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哲学はなぜ間違うのか

why philosophy fails?

集団運動の共鳴→事物の存在感

2007年07月21日 | 8心はなぜあるのか

Godwardk 面白いのは、擬人法を使われる対象が、人間個人ではなくて、人間の集団の場合です。「クラスのみんな」、「XX村」、「XX株式会社」、「暴力団XX組」、「XX県警」、「日本政府」、「世間」、「欧米人たち」などなど、世間話やマスコミなどの言葉で重要な主語になるものはほとんど、個人より人間集団です。その人間集団が、どうだこうだ、と言うとき、話し手の脳内では集団の群行動が引き起こす仮想運動が起こり、それが言葉を作り、聞き手の脳内の群行動としての仮想運動を誘発する。これも集団を個人のように表現する、擬人法の一種といえるでしょう。しかし、注意が必要なことは、これらの場合こそ、個人を主語にするときよりもさらに、人間にとって原初的な仮想運動の形成がなされているということです。仲間の空気を読む、といわれるような脳の機能です。

直感的に集団の動きを自分の仮想運動を使って読み取る。この仕組みは、言語の発生以前からあった、たぶん、霊長類に共通の古い脳機構です。私たちは、注目する集団の集合的意図や集合的感情、つまりその集団の集合的な「心」のようなものを感じ取って、かなり感情的にそれに反応します。相手は個人ではないのに、その集団全体を、ひどく恐れたり憎んだり期待したりする。これは私たちの身体が深いところで、そう作られているということでしょう。他者個人や自己という認識が作られる以前にあった仲間(群集団)の集団的運動をひとかたまりのイメージとして無意識に感知する機構です。それは古く、たぶん霊長類共通の祖先のころからある脳の機構のようです。人類の遠い祖先の時代、それは生存繁殖に重要な機能だったと思われます。これが、事物の主観的な存在感を発生し、私たちの感情と認識を発生する脳機構なのでしょう。

ちなみに現代哲学では、共感やシミュレーションによる他者解釈の理論がつくられていますが、それらの根底は、まず自己があって、その自己の心的状態の観取により他者が現れる、というものなど(一九八九年 アルヴィン・ゴールドマン『心理解釈』)です。拙稿が述べるような、他者個人や自己の成立以前の、群集団の運動に共鳴する脳内の仮想運動が(他者と自己の認知に先立って)存在認知の根底にある、という見解を取る理論はいまのところ(拙稿以外には)提起されていないようです。

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