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実家がなくなる

未唯へ。あなたは裾野生まれだから、宮町の実家の思い出は少ないでしょう。私が高校生の時にそこに移りました。大学卒業後に、同じ市内の寮に入り、結婚して社宅に入居。その後に東富士の社宅で、長男が中学入学時にあわせて、奥さんが同じ町内に家を建てて、そこに移り住んでいます。

その実家、というよりも土地が売れました。父がなくなり、母が老人ホームに入るので、維持する必要がなくなり、母の同意の下で売却です。売りに出して、1週間もしないうちに買い手が見つかったそうです。豊田市はやはり、景気がいいのでしょうか。

社宅から、実家に引っ越した時に、コンクリートの壁に、初恋の女性の頭文字だけを書きました。未だに残っています。一番の思い出は一年間、予備校に行かずに、家で勉強した時です。

高校1年の時に、自分の存在理由が分からなくて不安定になっていた時に、風呂に入っている時に、「真理があるとしたら、数学しかない」と感じて、数学科に行くことに決めました。

名古屋大学に決めたのは、最初の受験の年からA3両面の公式集を受験に際して配布するというアナウンスがありました。これは私へのメッセージだと感じました。

皆は公式を記憶しておいて、スラスラ解くところを、私は毎回、公式を解いてから、本来の問題を解いていたので、倍の時間がかかっていました。常にゼロから解く訓練をしていました。これは、受験では大きなハンディです。名古屋大学は公式集を見ながら解けるのです。だから、他の大学を受験せずに、浪人を決めました。

浪人生活は、かなり充実していました。何しろ、誰にも邪魔されない。昼間は近くの川を散歩して、夜勉強していました。理科は100題だけに絞りました。数学は通信添削だけを行っていました。毎回、順位が出て、10番ぐらいには入っていました。カップももらいました。世界史は各国の因果関係を集中的に把握しました。古文は源氏物語を通読しました。英語以外はポリシーが持てました。おかげで、考える癖がつきました。

それを実家の4畳半のベットと机しかない部屋で過ごしました。おかげで、予備校の連中が全滅した年に、大学に合格しました。数学は満点でした。英語は35点ぐらい。入学後、メッセージを発信したのが四方教授だと感じて、彼のセミナーに決めました。おかげで、真理のヒントをつかむことができました。
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