この例はすこし極端ですが、こういう具合に話がすれ違い、それに互いに気づかないことは日常的にいつも起こっています。いつも会話を交わしていることで、皆がお互いに理解しあっていると思い込んでいるのです。それで社会生活はたいていうまくいきます。それでうまく行くような社会制度、生活習慣の創設に、人類は成功しているからです。成功した人間の集団だけが生き残ったからです。
まあ、このことを利用して、同じ話を裏表二通り、あるいは三通りに解釈できるように作って、外の集団と内側の集団で意味が逆転するような仕掛けを作っておくこともできます。ある地方では、人家を訪問した際に「お茶を召し上がりますか」と聞かれたらば、すぐ退出しないといけません。あとで何を言われるか分らないそうです。この手法を悪用して、ダブルスタンダード(全員に聞こえがよいきれいごとを言いながら、実際は、暗黙の了解で特権的少数者の利益のために動いていく仕掛け)が社会にはびこるわけです。現代社会では、競争しあっているはずのマスコミがいつのまにかダブルスタンダードに加担していたりするので、油断がなりません。
「お茶をどうぞ」
「いえ、すぐ失礼しますから」
と応じられてそのまま返しては何を言われるか判りませんから
「そげなことを言わんと、せめて座布団にお座り」
とでも言って必死に引きとめねばならないのでしょう。
結局、どちらかが悪く言われる地方なのでしょうか。
それとも、単純に「お茶をどうぞ」=「そろそろ帰れ」の意味でしょうか。