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哲学はなぜ間違うのか

why philosophy fails?

人間はただの物質?

2007年07月22日 | 8心はなぜあるのか

Godwardl 赤ちゃんが幼児に成長すると、自分が他人の内部に入ったように、相手の身体の動きを想像することができるようになります。他人に取り付くと言う意味で、拙稿では、この脳機能を「憑依」と言っています。

幼児は三、四歳くらいから、こういう「憑依」の能力を獲得します。そしてすぐ上達して相手の運動の予測がだいたい成功するようになります。その成功経験から、仲間の人間が動く仕組みを予測するモデルとして自分の脳の内部に作り出したシミュレーションが、人の「心」なのです。

そうなると、人間の姿を見たとたん、自動的にその心を感じるようになります。この人はこれから何をしようとしているのか、予測できます。生きた人間の顔を見ると、その心の存在感が何よりも強く感じられます。特に、声の調子や目や手の表情で心が感じられます。これは無意識に自動的に感じるので、相当、意識して感じないようにしないと、相手をただの物質とは思えません。ちなみに、生きている人間の身体を物質としか見えない感受性を無理やり訓練したプロフェッショナルが、外科医とか、殺し屋でしょう。

 

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集団運動の共鳴→事物の存在感

2007年07月21日 | 8心はなぜあるのか

Godwardk 面白いのは、擬人法を使われる対象が、人間個人ではなくて、人間の集団の場合です。「クラスのみんな」、「XX村」、「XX株式会社」、「暴力団XX組」、「XX県警」、「日本政府」、「世間」、「欧米人たち」などなど、世間話やマスコミなどの言葉で重要な主語になるものはほとんど、個人より人間集団です。その人間集団が、どうだこうだ、と言うとき、話し手の脳内では集団の群行動が引き起こす仮想運動が起こり、それが言葉を作り、聞き手の脳内の群行動としての仮想運動を誘発する。これも集団を個人のように表現する、擬人法の一種といえるでしょう。しかし、注意が必要なことは、これらの場合こそ、個人を主語にするときよりもさらに、人間にとって原初的な仮想運動の形成がなされているということです。仲間の空気を読む、といわれるような脳の機能です。

直感的に集団の動きを自分の仮想運動を使って読み取る。この仕組みは、言語の発生以前からあった、たぶん、霊長類に共通の古い脳機構です。私たちは、注目する集団の集合的意図や集合的感情、つまりその集団の集合的な「心」のようなものを感じ取って、かなり感情的にそれに反応します。相手は個人ではないのに、その集団全体を、ひどく恐れたり憎んだり期待したりする。これは私たちの身体が深いところで、そう作られているということでしょう。他者個人や自己という認識が作られる以前にあった仲間(群集団)の集団的運動をひとかたまりのイメージとして無意識に感知する機構です。それは古く、たぶん霊長類共通の祖先のころからある脳の機構のようです。人類の遠い祖先の時代、それは生存繁殖に重要な機能だったと思われます。これが、事物の主観的な存在感を発生し、私たちの感情と認識を発生する脳機構なのでしょう。

ちなみに現代哲学では、共感やシミュレーションによる他者解釈の理論がつくられていますが、それらの根底は、まず自己があって、その自己の心的状態の観取により他者が現れる、というものなど(一九八九年 アルヴィン・ゴールドマン『心理解釈』)です。拙稿が述べるような、他者個人や自己の成立以前の、群集団の運動に共鳴する脳内の仮想運動が(他者と自己の認知に先立って)存在認知の根底にある、という見解を取る理論はいまのところ(拙稿以外には)提起されていないようです。

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擬人法→原初の言語

2007年07月20日 | 8心はなぜあるのか

Godwardj ちなみに、「擬人法」という言葉の形に引っ張られると、その本質を見失いますので、注意が必要です。擬人法を使うとき、話し手は人に擬して物事を表現している、と国語の先生は言います。しかし、この説明は本当でしょうか? 人でないものを人に見立てて言い方を考えるよりも前に、話し手の頭の中では、その物事がまるで人が動くようにいきいきと動き回っているのではないでしょうか? 話し手は、人間でないものを面白く言い表すために、無理やり人間とみなして表現するのでしょうか? 

それは違うでしょう。むしろ、物事は、まず、人であろうとなかろうと、何であっても、それを見つめる人間にとっては、人のように動いているのです。つまり、擬人法を使うときの話し方のほうが、使わないときの話し方よりも原初的だといえるのです。

話し手の脳内では、(拙稿の見解では)まず、注意を向けている何者かの動きの存在感が発生します。脳内で、それに共鳴する仮想運動が自動的に発生することで、その動きの存在感が発生するわけです。はじめから存在があって、それから動きが出てくるわけではありません。動きがあって、そこから存在感が引き起こされる。仮想運動が引き起こされて、それでそのものが存在してくる、という順番になっている。その仮想運動が言葉を形成させる。それでセンテンスができてきます。仮想運動を誘発する外界のその動きが、実際の人間でない自然物であるとか人工物である場合に、対象が人間かどうかにこだわった現代人が、それを擬人法と呼ぶようになったというだけなのでしょう。この見解が正しいとすれば、かつて、原初の言語が発生してきた太古の時代には、注目対象が実際の人間ではなくても、すべてのものはまず「心」を持っていたはずです。

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非生物の心

2007年07月19日 | 8心はなぜあるのか

Godwardi_1 どうも、心の存在というものは、常識で素直に思い込んでいるよりもずっと、実は、はっきりしないものだ、というふうに思えてくるでしょう? それが、筆者の言いたいところなのです。心はあるように思えてもない、ということです。そこで次には、常識から見て逆のほうに振ってみましょう。今度は、心はないように思えてもある、ということです。ふつう心を持っていない、と思われている木石や水や気象現象など(非生物)が、ある種の心を持っているのではないか、という話をしましょう。

私たちが、動物以外の物の存在感を感じるときも、(拙稿の見解では)それが存在することが自分の身体の動きであるかのように感じることで、その存在を意識できます。つまり、自分の運動回路が共鳴して仮想運動を引き起こすことを、その対象の存在感と感じる。たとえば、すっくと立つ大木。満々と水をたたえる池。踊り狂う激流。荒れ狂う嵐。容赦ない日差し。というような文学的な擬人法の表現があります。対象が非生物(正確には非動物)であっても、それに注意を向けるとき、私たちはそれを人体の運動として認識しているのです。それは対象物を見ることで、私たちの脳内に仮想運動が引き起こされることで認識できるわけです。それが、(拙稿の見解では)人間の言語の基底をつくっています。古来の擬人法は、仮想運動から言語が発生してくる、その根源的な仕組みをうまく表現しているのでしょう。

拝読ブログ:だまし絵

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心があるように見えるもの?

2007年07月18日 | 8心はなぜあるのか

Godwardh このような脳の無意識な運動共鳴が働くことを感じて、私たちは、すべての人間は身体の中に心という目に見えない仕組みを持っていると思い込んでいるわけです。心があるように見えることを心があると思い込む。実際、心があるように見えて心がないものなどありませんから、これで問題はないのです。SFに出てくる人と会話するロボットとか超コンピュータとか、人間の言葉を話す動物とかは実際はいませんから、問題はありません。実際、私たちが、心を持つと思っているものは生きている人間しかいません。そのため、心があるように見えるときは心がある、と思っていれば間違いないわけです。

人間というものは心を持つ。自然現象や機械仕掛けと違って、心がその身体を動かしている。つまり、私たちは、人間というものは心が動くことで身体が動くものなのだ、というものの見方(というか一種の理論)を持っているのです。他人の動作や表情などの知覚から自分の脳の運動形成回路に運動共鳴が誘発されることを感じると、私たちはそれを、その人の心が動く、と感じるのです。

その見方を自分自身のイメージにも当てはめれば、自分も自分の心を動かして行動しているのだ、と思えるようになります。自分の動作、表情を自覚して、それが自分の心を表わしているのだ、と感じられるようになるのですね。このような運動共鳴による神経活動の働きを自覚することで、私たちは(拙稿の見解では)その仮想運動(身体が動いていこうとする感覚)を感じ取って、自分の心があると思い、それが自分の意図、意思、欲望、なのだ、と思うわけです。

私は本当に私の心を持っているのだろうか? 改めて考えてみると、だんだん自信がなくなってきますね。確かに私だって、ほかの人と同じように心を持っているはずだ、とは思うものの、それを目で見ることはできません。見極めることができません。まあ、ここで拙稿得意の言い方を使えば、他人の心というものがあることはよく分かるけれども、私の心というものがあるかどうかはよく分からない、ということになってしまいます。

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拝読ブログ:エージェント研究でめったに語られないこと

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