未唯への手紙
未唯への手紙
子どもの反応をどう受けとめるか
『がんばれ!児童図書館員』より 講師として子どもの読書の意義を伝える(対象 図書館員)
子どもがよろこぶ絵本を選ぼうとするとき、「何をもって、よろこんだとするか?」もむずかしいところです。学校で読み聞かせをしているボランティアのかたがしばしば陥りがちなのが、「〝受ける〟絵本がいい」という信仰です。たしかに、子どもが笑ってくれたり、何か反応してくれると、だれもがうれしくなります。自分のまえにやったお母さんが↓受けた〃から、私ももっと〝受ける〟本をといってくるかたもいます。でも、〝受ける〟って、いったいどういうことでしょう。絵本を読んでもらって笑うというのは、大いに健康的で、奨励すべきことです。でも、子どもの笑いを誘いたいがために絵本を選ぶというのは、邪道ではないでしょうか。その場では笑ってもすぐに忘れられてしまうなら、あまり意味のないことです。
最近とくに、主人公がありえない状況やありえない状態に陥って、その意外性に驚いたりよろこんだりする絵本が多いと感じます。今回みなさんが選んだ本のなかにも、そういった本が目立ちました。主人公や状況の意外性が、1、2、1、2、1、2とだんだん過剰になって、それが子どもの笑いをますます誘うという作品もあります。もちろん、そういった絵本が読まれてもかまわないのですけれど、たまに一冊読む程度で十分なのではないかと思います。そういった作品は聞き手の子どもに、おもしろい状況を楽しむ↓意外性に驚くIいわば。対岸の火事〃のような態度を生じさせるように感じます。
子どもの文学の基本は、瀬田貞二さんのいうところの「行きて帰りし物語」です。主人公が課題を抱えて冒険に行き、何事かを果たして、成長して帰ってくる。子どもは、主人公と一体になって、主人公に寄り添って、心を動かし、内的体験をします。だからこそ、物語が子どもに大きな力をあたえるのではないでしょうか。この体験の積み重ねが幼い子どものお話を楽しむ力を育て、やがて本格的な児童文学を読めるようになるのだと思います。
私たちの図書館では、特別支援学校(視聴覚障がい)におはなし会に行っています。子どもたちは、とてもお話を楽しむ力があり、ことばにとびっくように聞いています。先月のおはなし会でも、どの子も主人公になりきって聞いていました。「ミアッカどん」では、トミーの足がちょん切られる場面で高学年の女の子が、「ひえーー」と身をすくめて声を出したくらいです。
終わりに先生が「何かいいたい人」と聞くと、五年生の男の子が勢いよく立ちあがりました。彼はたいへんな読書家で、おはなし会では理想的な聞き手です。立ちあがると、考え考え、「今日のお話はとてもおもしろくて、どの話もとてもおもしろくて……」とことばを切って、自分の気持ちを伝えようと何度も口をあけましたが、とうとう見つからず、「おもしろかったです!」といいました。「何をいうのだろう?」と待ちかまえていた私たちは、思わず笑ってしまいました。彼もいっしょに笑っていました。
絵本を聞き終わったあと、ため息をついてぼおっとしている子どもがよくいます。内的な体験をしたあとで、それを受けとめている時間なのだと思います。すぐには、反応したりことばで表したりできない。何も出てこないのです。
子どもの反応に一喜一憂しない--このことを私たち自身も肝に銘じ、またボランティアのかたがたに伝えたいものです。
もうひとつ伝えたいことは、読書は子どもの心に関わる営みだということです。読み手と聞き手に交流がないのに、安易に〝扱った本〟や〝人類の非道をとりあげた本〟を読み聞かせるのは避けるべきです。
ある人からこんな話を聞いたことがあります。子どものとき、友だちの家で偶然『ひろしまのピカ』を読んでしまい、怖くてたまらなくなった。家に帰ってお母さんにその絵本の話をしたら、お母さんは、「日本には昔、そういう悲しいことがあったのよ」といって、その子の悲しみと衝撃を受けとめてくれた。そのおかげで、あの衝撃を乗り越えることができたといいます。
お母さんがそういうかたで、ほんとうによかったと思います。そうでない子どもも、大勢います。
しばらくまえ、たまたま二〇代の若い人たちと飲む機会がありました。何かの拍子に子どもの本の話になりました。すると彼らは異口同音に、「子どもの本は悲しい」というのです。そして、驚く私に次々と書名をあげてみせました。『ちいちゃんのかげおくり』『かわいそうなぞう』『ごんぎつね』『大造じいさんとガン』『泣いた赤おに』『スーホの白い馬』……。たしかにそのとおりです。教科書でとりあげられる作品は、それぞれの学習課題があって選ばれているわけですが、それでも私たちおとなは、子どもたちが文句なしに楽しめる本をもう少し手わたしてきてもよかったのではないかと思いました。
子どもがよろこぶ絵本を選ぼうとするとき、「何をもって、よろこんだとするか?」もむずかしいところです。学校で読み聞かせをしているボランティアのかたがしばしば陥りがちなのが、「〝受ける〟絵本がいい」という信仰です。たしかに、子どもが笑ってくれたり、何か反応してくれると、だれもがうれしくなります。自分のまえにやったお母さんが↓受けた〃から、私ももっと〝受ける〟本をといってくるかたもいます。でも、〝受ける〟って、いったいどういうことでしょう。絵本を読んでもらって笑うというのは、大いに健康的で、奨励すべきことです。でも、子どもの笑いを誘いたいがために絵本を選ぶというのは、邪道ではないでしょうか。その場では笑ってもすぐに忘れられてしまうなら、あまり意味のないことです。
最近とくに、主人公がありえない状況やありえない状態に陥って、その意外性に驚いたりよろこんだりする絵本が多いと感じます。今回みなさんが選んだ本のなかにも、そういった本が目立ちました。主人公や状況の意外性が、1、2、1、2、1、2とだんだん過剰になって、それが子どもの笑いをますます誘うという作品もあります。もちろん、そういった絵本が読まれてもかまわないのですけれど、たまに一冊読む程度で十分なのではないかと思います。そういった作品は聞き手の子どもに、おもしろい状況を楽しむ↓意外性に驚くIいわば。対岸の火事〃のような態度を生じさせるように感じます。
子どもの文学の基本は、瀬田貞二さんのいうところの「行きて帰りし物語」です。主人公が課題を抱えて冒険に行き、何事かを果たして、成長して帰ってくる。子どもは、主人公と一体になって、主人公に寄り添って、心を動かし、内的体験をします。だからこそ、物語が子どもに大きな力をあたえるのではないでしょうか。この体験の積み重ねが幼い子どものお話を楽しむ力を育て、やがて本格的な児童文学を読めるようになるのだと思います。
私たちの図書館では、特別支援学校(視聴覚障がい)におはなし会に行っています。子どもたちは、とてもお話を楽しむ力があり、ことばにとびっくように聞いています。先月のおはなし会でも、どの子も主人公になりきって聞いていました。「ミアッカどん」では、トミーの足がちょん切られる場面で高学年の女の子が、「ひえーー」と身をすくめて声を出したくらいです。
終わりに先生が「何かいいたい人」と聞くと、五年生の男の子が勢いよく立ちあがりました。彼はたいへんな読書家で、おはなし会では理想的な聞き手です。立ちあがると、考え考え、「今日のお話はとてもおもしろくて、どの話もとてもおもしろくて……」とことばを切って、自分の気持ちを伝えようと何度も口をあけましたが、とうとう見つからず、「おもしろかったです!」といいました。「何をいうのだろう?」と待ちかまえていた私たちは、思わず笑ってしまいました。彼もいっしょに笑っていました。
絵本を聞き終わったあと、ため息をついてぼおっとしている子どもがよくいます。内的な体験をしたあとで、それを受けとめている時間なのだと思います。すぐには、反応したりことばで表したりできない。何も出てこないのです。
子どもの反応に一喜一憂しない--このことを私たち自身も肝に銘じ、またボランティアのかたがたに伝えたいものです。
もうひとつ伝えたいことは、読書は子どもの心に関わる営みだということです。読み手と聞き手に交流がないのに、安易に〝扱った本〟や〝人類の非道をとりあげた本〟を読み聞かせるのは避けるべきです。
ある人からこんな話を聞いたことがあります。子どものとき、友だちの家で偶然『ひろしまのピカ』を読んでしまい、怖くてたまらなくなった。家に帰ってお母さんにその絵本の話をしたら、お母さんは、「日本には昔、そういう悲しいことがあったのよ」といって、その子の悲しみと衝撃を受けとめてくれた。そのおかげで、あの衝撃を乗り越えることができたといいます。
お母さんがそういうかたで、ほんとうによかったと思います。そうでない子どもも、大勢います。
しばらくまえ、たまたま二〇代の若い人たちと飲む機会がありました。何かの拍子に子どもの本の話になりました。すると彼らは異口同音に、「子どもの本は悲しい」というのです。そして、驚く私に次々と書名をあげてみせました。『ちいちゃんのかげおくり』『かわいそうなぞう』『ごんぎつね』『大造じいさんとガン』『泣いた赤おに』『スーホの白い馬』……。たしかにそのとおりです。教科書でとりあげられる作品は、それぞれの学習課題があって選ばれているわけですが、それでも私たちおとなは、子どもたちが文句なしに楽しめる本をもう少し手わたしてきてもよかったのではないかと思いました。
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