goo

権力を握ったチャベス

『探究』より

権力を握ったチャベス

 四二歳の陸軍中佐が、果たして国を治められるのだろうか? チャペスは民主主義者なのか、それとも独裁者なのか? 当初の発言では、それか曖昧だった。「私を従来の分析基準で評価しようとしたら、ぜったいに困惑から抜けられないだろう」チャペスはそういった。「チャペスは右翼なのか、中道なのか、左翼なのか、社会主義者なのか、共産主義者なのか、資本家なのか--そのいずれかだと決め付けようとしたら、どれにもあてはまらない。だか、それらすべての要素かすこしずつある」べつのときには、こうつけくわえた。「レッテルを貼られたり、小さな枠をはめられたりすることは、絶対に拒否する。墓場にはいるまで拒否する。政治や思想を幾何学のような絶対的原理にあてはめるのは受け入れられない。私にとって左翼、右翼というのは、比較の問題だ。私は多くの要素を含んでおり、私の思考はすべてをすこしずつそなえている」

 どういう思想を抱いていたにせよ、チャペスは迅速に行動して、すべての権力を掌握した。「虫に食われている」と自分が評した正統な政府機構は温存しつつ、独立した機能はすべて奪った。新しい機構を強引に進めて、議会の上院を廃止した。残された下院は判子をつくだけの機能しか持だされなかった。最高裁判事を二〇人から三二人に増やし、増員分はすべて革命主義者にした。国家選挙管理委員会を大統領直轄の組織とし、今後の投票の集計をじかに管理しようとした。議会による軍の監視を撤廃し、都市部の予備役から成る第二の軍隊を創設した。そして、国名をベネズエラ・ボリバリアーナ共和国に変更した。

 チャペスは勝ち誇ってキューバを訪問し、そこで宣言した。「ベネズエラは、キューバ国民とおなじ海に向けて航海をはじめます。幸福と真の社会正義と平和を目指す旅です」カストロと協調した--いや、ほんとうに野球をした。チャベスがベネズエラーチームのピッチャーをつとめたが、キューバが五対四で勝った。キューバは、もうひとつのものも勝ち取った--ペネズエラの補助を。ソ連の共産主義が終焉すると、ロシアはもはやキューバとの思想的な絆を持たなくなり、石油を安価で供給するのをやめた。そこヘチャペスか登場して、カストロの石油銀行家になり、大幅に値引きした石油を提供することになった。

 その見返りとして、キューバは各種の人的補助-社会福祉労働者、教師、ジムの教官、さまざまな偽装をして活動する各種の保安要員を提供した。一九六〇年代の〝暴力の時代〟にベネズエラのゲリラを援助していたキューバは、ふたたびベネズエラに足場を築いたわげだった。カストロはベネズエラの石油の富に食指を動かし、何度も海岸堡を突破しようとした。一九六七年にはキューバ軍をベネズエラに侵入させようとして、カストロ専属の保安部長か死んでいる。だか、今回、キューバは、チャペス政権を支援することになる。チャペスのほうも、地方を支配するのにキューバの方式を取り入れた。「革命か反革命か、ふたつにひとつだ」と、チャペスは宣言した。「反革命は殲滅する」厳しい対決姿勢を和らげるようにと、カトリック教会の司教たちが説くと、チャペスは彼らを「祭服を着た悪魔」だとして斥けた。

 カストロは、さまざまな面で手本になった。キューバ国家評議会議長として、五、六時間も演説をつづけるのが得意だった。チャベスはそれをまねて、日曜日の午後のテレピ演説〈もしもし大統領〉を発足させた。四時間以上にわたって、熱狂的な于不ルギーを発散させ、冗談をいったり、革命歌を歌ったり、子供のころの逸話を話したり、野球について語ったりした。政敵を腐敗していると非難し、自分はアメリカあるいは彼のいう「北米帝国……地球上で最大の脅威」に対抗する革命前衛の指導者だとした。それと同時に、南米を解放した一九世紀の偉人シモン・ボリバルの衣を身にまとい、「二一世紀のための社会主義」の新理論を打ち出した。

 そして、そこにはベネズエラ国家のたましいである石油があった。ベネズエラ経済の原動力であるPDVSAを、チャペスはすばやく掌握した。強硬なナショナリズム的石油政策を唱える、ドイツ生まれのエネルギー・エコノミスト、ベルナルド・モンマーの影響を強く受けていた。ペネズエラは「リベラル政策」の食い物になっているから、緊急にそれを逆転させなければならないと、モンマーは主張していた。チャペスはPDVSAを「国家内の国家」だと攻撃し、専門家が経営していた会社を政治問題化し、国に従属する組織に変えた。PDVSAの資金は国の金庫にされ、チャベスは会社の財務管理を中央政府に移管して、莫大な収入をじかに支配できるようにした。説明責任や透明性は失われた。チャペスは好きなだけ金を使うことかでき、石油産業への投資を、社会保障予算、国内の親密な組織の支援、国内と国外での政治目標の追求など、なんであろうと自分が最善と判断する目的にふりむけた。ペネズエラは、これまでにも増して、石油国家に成り果てた。

石油の回復

 チャペスが行なった決定的な政策変更は、世界中に影響を及ぼした。ペネズエラは、もはや増産による収入増加という戦略をとらなくなった。生産を縮小し、割当量を護ることを、OPEC加盟国として強く主張した。

 原油価格が回復しはじめると、チャベスははっきりいい放った。「原油価格上昇は、戦争や満月の結果ではない。前政権やPDVSAの政策を一八○度変更するという、合意の上の政策がもたらしたのだ……ベネズエラに思慮深い政府があることを、いま国際社会は知っている」

 チャペスは、OPECを重視する石油政策を打ち出したか、じつはチャペスが就任する前の一九九八年のリヤド協議以降、ベネズエラは減産に転じていた。そもそもベネズエラは、大きな動きのなかのひとつでしかなかった。収入が急減したOPEC加盟国すべて(と非加盟国数カ国)は、割当量と規制を忠実に守るようになっていた。

 それに、全体像もまちかいなく変わっていた。OPECが生産を引き締めている間に、アジアが回復しはじめた。需要が急に戻った。価格も回復した。この石油危機-産油国側の危機-は、終結しつつあった。

 一バレル一○ドル以下という価格を暗漕と見つめていた産油国は、目標を二二ドルないし二八ドルの〝価格帯″に置くと、自信をもって発言するようになっていた。だが、二〇〇〇年秋、アジアの回復とOPECの新政策により、原油価格はその価格帯を超えて、バレル三〇ドルを突破した。わずか二年前にくらべて、三倍の上昇だった。需要の急増(一九九八年から二〇〇〇年にかけて、一日二五〇万ハレルもの伸びを示した)が、石油市場に決定的な影響をあたえていた。

 マスコミがいうこの「原油価格の急騰」は、たちまち低価格に慣れていた石油消費国の警戒を呼び覚ました。消費国は「起こりかけているエネルギー危機」を恐れていた。その不安に煽られて、二〇〇〇年のジョージ・W・ブッシュとアル・ゴアの白熱した大統領選挙戦では、原油価格上昇(と、それが押しあげたガソリンと家庭の暖房用燃料の価格)が、論戦の話題になった。原油価格が衝撃的な一バレル三七ドルに達した二日後の九月二二日、クリントン政権は戦略石油備蓄の一部を放出し、冬か来る前に価格上昇を鈍らせようとした。

 そのころには、ウゴ・チャペスはすでに、世界の石油と西半球で、地歩を固めていた。しかし、一九九七一九八年の原油価格崩壊かなかったら、クーデターか失敗して投獄されてからわずか七年後に、ペネズエラのために「責任を担う」(数十年前に士官学校の候補生だったときに日記に書いた言葉)ことかできたかどうかは、定かでない。いまやチャベスは、一〇〇年前の独裁者シプリアノーカストロ将軍を真似て、ベネズエラの版図をひろげ、中南米全域を制覇しようとするボリバル主義革命をもくろんでいた。しかし、カストロ将軍と異なるのは、世界に手をひろげていたことだ。そして、原油価格の上昇は、それをためす資力をチャベスにあたえるはずだった。
コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )
« 社会編の新し... 文化大革命 »
 
コメント
 
コメントはありません。
コメントを投稿する
 
名前
タイトル
URL
コメント
コメント利用規約に同意の上コメント投稿を行ってください。

数字4桁を入力し、投稿ボタンを押してください。