葉ではなく身体で応えます。仲間の感覚を身体で感じ集団で行動します。未開人のリーダーは言葉で人々を説得はしません。身体で感じる自然の雰囲気を感じてリーダーは動き、その動きから漂ってくる雰囲気を人々が集団的に身体で感じて追従するのです。文明が発達する前、人間どうしの相互理解は言葉というよりも、言葉も使ったでしょうが、むしろ身体全体を使ってたがいの運動を共鳴させることだったのです。現代人も、雰囲気を読む、空気を読む、と言いますね。そのことです。もともと人間(というか霊長類)の脳神経系は、無意識に自動的に周りの仲間の運動を感じ取り、それに自動的に共鳴して自分の身体が動きだし、そうして仲間と交わるように進化してきたのです。
本題に戻ります。
言葉というものは、人間という動物が仲間と協力し合うための運動様式として有利だったから進化したものでしょう。他の動物に比べて、言葉を使える人類は飛躍的に緊密な仲間との共同作業ができます。その結果人類は大いに繁殖したから、現在私たちが言葉を話しているのです。つまり言葉は、人間という動物が集団で協力して物質世界の法則の中で生き抜いて子孫を増やしていくために有利だったから発達した脳の機能です。人類の言語機構は、鳥の翼や蛍の光のように、確かにすばらしい高性能の設計になっていますが、神秘でもなんでもない、物質の法則に従って現れた進化という生物現象のひとつの結果です。
しかし人間は自分たちが使う言葉を、特にそれを文字で書き記すようになってから、この世を超越した特別な存在だと思い始めたようです。さらに神聖なものだ、とも思うようになりました。宗教は文字で書かれた聖書経典を神聖なものとして崇拝しました。文字がなければ、世界の大宗教は成立できなかったでしょう。キリスト教などでは「はじめに言葉ありき」という考えから始まり、神的存在が何らかの言葉を発することでこの世や人類が創生されたとしたのです。
西洋哲学はこういう考えに拍車をかける役割を果たしました。「人間は言葉(ロゴス)を有する動物である(BC三三〇年頃 アリストテレス『形而上学』)」として、言葉を絶対視することから哲学を始めたのです。