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日本のグル・チョコレート

『チョコレートの歴史』より

熱帯で溶けないチョコレートが作られていたのは、イギリスだけではない。実は、第二次世界大戦中、日本でも溶けないチョコレートの開発か進められていた。

一九二〇~三〇年代の戦間期に、日本でも徐々にチョコレートが知られるようになっていた。入手しやすかったのは、「玉チョコ」「棒チョコ」だった。大正期に東京で菓子卸売業を営んでいた竹内政治(のち大東カカオ社長)は、一九一八年に愛知県に里帰りしたとき、森永製菓の「玉チョコ」を土産に持って帰った。「玉チョコ」ぱまんなかにクリームが入っていて、外側はチョコレートでコーティングされていた。チョコレート菓子をはじめて見た姉は、外側のチョコレートを食べるものだと思わず、爪でチョコレートをはがして、なかのクリームだけ食べた。褐色の固形物が食品だという概念がなかったのだろう。

一九二三年に竹内は、チョコレート製造を志して、森永の工場を訪問した。創業者の森永太一郎自らが工場で働いていて、機械や製造方法をていねいに説明してくれた。一通りの見学を終えると、昼食に誘ってくれて、チョコレート製造について熱心に語った。刺激された竹内は、スイスのビューラー社の機械を購入し、一九二九年にカカオ豆からチョコレートヘの一貫製造を実現させ、竹内商店として原料チョコレートの卸売業を始めた。森永では六〇○匁入り一箱が二円だったので、竹内商店では二円八〇銭で売った。

卸売りを始めると、原料チョコレートはとぶように売れた。昭和期にはチョコレート加工業者が増えて、原料チョコを仕入れ、「玉チョコ」などに加工して販売した。一九三三年に竹内商店では四人で一日に一トンを生産していたが、加工業者が買い取りに来て、箱詰めすると同時に売れて、売れ残りが出ることかなかった。日本人もチョコレートの味にだんだんと慣れていったのである。

戦争が始まると、そのような景気のよい話も終わった。一九四〇年十二月を最後にカカオ豆輸入はストップした。あとは軍の医薬品、食料品製造のため、指定された業者にだけ、軍ルートでカカオが配給されるのみとなった。医薬品として、ココアバターから解熱剤や座薬が作られた。カカオは軍用にマレーシアから輸送されてきた。

竹内商店は大東製薬工業株式会社に名称を変え、海軍省から受注した航空機と潜水艦のための「居眠り防止食」と「振気食」を製造した。飛行機の操縦士は復路に催眠にかかったように眠くなるという。眠気を覚醒させるため、チョコレートにカフェインを混ぜたものが「居眠り防止食」だった。航空機用の製造は簡単だったか、難しかったのは潜水艦用である。潜水艦の内部は、ときに摂氏四〇度に達する。「溶けないチョコレート」が必要だった。大東製薬では、特殊な機械で圧縮し、「溶けないチョコレート」を製造した。

南方戦線では、現地のカカオを使って、軍用チョコレートが生産された。陸軍と海軍の要請で、森永製菓は五〇人の従業員をインドネシアに派遣し、一九四二年からチョコレート生産にあたった。明治製菓も陸海軍の要請で、一九四三年からインドネシアで「溶けないチョコレート」の生産を開始した。熱帯で「溶けないチョコレート」とは、おそらくココアバターの代わりの代用油脂に、融点の高いものを用いたのであろう。

一九四〇年から一九五〇年までの一〇年間、日本国内へのカカオの輸入は止まったため、代用品を用いた「チョコレート」開発か進んだ。甘味には砂糖の代わりにグルコース(ブドウ糖)を用いたため、「グル・チョコレート」と呼ばれた。カカオの代わりの主原料として用いられたのは、百合根、チューリップ球根、オクラ、チコリ、芋類、小豆などである。ココアバターの代わりには、大豆油、椰子油、ヤブニッケイ油などが用いられた。バニラで香りをつけると、「グル・チョコレート」かできあがった。

戦後に国産チョコレートが復活するまでの間、進駐軍に「ギブ・ミー・チョコレート」とねだったのは、よく知られた話である。進駐軍が放出したハーシー社のチョコレートが闇市に出回った。
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