未唯への手紙
未唯への手紙
文化大革命
『キッシンジャー回顧録 中国』より
国家的緊急事態が起きかねないこの時期に、毛沢東は中国という国家と共産党を破壊することを選んだ。彼は伝統的中国文化の頑強な残直に対して、最後の攻撃となると考えた運動を発動した。その残直の破片から、新たな、イデオロギー的に純粋な世代が立ち上がると、毛沢東は予測した。それは内外の敵から革命の大義を守るために、十分な心構えのできている世代だった。彼は中国を、一〇年のイデオロギー的熱狂、容赦のないセクト政治、内戦に近い状態に駆り立てた。これがプロレタリア文化大革命として知られるものだった。
どんな組織も、次々に起きる大激変の波から逃れられなかった。北京からの政治宣伝で駆り立てられた「大衆」との暴力的な対峙の中で、国の至る所で地方政府が解体された。中国共産党や人民解放軍の著名な指導者たちが、革命戦争の指導者たちも含め、粛清され、公開の場で恥辱にさらされた。それまで長い間、中国の社会秩序のバックボーンだった教育制度は立ち往生し、若い世代が国を放浪して、毛沢東の「革命をやることで、革命を学ぼう」という呼び掛けに呼応することができるように、授業は無期限に中止された。
突然、東縛を外されたこうした若者たちは、紅衛兵の各セクトに加わった。紅衛兵とは、イデオロギー的熱狂で結び付けられた若者の武装組織で、超法規的に、また通常の組織構造の外で(多くの場合、それに露骨に反対する形で)活動した。毛沢東はそうした活動を、「革命無罪」「司令部を攻撃せよ」といった、曖昧だが扇動的なスローガンで支持した。毛沢東は若者たちが、今ある共産党の官僚主義や伝統的な社会慣習を暴力的に攻撃することを認め、「無秩序」を恐れず、ぞっとする「四旧」、すなわち古い思想、古い文化、古い風俗、古い習慣の撲滅のために戦うようけしかけた。毛沢東主義者の考えでは、この「四旧」が中国を弱体化させているのだった。人民日報は「無法を称賛する」という社説で、炎を煽った。それは、調和と秩序という中国の一〇〇〇年来の伝統を、はっきりと、政府公認で非難したものだった。
その結果生じたのは、人間の、そして制度の、甚だしい惨状だった。中国の権力機関、公的機関は、共産党の最高階層を含め、一つ一つ、十代のイデオロギー的突撃隊による攻撃に屈服していった。それまでは学問や博学を尊敬する文明として知られていた中国は、下克上の世界となり、子供は両親に反抗し、学生は教師を残忍に扱い、書籍を燃やし、専門家や高官は、文字の読めない小作農から革命的実践を学ぶために、農場や工場に送られた。紅衛兵や彼らと組んだ市民たちー嵐を生きながらえようと、手当たり次第に紅衛兵のセクトを選んだ者もいたーが、中国の古い「封建的」秩序へ戻る兆しとなりそうなあらゆる目標へ怒りを向け、残酷なシーンが国中で展開された。
こうした攻撃目標の中には、何世紀も前に死んだ人々もいたが、彼らが歴史上の人物だからといって、攻撃の激しさが弱まることはなかった。北京の革命的学生と教師は孔子の郷里の村に押しかけ、中国に対する古代聖人の影響に決定的に終止符を打つと称して、古い書籍を燃やし、記念碑を打ち壊し、孔子とその子孫の墓を破壊した。北京では「重要文化歴史地点」に指定された首都の六八四三ヵ所のうち、四九二二ヵ所が紅衛兵の攻撃で破壊された。紫禁城は周恩来が個人的に介入したことで、ようやく救われたと報じられている。
伝統的に儒教知識人エリートによって統治されてきた社会が、今や、知恵の源泉として、教育のない農民に頼ることになった。大学は閉鎖された。「専門家」と見なされた者はみな疑われた。専門的能力は危険なブルジョア的概念たった。
中国の外交姿勢はぐらついた。ソ連圏に対して、西側諸国に対して、自国の文化や歴史に対して、手当たり次第に怒りまくる中国を、世界はほとんど理解に苦しむという目で見ていた。海外にいる中国の外交官やその補助職員たちは、駐在国の市民に対して革命を呼び掛け、「毛沢束思想」を講義して熱弁をふるった。七〇年前の義和団の乱さながらに、紅衛兵の群れが北京にある大使館を襲った。英国外交公館は略奪され、逃げまどうスタッフは殴打され、性的な暴行を受けた。英国外相が陳毅外相に書簡を送り、英国と中国は「外交関係を維持しながらも……当面、互いの首都から外交使節団と人員とを引き揚げ」るよう提案したが、中国側からの返答はなかった。中国外相自身、国内闘争で批判を受けており、回答できなかったのだ。最終的には、一人の大使-有能でイデオロギー的に申し分のなかったカイロ駐在の黄華大使-を除くすべての中国大使と、約三分の二の大使館スタッフが本国に呼び戻され、田舎での再教育を受けさせられるか、革命活動に参加させられた。中国はこの時期、数十カ国の政府と派手な紛争を引き起こしていた。中国が本当に前向きな関係を保っていたのはたったIカ国、アルバニアだけだった。
文化大革命の象徴は、毛沢東の言葉の引用を集めた、小さな赤い「毛沢東語録」だった。一九六四年に林彪が編纂したものだった。林彪はその後、毛沢東の後継者に指名されたが、クーデターを試みたとされ、中国から逃げる際に、真相のはっきりしない航空機の墜落で死亡した。すべての中国人は「毛語録」を一冊、持ち歩かねばならなかった。紅衛兵たちは「毛語録」を振りかざしながら、北京の許可の下に、少なくとも黙認の下に、中国全土で公共の建物を「奪取」し、地方の官僚機構に暴力的に挑戦した。
しかし紅衛兵たちは、自分たちが純化しようとした幹部だちと同様、革命が自分たちの頭上に降りかかってくるというジレンマに免疫がなかった。公式の訓練ではなく、イデオロギーで結束した紅衛兵たちは、自らのイデオロギー的、個人的嗜好を追求するセクトになっていった。紅衛兵のセクト間の戦闘があまりに激しくなったので、毛沢東は一九六八年には紅衛兵を公式に解体し、地方政府再建のために党と軍の忠実な指導者を配置した。
若者世代を農民から学ばせるために、遠く離れた田舎に送り込む「下放」という新たな政策がはっきりと打ち出された。この時点で、中国で指揮系統が機能している大きな組織は軍だけだった。軍は通常の業務範囲をはるかに超えた役割を引き受けた。軍人は破壊されっくした政府省庁を動かし、農場の面倒を見て、工場を経営した。これらすべては、国家の防衛という本来の任務に加えて行われた。
文化大革命が直接与えたインパクトは壊滅的だった。毛沢東の死後、第二世代、第三世代の指導者たちー‐ほとんどすべてが、さまざまな場面で被害を受けていたーが行った文革評価は、非難に満ちていた。一九七九年から一九九一年・まで、中国の中心的指導者だった小平は、文化大革命は組織としての中国共産党をほとんど壊滅させ、共産党への信頼を少なくとも一時的には破壊したと主張した。
近年、個人的な記憶が薄れるにつれて、別の見解がためらいがちに現れ始めている。この見解は、文化大革命の中で大いなる悪行がなされたことを認めながらも、毛沢東はおそらく重要な問題を提起したのではないかーたとえ彼の出した答えが悲惨なものだったとしてもーと、問い掛け始めている。毛沢東がはっきりさせようとしたとされる問題とは、現代国家、特に共産主義国家と、それが統治する大衆との関係である。主に農業中心の社会においては、そして初期の工業社会においても、統治が関心を持つのは、一般大衆が理解できる範囲内の問題である。もちろん貴族社会においては、ここで言う大衆の範囲は限られている。しかし、その統治に公式の正統性があるかどうかは別にして、もし統治がまったくの押し付けでないならば、命令を実行する人々による、何らかの暗黙の意志一致が必要である。統治が押し付けならば、そうした統治が歴史上の一定期間にわたって維持されることは、まずない。
現代において難題なのは、諸問題が非常に複雑になったため、法的な枠組みが徐々に理解不可能なものになっていることである。政治システムは命令を発するが、執行はその大部分が官僚機構に任される。その官僚機構は政治プロセスからも大衆からも切り離されており、周期的に行われる選挙によってさえ、コントロールされてはいない。米国においてさえ、重要な法律はしばしば数千ページにわたっており、甘く見ても、細部まで目を通している議員はごくごく少数である。特に共産主義国家では、官僚機構は、自分たちで定義した手順を遂行するに当たって、自分たちだけのルールを持つ自己完結型の単位で動く。
政治階層と官僚階層の間には溝があり、これら二つの階層と大衆の間にも溝がある。このようにして、官僚主義的モメンタムによって新たな高級官僚階層が現れる恐れがある。一度の大規模な攻撃でそうした問題を解決しようとした毛沢束の試みは、中国社会を壊滅の瀬戸際に追いやった。中国人学者で政府顧問の胡鞍鋼は最近の著書で、文化大革命そのものは失敗だったが、それは一九七〇年代末から一九八〇年代の小平改革の土台をつくったと論じた。胡鞍鋼は、現在の中国の政治制度における「政策決定システム」を、より「民主的で、科学的で、制度化されたもの」にする方法を探るため、文化大革命をケース・スタディとして使うよう提案している。
国家的緊急事態が起きかねないこの時期に、毛沢東は中国という国家と共産党を破壊することを選んだ。彼は伝統的中国文化の頑強な残直に対して、最後の攻撃となると考えた運動を発動した。その残直の破片から、新たな、イデオロギー的に純粋な世代が立ち上がると、毛沢東は予測した。それは内外の敵から革命の大義を守るために、十分な心構えのできている世代だった。彼は中国を、一〇年のイデオロギー的熱狂、容赦のないセクト政治、内戦に近い状態に駆り立てた。これがプロレタリア文化大革命として知られるものだった。
どんな組織も、次々に起きる大激変の波から逃れられなかった。北京からの政治宣伝で駆り立てられた「大衆」との暴力的な対峙の中で、国の至る所で地方政府が解体された。中国共産党や人民解放軍の著名な指導者たちが、革命戦争の指導者たちも含め、粛清され、公開の場で恥辱にさらされた。それまで長い間、中国の社会秩序のバックボーンだった教育制度は立ち往生し、若い世代が国を放浪して、毛沢東の「革命をやることで、革命を学ぼう」という呼び掛けに呼応することができるように、授業は無期限に中止された。
突然、東縛を外されたこうした若者たちは、紅衛兵の各セクトに加わった。紅衛兵とは、イデオロギー的熱狂で結び付けられた若者の武装組織で、超法規的に、また通常の組織構造の外で(多くの場合、それに露骨に反対する形で)活動した。毛沢東はそうした活動を、「革命無罪」「司令部を攻撃せよ」といった、曖昧だが扇動的なスローガンで支持した。毛沢東は若者たちが、今ある共産党の官僚主義や伝統的な社会慣習を暴力的に攻撃することを認め、「無秩序」を恐れず、ぞっとする「四旧」、すなわち古い思想、古い文化、古い風俗、古い習慣の撲滅のために戦うようけしかけた。毛沢東主義者の考えでは、この「四旧」が中国を弱体化させているのだった。人民日報は「無法を称賛する」という社説で、炎を煽った。それは、調和と秩序という中国の一〇〇〇年来の伝統を、はっきりと、政府公認で非難したものだった。
その結果生じたのは、人間の、そして制度の、甚だしい惨状だった。中国の権力機関、公的機関は、共産党の最高階層を含め、一つ一つ、十代のイデオロギー的突撃隊による攻撃に屈服していった。それまでは学問や博学を尊敬する文明として知られていた中国は、下克上の世界となり、子供は両親に反抗し、学生は教師を残忍に扱い、書籍を燃やし、専門家や高官は、文字の読めない小作農から革命的実践を学ぶために、農場や工場に送られた。紅衛兵や彼らと組んだ市民たちー嵐を生きながらえようと、手当たり次第に紅衛兵のセクトを選んだ者もいたーが、中国の古い「封建的」秩序へ戻る兆しとなりそうなあらゆる目標へ怒りを向け、残酷なシーンが国中で展開された。
こうした攻撃目標の中には、何世紀も前に死んだ人々もいたが、彼らが歴史上の人物だからといって、攻撃の激しさが弱まることはなかった。北京の革命的学生と教師は孔子の郷里の村に押しかけ、中国に対する古代聖人の影響に決定的に終止符を打つと称して、古い書籍を燃やし、記念碑を打ち壊し、孔子とその子孫の墓を破壊した。北京では「重要文化歴史地点」に指定された首都の六八四三ヵ所のうち、四九二二ヵ所が紅衛兵の攻撃で破壊された。紫禁城は周恩来が個人的に介入したことで、ようやく救われたと報じられている。
伝統的に儒教知識人エリートによって統治されてきた社会が、今や、知恵の源泉として、教育のない農民に頼ることになった。大学は閉鎖された。「専門家」と見なされた者はみな疑われた。専門的能力は危険なブルジョア的概念たった。
中国の外交姿勢はぐらついた。ソ連圏に対して、西側諸国に対して、自国の文化や歴史に対して、手当たり次第に怒りまくる中国を、世界はほとんど理解に苦しむという目で見ていた。海外にいる中国の外交官やその補助職員たちは、駐在国の市民に対して革命を呼び掛け、「毛沢束思想」を講義して熱弁をふるった。七〇年前の義和団の乱さながらに、紅衛兵の群れが北京にある大使館を襲った。英国外交公館は略奪され、逃げまどうスタッフは殴打され、性的な暴行を受けた。英国外相が陳毅外相に書簡を送り、英国と中国は「外交関係を維持しながらも……当面、互いの首都から外交使節団と人員とを引き揚げ」るよう提案したが、中国側からの返答はなかった。中国外相自身、国内闘争で批判を受けており、回答できなかったのだ。最終的には、一人の大使-有能でイデオロギー的に申し分のなかったカイロ駐在の黄華大使-を除くすべての中国大使と、約三分の二の大使館スタッフが本国に呼び戻され、田舎での再教育を受けさせられるか、革命活動に参加させられた。中国はこの時期、数十カ国の政府と派手な紛争を引き起こしていた。中国が本当に前向きな関係を保っていたのはたったIカ国、アルバニアだけだった。
文化大革命の象徴は、毛沢東の言葉の引用を集めた、小さな赤い「毛沢東語録」だった。一九六四年に林彪が編纂したものだった。林彪はその後、毛沢東の後継者に指名されたが、クーデターを試みたとされ、中国から逃げる際に、真相のはっきりしない航空機の墜落で死亡した。すべての中国人は「毛語録」を一冊、持ち歩かねばならなかった。紅衛兵たちは「毛語録」を振りかざしながら、北京の許可の下に、少なくとも黙認の下に、中国全土で公共の建物を「奪取」し、地方の官僚機構に暴力的に挑戦した。
しかし紅衛兵たちは、自分たちが純化しようとした幹部だちと同様、革命が自分たちの頭上に降りかかってくるというジレンマに免疫がなかった。公式の訓練ではなく、イデオロギーで結束した紅衛兵たちは、自らのイデオロギー的、個人的嗜好を追求するセクトになっていった。紅衛兵のセクト間の戦闘があまりに激しくなったので、毛沢東は一九六八年には紅衛兵を公式に解体し、地方政府再建のために党と軍の忠実な指導者を配置した。
若者世代を農民から学ばせるために、遠く離れた田舎に送り込む「下放」という新たな政策がはっきりと打ち出された。この時点で、中国で指揮系統が機能している大きな組織は軍だけだった。軍は通常の業務範囲をはるかに超えた役割を引き受けた。軍人は破壊されっくした政府省庁を動かし、農場の面倒を見て、工場を経営した。これらすべては、国家の防衛という本来の任務に加えて行われた。
文化大革命が直接与えたインパクトは壊滅的だった。毛沢東の死後、第二世代、第三世代の指導者たちー‐ほとんどすべてが、さまざまな場面で被害を受けていたーが行った文革評価は、非難に満ちていた。一九七九年から一九九一年・まで、中国の中心的指導者だった小平は、文化大革命は組織としての中国共産党をほとんど壊滅させ、共産党への信頼を少なくとも一時的には破壊したと主張した。
近年、個人的な記憶が薄れるにつれて、別の見解がためらいがちに現れ始めている。この見解は、文化大革命の中で大いなる悪行がなされたことを認めながらも、毛沢東はおそらく重要な問題を提起したのではないかーたとえ彼の出した答えが悲惨なものだったとしてもーと、問い掛け始めている。毛沢東がはっきりさせようとしたとされる問題とは、現代国家、特に共産主義国家と、それが統治する大衆との関係である。主に農業中心の社会においては、そして初期の工業社会においても、統治が関心を持つのは、一般大衆が理解できる範囲内の問題である。もちろん貴族社会においては、ここで言う大衆の範囲は限られている。しかし、その統治に公式の正統性があるかどうかは別にして、もし統治がまったくの押し付けでないならば、命令を実行する人々による、何らかの暗黙の意志一致が必要である。統治が押し付けならば、そうした統治が歴史上の一定期間にわたって維持されることは、まずない。
現代において難題なのは、諸問題が非常に複雑になったため、法的な枠組みが徐々に理解不可能なものになっていることである。政治システムは命令を発するが、執行はその大部分が官僚機構に任される。その官僚機構は政治プロセスからも大衆からも切り離されており、周期的に行われる選挙によってさえ、コントロールされてはいない。米国においてさえ、重要な法律はしばしば数千ページにわたっており、甘く見ても、細部まで目を通している議員はごくごく少数である。特に共産主義国家では、官僚機構は、自分たちで定義した手順を遂行するに当たって、自分たちだけのルールを持つ自己完結型の単位で動く。
政治階層と官僚階層の間には溝があり、これら二つの階層と大衆の間にも溝がある。このようにして、官僚主義的モメンタムによって新たな高級官僚階層が現れる恐れがある。一度の大規模な攻撃でそうした問題を解決しようとした毛沢束の試みは、中国社会を壊滅の瀬戸際に追いやった。中国人学者で政府顧問の胡鞍鋼は最近の著書で、文化大革命そのものは失敗だったが、それは一九七〇年代末から一九八〇年代の小平改革の土台をつくったと論じた。胡鞍鋼は、現在の中国の政治制度における「政策決定システム」を、より「民主的で、科学的で、制度化されたもの」にする方法を探るため、文化大革命をケース・スタディとして使うよう提案している。
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