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ドイツの11月9日の特異性

『世界の歴史を変えた日』より

以下の3つの項目が11月9日に起こっている。

1918年11月9日 ドイツ皇帝ヴィルヘルム2世、退位させられる

 1918年11月9日、声明が発表された。「私はこれをもってプロイセンの王位とそれにともなうドイツ帝国の帝位を永久に放棄する」。ところが、厳密にいうと皇帝ヴィルヘルム2世は実際この日に退位したのではない。この決定は皇帝本人の承諾なしに皇帝の代理として、遠戚にあたるバーデン公マクスが公式に表明したものだ。ドイツ帝国の最後の首相だった大公は、大戦末期のベルリンで勃発した革命のうねりを必死に食い止めようとしていた。ヴィルヘルム2世本人はドイツ軍参謀本部が置かれていたベルギーの木深い小村スパーにいた。

 前線で次々に退却するドイツ軍を前にヴィルヘルム2世は、その性格からして、どう手を打つべきかなかなか決断できないでいた。お気に入りの外洋艦隊の乗組員たちは大規模な反乱を起こし、べルリンではストライキを起こした労働者や革命家たちが公共の建物を襲撃した。初めのうち皇帝は怒鳴り散らすばかりで、軍隊に脅しをかけて革命を力ずくで鎮圧するよう指揮していたが、やがて考えを変えた。意見を求めた司令官20人のうち、部下の離反に対し自行が責任を取ると答えた者が2人しかいないこの報告を受けたのだ。皇帝が将軍たちに私へつ誓いを忘れたのかと問いただすと、ヴィルヘルム・グレーナー将軍は「陛下、このような状況下において、誓いなどただの言葉の綾にすぎないとお考えください」とにべもなく返答した。

 威信を傷つけられ立腹したヴィルヘルム2世は皇帝列車に乗り込み、夜のうちに国境を越えて中立国オランダヘと旅立った。 11月28日、ヴィルヘルム2世は公式に「国王の特権の使用を中止した」。第2次世界大戦のさなか1941年6月に亡くなるまで亡命を続け、故国ドイツの土を踏むことはなかった。

1938年11月9日 水晶の夜事件が起こる

 1938年11月9日、「クリスタル」(割れたガラス)が大量に街の通りに散乱した。そこからこの暴動に「クリスタルナハト」(水晶の夜)ごいう名がついた。ヒトラーは古参の党員の会食の席で、パリのドイツ人外交官エルンスト・フォム・ラートが、ヘルシェル・グリュンシュペンに射殺されたという知らせを受けた。グリュンシュパンは、ポーランド系ユダヤ人1万2000人がドイツからポーランドヘ強制退去させられたことに抗議したが、失敗したことに激怒して、暗殺におよんだ。ヒトラーを代弁してョーゼフ・ゲッベルスは声明を発表した。「ヒドラーは威嚇行動は公認しない、ただし自然発生的な暴動を妨げるものではない」。この声明づ合図となって、全国規模でユダヤ人コミュニ≒ィヘの襲撃が起こった。民間人の服を着たナJ一党組織のメンバーや突撃隊(SA)や親衛隊 SS)が、斧や大ハンマーを手に、ユダヤ人の言舗や建物への襲撃を先導した。

 7000件の店舗、29件の百貨店、その他数多での民家が破壊された。ドイツとオーストリアのシナゴーグが略奪され、ユダヤ人共同墓地が冒涜された。3万人以上のドイツ系ユダヤ人がダッハウ、ブーヘンヴァルト、ザクセンハウゼンの強制収容所へ送られた。

 ドイツ政府は、この暴動は反ユダヤ主義の怒りが自然発生的に表れたものであると主張したが、証拠資料により、「水晶の夜」はユダヤ人コミュニティ殲滅活動の一環として、ナチ党が計画したことがわかっている。こうした事件の結果、ユダヤ人の海外への移民が急増した。

1989年11月9日 ベルリンの壁崩壊

 まさに冷戦の象徴だったベルリンの壁が、壁の両側から市民の手によって破壊された。建設から28年が過ぎていた。この壁を作った東ドイツの社会主義統一党は、壁は東ドイツ国民をファシズムから守るためのものだと主張したが、だまされる人間はいなかった。それは明らかに、東ドイツ国民がより豊かな西ドイツヘ大量に流出するのを食い止めるためのものだった。巧妙なやり方で壁を越える人々や、壁を越えようとして殺される人々は後を絶たなかったが、しかし壁が東ドイツに安定をもたらしたのも確かだった。

 しかし1980年代の後半になると、その安定はあやしくなっていった。ソ連のミハイル・ゴルバチョフによる改革は、変化を渇望する東ドイツ国民を熱狂させた。しかし改革は共産党支配を終わらせるだけであることがわかっていた党指導者エーリッヒ・ホーネッカーは、ゴルバチョフにならうことを拒否する。国民の不満は大規模なデモや多数の国外脱出となって表れた。このときの国外脱出は、オーストリアとの間に国境が開かれているハンガリーを経由するもので、このルートを通って数千人が西ドイツヘ到達した。東ドイツを必死に維持しようとする社会主義統一党は、1989年10月にホーネッカーを退任させてエゴン・クレンツを新たな指導者の地位にすえる。

 危機に対処すべきクレンツ政権は驚くほど無能だった。西ベルリンヘの移動制限の緩和は発表されたものの、具体的な内容ははっきりとは示されなかった。壁が開かれるという噂が流れ、数千人が検問所に押しかけて自分たちを通してくれと要求した。はっきりした命令を受けていなかった警備隊は、この人々の通過を認める。まもなく東ドイツ政府は崩壊し、1990年10月には東ドイツ国家それ自体が消滅した。

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