未唯への手紙
未唯への手紙
中国政治における治水
『中国の歴史』より 環境と治水の歴史
政治と治水
中国は政治の国である、とよくいわれる。たしかに中国を代表する思想体系である儒教は、その天下観、華夷観、秩序・正統観などさまざまな面で政治思想の集大成であるともいえる。
さて、その儒教の政治思想のなかに自然環境、とくに河川とそれが引き起こす災害、という観点からかかわりを見出そうとすれば「天譴論」をあげることができる。皇帝の道徳的・政治的な善悪が原因となって天の災異が現れるとする考え方であり、前漢の儒学者董仲舒により体系化された「天人相関説」に基づくものである。天譴論によると、自然界(自然環境)におこる洪水などの個別の災害は、誤った政治を行った皇帝に対する天による警告であり、皇帝がそれを真摯に受け止めて反省しなければ、最終的には革命により天命を喪失し王朝の交替にまでいたる。
このような考え方は、唐宋変革とよばれる近世的な社会変動のなかで、現実には不合理だと考えられるようになったかもしれない。しかし政治思想においては、天人相関説は補強再編され、天(自然界)に包摂されて存在してきた人間社会が拡張して自然界と一致し、皇帝が自然界の運行をっかさどる責任を負うことになったとされる(溝口・池田・小島, 2007)。よって皇帝は災害が起こらないように内面の自己修養につとめなければならない。
結果として、自然災害を天謎であるとする考え方は、現実の政治の舞台において、唐宋以降の時代にも残り、天からの命を受けて天下を統治し、その正統性を主張する皇帝の自己点検をつねに要請することになった。河川に関していえば皇帝は洪水という自然災害を克服し制御する治水という努力を義務づけられたのである。
もちろん、黄河などの大河の治水は自然の克服や制御という問題にとどまるものではない。治水には多くの労働力や物資の調達が必要である。河道の移動を計画した場合には住民の移転・墳墓の移転が問題になる。王朝の財政支出のもと、多額の公金が動き、莫大な利権が生じる。また、治水の方針や結果をめぐっては論争を生み、これは政争の材料となる。治水事業が政治的に複雑化するのはこういった背景がある。
このような観点は、ドイツ人の中国研究者K.A.ウィットフォーゲルが1957年に出版した『オリエンタル・デスポティズム』で論じた、大規模な治水・濯漑事業が、中国の複雑精緻な竹僚制や専制政治を生んだという[水力社会]論と共通性がある。水力社会論については理論モデルとしての再評価の動きもある一方、その「治水・濯漑の必要性→専制政治の成立」、つまり「水を制するもの中国を制す」という図式はすでに実証的に問題があると、黄土高原の土壌の分析を行った原宗子により指摘されている(原、1999)。ただし、逆に「政権の維持→治水・濯漑の必要性」、つまり「中国を制するもの水を制すべし」というテーゼは成り立つのではないかということをこの章では強調したい。
現代中国政治における治水
政治と治水のかかわりは現代中国においても密接である。以下、いくつかの事例で見てみよう。
さまざまな議論の末に1993年に着工, 2009年に竣工した三峡ダムは国務院直属の国営企業によって事業が行われ、多額の資金・住民の移動・政争や利権等の諸問題がからみ、さらには「環境問題」という新しい問題も加わり、非常に政治性を帯びている。孫文がその最初の提唱者だったという言説も、事業に正統性を与えようとしたものかもしれない。
1998年には、長江に大洪水が起こり大きな被害が出た。当時の国家主席であった江沢民はすべてに優先して現地にみずからおもむき陣頭指揮をとった。また、ある堤防を爆破することにより人口4万人の地域を犠牲にして人口720万人の大都市武漢を救うといったきわめて政治的判断を要する処理も行われた。これも治水の政治的比重の大きさを示す典型的な例であろう。
さて、現在黄河流域の景観をイメージせよといわれれば、樹木がほとんどない、むき出しになった黄土高原の浸食谷を、黄土を削りながら洞々と流れている濁流、という像を思い浮かべるであろう。このような景観は歴史的にいつごろまでさかのぽれるのか、といった純学問的とみなすことができる問いのなかにも、じつは政治とのつながりを見ることができる。
それは、黄河周辺の自然景観の歴史についての二つの説の対立である。ひとつは史念海の見解(史、2001)で、3000年前の黄土高原は全体に原始の森林と草原におおわれた平坦な台地が連なっており、河川も濁っていなかったが、前漢以降に人口の増加と農業の拡大にともなって森林の伐採が始まり、土壌の劣化と浸食が進んだ結果、黄土高原から流出する土砂で河川が濁りだし、黄河下流域の氾濫が頻発するようになったという。一方自然科学者の多くは、すでに約1万年前の更新世のおわりには黄土高原はすでに現在と類似した景観であったとしている(妹尾、2000)。
この問題は現在まだ論争中ではあるが、史念海の考え方は、人間の手によって環境が破壊されたのであるから、人間の手によってその回復も可能である、という論理により、現政権の国策による積極的な環境政策を肯定するものである、という指摘もされている。現に、「西部大開発」といわれる黄河周辺地域も含んだ西部地区の開発事業を正当化する根拠ともなっている。
政治と治水
中国は政治の国である、とよくいわれる。たしかに中国を代表する思想体系である儒教は、その天下観、華夷観、秩序・正統観などさまざまな面で政治思想の集大成であるともいえる。
さて、その儒教の政治思想のなかに自然環境、とくに河川とそれが引き起こす災害、という観点からかかわりを見出そうとすれば「天譴論」をあげることができる。皇帝の道徳的・政治的な善悪が原因となって天の災異が現れるとする考え方であり、前漢の儒学者董仲舒により体系化された「天人相関説」に基づくものである。天譴論によると、自然界(自然環境)におこる洪水などの個別の災害は、誤った政治を行った皇帝に対する天による警告であり、皇帝がそれを真摯に受け止めて反省しなければ、最終的には革命により天命を喪失し王朝の交替にまでいたる。
このような考え方は、唐宋変革とよばれる近世的な社会変動のなかで、現実には不合理だと考えられるようになったかもしれない。しかし政治思想においては、天人相関説は補強再編され、天(自然界)に包摂されて存在してきた人間社会が拡張して自然界と一致し、皇帝が自然界の運行をっかさどる責任を負うことになったとされる(溝口・池田・小島, 2007)。よって皇帝は災害が起こらないように内面の自己修養につとめなければならない。
結果として、自然災害を天謎であるとする考え方は、現実の政治の舞台において、唐宋以降の時代にも残り、天からの命を受けて天下を統治し、その正統性を主張する皇帝の自己点検をつねに要請することになった。河川に関していえば皇帝は洪水という自然災害を克服し制御する治水という努力を義務づけられたのである。
もちろん、黄河などの大河の治水は自然の克服や制御という問題にとどまるものではない。治水には多くの労働力や物資の調達が必要である。河道の移動を計画した場合には住民の移転・墳墓の移転が問題になる。王朝の財政支出のもと、多額の公金が動き、莫大な利権が生じる。また、治水の方針や結果をめぐっては論争を生み、これは政争の材料となる。治水事業が政治的に複雑化するのはこういった背景がある。
このような観点は、ドイツ人の中国研究者K.A.ウィットフォーゲルが1957年に出版した『オリエンタル・デスポティズム』で論じた、大規模な治水・濯漑事業が、中国の複雑精緻な竹僚制や専制政治を生んだという[水力社会]論と共通性がある。水力社会論については理論モデルとしての再評価の動きもある一方、その「治水・濯漑の必要性→専制政治の成立」、つまり「水を制するもの中国を制す」という図式はすでに実証的に問題があると、黄土高原の土壌の分析を行った原宗子により指摘されている(原、1999)。ただし、逆に「政権の維持→治水・濯漑の必要性」、つまり「中国を制するもの水を制すべし」というテーゼは成り立つのではないかということをこの章では強調したい。
現代中国政治における治水
政治と治水のかかわりは現代中国においても密接である。以下、いくつかの事例で見てみよう。
さまざまな議論の末に1993年に着工, 2009年に竣工した三峡ダムは国務院直属の国営企業によって事業が行われ、多額の資金・住民の移動・政争や利権等の諸問題がからみ、さらには「環境問題」という新しい問題も加わり、非常に政治性を帯びている。孫文がその最初の提唱者だったという言説も、事業に正統性を与えようとしたものかもしれない。
1998年には、長江に大洪水が起こり大きな被害が出た。当時の国家主席であった江沢民はすべてに優先して現地にみずからおもむき陣頭指揮をとった。また、ある堤防を爆破することにより人口4万人の地域を犠牲にして人口720万人の大都市武漢を救うといったきわめて政治的判断を要する処理も行われた。これも治水の政治的比重の大きさを示す典型的な例であろう。
さて、現在黄河流域の景観をイメージせよといわれれば、樹木がほとんどない、むき出しになった黄土高原の浸食谷を、黄土を削りながら洞々と流れている濁流、という像を思い浮かべるであろう。このような景観は歴史的にいつごろまでさかのぽれるのか、といった純学問的とみなすことができる問いのなかにも、じつは政治とのつながりを見ることができる。
それは、黄河周辺の自然景観の歴史についての二つの説の対立である。ひとつは史念海の見解(史、2001)で、3000年前の黄土高原は全体に原始の森林と草原におおわれた平坦な台地が連なっており、河川も濁っていなかったが、前漢以降に人口の増加と農業の拡大にともなって森林の伐採が始まり、土壌の劣化と浸食が進んだ結果、黄土高原から流出する土砂で河川が濁りだし、黄河下流域の氾濫が頻発するようになったという。一方自然科学者の多くは、すでに約1万年前の更新世のおわりには黄土高原はすでに現在と類似した景観であったとしている(妹尾、2000)。
この問題は現在まだ論争中ではあるが、史念海の考え方は、人間の手によって環境が破壊されたのであるから、人間の手によってその回復も可能である、という論理により、現政権の国策による積極的な環境政策を肯定するものである、という指摘もされている。現に、「西部大開発」といわれる黄河周辺地域も含んだ西部地区の開発事業を正当化する根拠ともなっている。
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