未唯への手紙

未唯への手紙

執着を捨てる

2012年03月16日 | 2.数学
NHK「ブッダ 真理のことば」より

「自分」はどこにもない

では、ここで根本的な問題として、執著はなぜ生まれるのかを考えてみましょう。第2回で、「無明」というものが、この世のものはすべてうつろうという真理、すなわち「諸行無常」を理解していないことだと説明しました。これに加えて、じつはもう一つ、無明のもとになっている、人間の根本的な愚かさがあります。それは、自分、すなわち「自我」というものに対する誤った認識です。

われわれはふつう、自分の利益のため、自分の功名のため、自分の楽しさのため、自分の幸せのため……と、なにごとも自分を中心に置き、自分に都合のよい方向でものを考えます。ところがブッダは、そもそも自分などないのであり、ありもしない自分を中心に世界をとらえるのは愚かのきわみだと説きました。

われわれはまず、自我というものを世界の中心に想定し、そのまわりに自分の所有する縄張りのようなものを同心円上に形作っていきます。そしてそのいちばん外側に、世間と呼ばれる一般社会を配置します。自分はこの世界像の主ですから、手に入っていないものがあったら手に入れ、意のままになる縄張りの部分を増やしていこうとします。これが執著です。

すなわち、執著とは、この「自分中心」の世界観から発生するのです。自分中心の考え方に立つ限り、欲望は消えませんし、きりがありません。

しかし、ここでその中心人物たる自分を、「それは実在しない仮想の存在である」として、その絶対存在性を否定してしまうと、まわりにある所有世界も自然に消えます。自分というのは、本質のない仮想存在なのですから、当然、それを取り巻く世界も仮想だということになり、執著もおのずと消えるわけです。

これを表す言葉を、「諸法無我」と言います。『ダンマパダ』では、次のように言います。「すべての存在に、自我なるものはない」(諸法無我)と智慧によって見る時、人は苦しみを獣い離れる。これが、人が清らかになるための道である。(279) この世の一切の事物は自分のものではないと自覚して、自我の虚しい主張と縁を切った時、執著との縁も切れ、初めて苦しみのない状態を達成できると説いています。

前回、「この世のすべてのものはうつろう」という意味で「諸行無常」という言葉をご紹介しました。そして今回は「この世に『私』という絶対的存在など、どこにもない」という意味で「諸法無我」という言葉を新しく出しました。この二つが、世界を正しく見るための羅針盤です。

この二種類の真理を念頭に置きながらものごとを考えることで、私たちは無明の束縛を断ち切り、世の有り様をあるがままに正しく見ることができるようになります。それがひいては、誤った世界観から生まれ出る様々な苦しみを消し去ってくれるのです。

「諸行無常」と「諸法無我」、二つの言葉はよく似ていますが、ちょっとだけ違います。その違いについて説明しておきましょう。「諸行無常」とは「諸々の行は無常である」という意味です。あたりまえですね。一方、「諸法無我」は「諸々の法は無我である」と言っています。一方は行といい、他方では法という。行と法、この二つはどう違うのでしょうか。

行というのは、「原因と結果の因果関係によってこの世に生まれ出るすべてのもの」という意味です。行は別名「有為」とも言います。いろは歌で「うゐのおくやま けふこえて」という、あの「うゐ」です。つまり、「諸行無常」とは、「因果則によってこの世に現れ出るすべての事物は無常だ」と言っているのです。

これに対して法というのは、行(=有為)よりも一層広い概念で、「因果則によってこの世に現れ出るすべてのものと、そして、因果則を離れて不変不滅の状態にあるもの」を合わせて呼ぶ名称です。「因果則を離れて不変不滅の状態にあるもの」などと言うと、まるで絶対神や創造主のようなものを想像するかもしれませんが、そうではありません。「釈迦の仏教」がそういう存在を一切認めないということは何度も述べてきました。

ここで言っているのは、煩悩を消し、輪廻の流れを断ち切り、時間のない状態に入って絶対の安穏を得ているその状態、つまり涅槃のことを言っているのです。それは因果則の影響を脱しているので、「因果則を離れて不変不滅の状態にあるもの」なのです。

このような不変不滅の状態は、有為の反対ですから「無為」と呼ばれます。したがって法という語は、有為と無為の両方を含んでいます。行は有為だけ、そして法は有為と無為の両方を意味するのですから、行より法が一層広いわけです。その法に関して「諸法無我」と言います。つまり「有為と無為のどちらについても無我である」と言っているのです。

まとめてみましょう。「諸行無常」とは、「有為法はすべて無常だ」という主張です。ならば無為法はどうなのか。それは時間をこえた永遠に変化しない状態なので無常ではありません。ですから「諸法無常」とは言えません。法には無為法も含まれているからです。これに対して「諸法無我」と言うことは問題ありません。有為法をみても、無為法をみても、どこにも「自分」という絶対存在などないからです。こういった理屈が背景にあって、「諸行無常」「諸法無我」という主張が成り立っているのです。

『ダンマパダ』を離れて、少しややこしい話になりましたが、知っておいていただきたいのは、仏教という宗教が、このようにとても理知的な体系でできているという点です。これは、世界を因果の法則で見ていくという、ブッダの基本姿勢から来るもので、科学とも共通する特性です。

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