ちなみに、「擬人法」という言葉の形に引っ張られると、その本質を見失いますので、注意が必要です。擬人法を使うとき、話し手は人に擬して物事を表現している、と国語の先生は言います。しかし、この説明は本当でしょうか? 人でないものを人に見立てて言い方を考えるよりも前に、話し手の頭の中では、その物事がまるで人が動くようにいきいきと動き回っているのではないでしょうか? 話し手は、人間でないものを面白く言い表すために、無理やり人間とみなして表現するのでしょうか?
それは違うでしょう。むしろ、物事は、まず、人であろうとなかろうと、何であっても、それを見つめる人間にとっては、人のように動いているのです。つまり、擬人法を使うときの話し方のほうが、使わないときの話し方よりも原初的だといえるのです。
話し手の脳内では、(拙稿の見解では)まず、注意を向けている何者かの動きの存在感が発生します。脳内で、それに共鳴する仮想運動が自動的に発生することで、その動きの存在感が発生するわけです。はじめから存在があって、それから動きが出てくるわけではありません。動きがあって、そこから存在感が引き起こされる。仮想運動が引き起こされて、それでそのものが存在してくる、という順番になっている。その仮想運動が言葉を形成させる。それでセンテンスができてきます。仮想運動を誘発する外界のその動きが、実際の人間でない自然物であるとか人工物である場合に、対象が人間かどうかにこだわった現代人が、それを擬人法と呼ぶようになったというだけなのでしょう。この見解が正しいとすれば、かつて、原初の言語が発生してきた太古の時代には、注目対象が実際の人間ではなくても、すべてのものはまず「心」を持っていたはずです。
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