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哲学はなぜ間違うのか

why philosophy fails?

自分とは他人の心に映るもの

2007年07月27日 | 8心はなぜあるのか

 Godwardpompeidianbath

 A君の身体の内部にきちんと入っている、というようなA君の心は(拙稿の見解では)存在しません。A君の心は、A君を見ているB君の脳の運動形成回路の共鳴活動として存在する。同時にC君もA君を見ている場合、C君の脳の運動形成回路の共鳴活動としてもA君の心は存在する。誰に見られているかで、A君の心は違ってくるでしょう。大体似ているでしょうが、ちょっと違う。それはしかたのないことです。人間の心というものは、その人間を見ている他人が感じる錯覚の中にしか存在しないのですから。

 相手の人間の声の出し方、目の動き、表情、手つき、動作から私たちの目や耳に入る信号。それらが脳の中で記憶と混ぜ合わされ、変換されて、私たちの脳の中に相手の「心」が作られるのです。その過程で、自分の経験が自動的に重なる。だから、男は子宮の感覚を語る女の心は分からない。子供は親の心が分かりません。子を持って知る親の情けかな、となるわけです。

 (拙稿の見解によれば)他人の心は自分の心よりもさきに分かります。幼児が幼稚園児になるころ、他人の心のイメージを自分の脳の中に作って、それからその他人の心に映っている自分の心を作ることができたのです。それで自分は何をすれば良いか、自分が自分に何を期待しているのか、自分は何を考えているのか、分かってくる。だから、私たちは、人と交わって他人の心を感じなければ、自分の心というものもなくなってしまいます。

 

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人間とは身体だけの存在

2007年07月26日 | 8心はなぜあるのか

Godwardp まあ、世間常識では、一個の心を内蔵する個人という存在は、尊厳に満ちた特別に神秘的なものだと思われています。このことについても、拙稿のとる見解を述べるとすれば、ちょっと違うことになる。人体という物質を見るとき、私たちの感受性がそれをそういうふうに感じるというだけの錯覚だ、ということになるわけです。人体も脳も、当然のことながら、ただの物質です。この物質世界の中で特に変わった物質ではない。まあ、こういう見解は、拙稿が改めて主張するまでもなく、いつでもどこでも、しばしば表明される見解でしょう。研究対象である人体に対する医学者の態度は、まさに、これです。医学者に限らず科学者は、自分の研究対象に関する限り、このような物質主義を当然と考えています。一方、まわりの人々の心を感じ取ることで毎日を生き抜いていくふつうの人々は、人間を単なる物質などとは、片時も思うわけはありません。ときたま、科学者の物質主義的な発言をきくと、「科学者というのは冷たい人間たちだなあ。しかし科学を進歩させてもらうためには仕方ないかな」と思う。つまり、科学者や哲学者ではない一般の人も、物質主義的な考えについて、頭ではよく分かっているのです。

科学の時代になった現代では、人間についてのこういう物質主義的な見方はごくあたりまえに感じられますが、百年ちょっと前には、こういうような考えを持ったのはもっとも先鋭的な哲学者だけでした。「人間とは身体だけの存在なのだ、私とはこの身体であり、それ以外のなにものでもない」という主張が近代哲学の古典として書き残されています(一八八三年 フリードリヒ・ニーチェツァラトゥストラはかく語りき』)

心が錯覚であるとすれば、私の心、つまり、私が私だと思っている存在感、も私(の脳)が感じる錯覚に過ぎないということになります。拙稿の見解では、私という存在も現代人(西洋の近代人も含む)特有の感受性がつくる脳内の錯覚であり、この世に現実にあるものではありません(この問題は拙稿第12章で詳述予定)。

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内面って何?

2007年07月25日 | 8心はなぜあるのか

Godwardo あたりまえのことですが、この世には、私自身の身体も脳も含めて、単なる物質としての人体があります。間違いなく、あるように見えます。これらは、だれの目にも見えて、手で触れますから、明らかに物質なのでしょう。しかし、そのように誰の目にも見えて手で触れるものは、物質として感じられる人体の表面だけです。身体の内部は、どうなっているのか、服を着た身体の表面しか、私たちの目には見えない。服を脱がして裸にすることはできますが、皮膚を破って体内を覗くことはできない。まあ、外科医が手術するときは、それもできるでしょうが、生きている脳を解剖して個々の神経細胞の働きを全部調べることは不可能ですね。もし、仮にそれができたとしても、何が分かるのか。目で見える物質としての神経細胞の物質変化しか分からないわけです。つまり、どこまでがんばっても、人間について私たちは、物質としての構造しか知ることはできません。いわゆる、その人の内面、つまり心、といわれているものは、目で見ることはできないのです。

さて、ふつうの文章ならば、こう書いてきた場合、ここで簡単に、人間存在の神秘、というような言葉を使ってきれいにまとめて終わればよいわけです。ところが拙稿では、わざと徹底懐疑の姿勢をみせることにしていますから、ここでも「この世に神秘などはない」などと不穏なせりふを吐きつつ、先へ進みましょう。

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拝読ブログ:外面の私・内面の私 

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心は幻影?

2007年07月24日 | 8心はなぜあるのか

Godwardn 本題に戻ります。さて、心とは、人体のどこにあるのか?

人間の脳を最新の科学でいくら詳しく観察しても、たとえ電子顕微鏡を使って脳細胞をひとつひとつ解剖しても、「心」にあたる器官は見つかりません。それは観察される人間の中にはなくて、観察者の中にあるからです。人の心は、その人の脳の中にではなく、その人の動きを外から見ている観察者の脳内の運動形成神経回路の共鳴現象としてある。つまりその人を見て、そこに心があるように感じられるとき、そのときだけ、そこに心はあります。

 人間は他人を観察するとき、自分の脳の中で運動共鳴によって生じる運動形成回路の活性化を感じ、それをその人間の心と捕える錯覚を作ります。次に、その他人の心に映っているはずだと感じられる自分の肉体と心という錯覚との共鳴を感じる。そういう脳内の錯覚の相互交差に、常時注意を集中して生きています。

 しかしながら、一個の人体の中に一個の心が入っている個人というような人間像は、現代人にとっての常識ですが、それは錯覚です。実際は、そういうものはこの世に存在しない。それは原始人の素朴な錯覚に始まり、それを古来の宗教や哲学、さらには近代現代の社会科学が権威付けて、現代人にまで定着させた幻影です。

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自分の身体に再帰的に憑依

2007年07月23日 | 8心はなぜあるのか

Godwardm 

  幼児の脳がさらに発達すると、自分も周りの人間と同じような一人の人間だということが分かってきます。このことに関して、拙稿の見解を、少々詳しく述べておきましょう。(拙稿の見解では)幼児は脳内でまず他人に憑依し、次にその他人から見える他人、つまり自分の身体、に再帰的に憑依することで自分という模型を作ります。この過程で、はじめから自分は他人として作られる。つまり周りの他人とまったく同じような一人の人間として自分のイメージが作られるわけです。

そこで自分も他の人間と同様に「心」を持っていて、それで考えて行動しているはずだと感じるようになります(自分という模型については第12章で詳しく述べる予定)。

子供の発達心理に関する、ふつうの常識では、幼児が成長して他人の心理を理解できるようになるには、その前に自分というものを認識して、その自分自身の心理というものを理解できているはすだ、と考えられますね。しかし、(拙稿の見解では)それは間違いです。現代一般に普及している心理学理論ではこの間違いはきちんと整理されていないようですが、幼児の知的能力に関する多くの実験観察からの知見(一九九五年 P・ハリス『シミュレーションから常識心理学へ』など)によると、拙稿の見解が正しいと思われます。つまり、人間の幼児は、他人というものを認識する前に自分を認識することはなく、三歳から四歳の年齢で、他人の認識と同時に自分の認識ができるようになるのです。

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