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チエ・ゲバラとボリビア

『ボリビアを知るための73章』より

未唯空間での配置;米州連合

チエ・ゲバラがカストロと決別し、革命後キューバの閣僚の地位や特権のすべてを投げ捨てて、「二つ、三つ、さらに多くのベトナムを作る」ことを合言葉に、ボリビアでの革命闘争に身を投じたのは1966年の11月のことであった。11月4日空路ラパスから偽名で潜入したチエは、陸路コチャバンバを経由して、7日サンタクルス県のニャンカウアスの宿営地に到着、そこを拠点としキューバから同行した17名の戦士と現地で合流した30名足らずのボリビア人らと闘争を開始した。アメリカ帝国主義に対抗するため、南米大陸の中心に位置するボリビアの持つ地政学的条件は理想的に映った。そこから革命的解放の火を南米全土に拡大しようとするチエの考えには、独立運動のさなかに南米の統一に想いを寄せたシモン・ボリーバルや、今日の南米共同体に向けた地域統合の動きと重なり合うものがある。

だが翌67年10月8日、アメリカの軍事援助を受けたボリビア政府軍によって捕らえられるまで、険しい渓谷部での約1年にわたるゲリラ闘争は孤独なものだった。持病の喘息の発作に苦しむ姿とともに、その一部始終を書き綴ったいわゆる『ボリビア日記』には、都市など外部との連携の不足と農民層の支持を得られないことが毎月の総括として記されている。ゲバラの実践しようとした根拠地革命を冒険主義として拒絶するソ連に忠実な、ボリビア共産党の冷淡な姿勢と裏切りがあった。期待した鉱山労働者の合流もなかった。革命後ボリビア農村は農地改革によって保守化しており、とくにバリエントス軍政と農民との間につくられた同盟関係は障害であった。壮絶な死をむかえるひと月前には、農民大衆が密告者となっていることを深く嘆いている。2000人の政府軍を前に、多い時でも50人そこそこで戦わねばならなかった。キューバのシエラ・マエストラでの闘争の展開とは、地形を含め、その条件において大きく異なっていたのである。

寒村のラ・イゲラで銃殺された後、密かに埋葬されたチエの遺体は、30年後の97年キューバ政府の強い要請により掘り起こされ、遺骨はキューバに運ばれ、10月サンタ・クララの霊廟に埋葬された。他方、ラーイゲラにもチエの胸像や記念館が建てられ、「ゲバラ通り」などゲバラに因んだ観光インフラが整えられた。グローバル化のなかで世界のゲバラ人気にあやかリ生き残りをかけようとする社会主義の孤塁キューバと、思想はともかく、観光客の誘致を意識した新自由主義のボリビアという相対立する政府の思惑が、ゲバラという遺産をめぐリ奇妙にもクロスした形である。

だが、そうした権力側の思惑とは別に、39歳の若さでこの世を去ったゲバラの、正義の実現に向けて注がれた理想主義は、ボリビアのみならず世界の人びとを惹きつけ続けて止まない。
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