未唯への手紙
未唯への手紙
道徳教育は「いかに生きるべきか」に答えてくれるの?
『特別の教科 道徳Q&A』より どうして今、道徳教育なの? ⇒ 覚醒する力をどう作り出すのか? 道徳と宗教から存在の力を導き出せるか? 今の大人にはムリでしょう!
そもそも道徳って何?(道徳の定義)
道徳の多様性
「私はどう生きるべきか」。この大きな問いが道徳に関わる問いです。道徳は、私たちが何を選択し、いかに生きるかを決定する規準になります。でもそれだけでは漠然としていますね。そこで、もっとしっかり定義しようとすると、さまざまな見方に気づきます。
たとえば、ある人にとって道徳とは集団や社会で生活する上で最低限守らなければならないきまり。ある社会で「善い行い」として共有されている慣習や常識。いや、時代や場所が変わっても大切にすべき人間の本性、人としての理想と考える人もいるでしょう。自分の生き方を「私の道徳」と表現する人もいます。
道徳を最低限のルールとみなすのと、人間の理想と考えるのでは、道徳教育で何を教えるかも変わってきますね。時代を経ても変わらないものなのか、それともそれぞれの時代にふさわしい道徳を創っていくのか。どう見るかで道徳教育への見方も変わりそうです。
実は、この多様な解釈は、道徳自身から生まれてきたものです。だから、先のさまざまな見方も誤りではありません。どこから見るかで見之方が違うのです。
自由だから道徳がある
では、この多様な見え方を貫くものは何でしょう。
一つ確かなことは、道徳は人間について使われるということです。人間以外の動物も社会を構成し仲間を守る行動をとることがありますが、私たちはそれを「道徳的」とは呼びませんね。
それは、人間が動物と違って、本能をコントロールする理性を持つ、と考えられてきたからです。人間には、本能に支配されない【自由】があり、自分の意志と責任で自分の行為を選択できる。それゆえに、「どうしたいか」という欲求や願望だけでなく、「どうすべきか」という行為選択の原理を持っているのです。
人間も動物も、自分の利益や幸福を追求する本能を持って生まれてきます。ところが、その利益の追求が他人に害を及ぼしうるとき、人は「それでよいか」と自問します。大きな目標に向かっている時には、一時の快楽を我慢することもできます。人間の心にはこのように自己利益や欲求をコントロールする仕組みが備わっています。人はそれによって、「今、此処にいる自分」だけの利害を超えて、共に未来の社会を創ることができるのです。道徳は、一人では弱く傷つきやすい人間が、他者と共に生き、よりよい社会と幸福な人生を築くために、人間に備わっている力なのです。
幸福を創る力に
道徳には社会を築く力がありますが、必ずしもいいことばかりではありません。たとえば、ネット社会で見られる炎上。誰かの行為が「道徳的でない」と認知された時、その人を一斉に「叩く」行為は、道徳が時に人を傷つける武器にもなりうることを示しています。
道徳がその本来の力、多様な人々がそれぞれの幸福を追求していける「よりよい社会」を創る力を発揮できるように、私たち大人には、子どもたちが生きるこの時代にふさわしい道徳教育を創る責務があります。
道徳教育は「いかに生きるべきか」に答えてくれるの?(生きる力を育てる道徳教育)
道徳を学べば「いかに生きるべきか」の答えがわかるわけではなく、道徳を学ぶことを通して、自分自身が「いかに生きるべきか」についての考えを深めていくことができるのです。
みんなで考えを深める時間
私たちは日々の生活において、数多くの道徳的問題に直面しています。たとえば環境問題といった地球規模のものから、友人関係といった身の回りのものまで大小さまざまです。これらの問題の中には、機械的に答えを導くことができるものもあるかもしれませんが、多くの場合、問題を解決するに当たって自分が取り得る行動を考える時、その行動がどう回りに影響を及ぼすのか、もっと最善の方法はないのか、自分自身はそれでいいのかなどさまざまな価値の問題が関わり思い悩みます。
では悩んだままにしておいていいかと言われればそうではありません。前に進むためには、その時々で問題に対する答えを考え抜き、最善と思われる「解」を見つけださなければならないのです。考えるに当たってば、まず自分の考えをしっかりもっていなければなりません。その上で、他者と共に協働することも大切でしょう。自分の考えを確かなものとするために問題の原因を探るなどの情報収集も必要です。そしてこのようにして考え抜いた「解」はそれはそれで価値のあるものです。安易に判断することなく、さまざまな問題に正対し、じっくり考えることにより、自分は「いかに生きるべきか」ということの考えを深めていくことができるものと考えます。
道徳は道徳的な問題について考え、議論する時間
中央教育審議会答申でも、「多様な価値観の、時に対立がある場合を含めて、誠実にそれらの価値に向き合い、道徳としての問題を考え続ける姿勢こそ道徳教育で養うべき基本的資質である」としています。学習指導要領解説においても、「道徳教育においては、…(中略)…人としてよりよく生きる上で大切なものとは何か、自分はどのように生きるべきかについて、時には悩み、葛藤しつつ、考えを深め、自らの生き方を育んでいくことが求められる」とされています。
このように道徳教育は、自分で考え、他者と議論し、さらに自分の道徳的諸価値の理解を深めていく時間なのです。このような道徳教育を通じて、これから自分自身が生きていく中で直面する問題を、道徳的価値との関係でどのように捉え、どのように解決することができるのか、その答えを自分自身で探究し、よりよい解決策を導き出すための資質・能力を身に付けることが求められています。
これからを生きる子どもたちには、これまで以上に複雑な問題が待ち受けているものと予想されます。今後社会の有り様が変化し、科学技術もさらに発達していく中で、人間としてのあり方や生き方を問われる場面も増えていくかもしれません。そのような中だからこそ、「いかに生きるべきか」を考え続ける姿勢は大変重要であり、だからこそ道徳教育の果たす役割はますます大きくなっているのです。
外国にも道徳教育があるの?(諸外国の道徳教育)
道徳の授業が外国にもあるの?
日本の道徳教育では、戦後の一時期を除いて、「道徳」を教える特定の時間が学校に設置されてきました。外国にもそういう学習時間があるのでしょうか。
言語や数理を学ぶ教科は、世界各国でほぼ共通に設置されています。それに比べると、道徳教育は国によってかなり違います。人格や人間性の育成は学校教育の重要な課題とみなされていますが特定の教科等を設置している国もあれば、特定の教科によらず、学校の教育活動全体で行う道徳教育に力を入れている国もあります。
なぜ、国によってこんなに違うのでしょう。
道徳か宗教か
日本では、公立学校で宗教の教義などを教える宗教教育は行えないと定められています(教育基本法第一五条二項)。他方、世界には、学校で特定の宗教を教えている国があります。ヨーロッパの多くの国やイスラム圏の学校もそうです。これらの国では、伝統的に宗教教育が道徳教育の役割を担ってきました。
学校における宗教教育では、信仰の異なる子どもへの対応が問題になることがあります。たとえば、ドイツでは、伝統的にキリスト教による宗教教育が教科として実施されてきましたが、一九七〇年代頃から、宗教を履修しない子どもが増加してきたことに対応して、「道徳」などの代替科目の導入が進みました。多民族国家であるマレーシアの学校では「イスラム教」が教えられてきましたが、一九八〇年代から、イスラム教徒以外の子ども対象に「道徳」が設置されました。
公立学校で宗教教育を実施せず、道徳にかんする学習を必修教科として設置している国には、フランス(「道徳・公民」)、中国(「品徳と生活」・「品徳と社会」)、韓国(「道徳」など)、シンガポール(人格・市民性教育)があります(括弧内は設置教科名)。
アメリカやオーストラリアでは、公立学校で宗教や道徳を教える教科は設置されていません。これらの国では、学校教育全体で「人格教育」(アメリカ)や「価値教育」(オーストラリア)が進められています。
「考え、議論する」授業が主流に
では、世界各国の多様な取組に何か共通する特徴があるでしょうか。
フランスやシンガポール、韓国など、これまで独立教科を設置してきた国では、近年、大きな教育改革がありました。これらの国々では、学校内外での体験活動も充実し、教育活動全体を通した道徳教育に力を入れるようになっています。教室での学習にとどまらず、参加や体験が重視されているのです。
体験的な学習を重視する一方、授業では、子どもが実生活で出会うさまざまな問題を取り上げて議論する学習活動が多くの国で推奨されています。
「考え、議論する道徳」の授業は、世界でも積極的に導入され、定着しつつあると言えるでしょう。
そもそも道徳って何?(道徳の定義)
道徳の多様性
「私はどう生きるべきか」。この大きな問いが道徳に関わる問いです。道徳は、私たちが何を選択し、いかに生きるかを決定する規準になります。でもそれだけでは漠然としていますね。そこで、もっとしっかり定義しようとすると、さまざまな見方に気づきます。
たとえば、ある人にとって道徳とは集団や社会で生活する上で最低限守らなければならないきまり。ある社会で「善い行い」として共有されている慣習や常識。いや、時代や場所が変わっても大切にすべき人間の本性、人としての理想と考える人もいるでしょう。自分の生き方を「私の道徳」と表現する人もいます。
道徳を最低限のルールとみなすのと、人間の理想と考えるのでは、道徳教育で何を教えるかも変わってきますね。時代を経ても変わらないものなのか、それともそれぞれの時代にふさわしい道徳を創っていくのか。どう見るかで道徳教育への見方も変わりそうです。
実は、この多様な解釈は、道徳自身から生まれてきたものです。だから、先のさまざまな見方も誤りではありません。どこから見るかで見之方が違うのです。
自由だから道徳がある
では、この多様な見え方を貫くものは何でしょう。
一つ確かなことは、道徳は人間について使われるということです。人間以外の動物も社会を構成し仲間を守る行動をとることがありますが、私たちはそれを「道徳的」とは呼びませんね。
それは、人間が動物と違って、本能をコントロールする理性を持つ、と考えられてきたからです。人間には、本能に支配されない【自由】があり、自分の意志と責任で自分の行為を選択できる。それゆえに、「どうしたいか」という欲求や願望だけでなく、「どうすべきか」という行為選択の原理を持っているのです。
人間も動物も、自分の利益や幸福を追求する本能を持って生まれてきます。ところが、その利益の追求が他人に害を及ぼしうるとき、人は「それでよいか」と自問します。大きな目標に向かっている時には、一時の快楽を我慢することもできます。人間の心にはこのように自己利益や欲求をコントロールする仕組みが備わっています。人はそれによって、「今、此処にいる自分」だけの利害を超えて、共に未来の社会を創ることができるのです。道徳は、一人では弱く傷つきやすい人間が、他者と共に生き、よりよい社会と幸福な人生を築くために、人間に備わっている力なのです。
幸福を創る力に
道徳には社会を築く力がありますが、必ずしもいいことばかりではありません。たとえば、ネット社会で見られる炎上。誰かの行為が「道徳的でない」と認知された時、その人を一斉に「叩く」行為は、道徳が時に人を傷つける武器にもなりうることを示しています。
道徳がその本来の力、多様な人々がそれぞれの幸福を追求していける「よりよい社会」を創る力を発揮できるように、私たち大人には、子どもたちが生きるこの時代にふさわしい道徳教育を創る責務があります。
道徳教育は「いかに生きるべきか」に答えてくれるの?(生きる力を育てる道徳教育)
道徳を学べば「いかに生きるべきか」の答えがわかるわけではなく、道徳を学ぶことを通して、自分自身が「いかに生きるべきか」についての考えを深めていくことができるのです。
みんなで考えを深める時間
私たちは日々の生活において、数多くの道徳的問題に直面しています。たとえば環境問題といった地球規模のものから、友人関係といった身の回りのものまで大小さまざまです。これらの問題の中には、機械的に答えを導くことができるものもあるかもしれませんが、多くの場合、問題を解決するに当たって自分が取り得る行動を考える時、その行動がどう回りに影響を及ぼすのか、もっと最善の方法はないのか、自分自身はそれでいいのかなどさまざまな価値の問題が関わり思い悩みます。
では悩んだままにしておいていいかと言われればそうではありません。前に進むためには、その時々で問題に対する答えを考え抜き、最善と思われる「解」を見つけださなければならないのです。考えるに当たってば、まず自分の考えをしっかりもっていなければなりません。その上で、他者と共に協働することも大切でしょう。自分の考えを確かなものとするために問題の原因を探るなどの情報収集も必要です。そしてこのようにして考え抜いた「解」はそれはそれで価値のあるものです。安易に判断することなく、さまざまな問題に正対し、じっくり考えることにより、自分は「いかに生きるべきか」ということの考えを深めていくことができるものと考えます。
道徳は道徳的な問題について考え、議論する時間
中央教育審議会答申でも、「多様な価値観の、時に対立がある場合を含めて、誠実にそれらの価値に向き合い、道徳としての問題を考え続ける姿勢こそ道徳教育で養うべき基本的資質である」としています。学習指導要領解説においても、「道徳教育においては、…(中略)…人としてよりよく生きる上で大切なものとは何か、自分はどのように生きるべきかについて、時には悩み、葛藤しつつ、考えを深め、自らの生き方を育んでいくことが求められる」とされています。
このように道徳教育は、自分で考え、他者と議論し、さらに自分の道徳的諸価値の理解を深めていく時間なのです。このような道徳教育を通じて、これから自分自身が生きていく中で直面する問題を、道徳的価値との関係でどのように捉え、どのように解決することができるのか、その答えを自分自身で探究し、よりよい解決策を導き出すための資質・能力を身に付けることが求められています。
これからを生きる子どもたちには、これまで以上に複雑な問題が待ち受けているものと予想されます。今後社会の有り様が変化し、科学技術もさらに発達していく中で、人間としてのあり方や生き方を問われる場面も増えていくかもしれません。そのような中だからこそ、「いかに生きるべきか」を考え続ける姿勢は大変重要であり、だからこそ道徳教育の果たす役割はますます大きくなっているのです。
外国にも道徳教育があるの?(諸外国の道徳教育)
道徳の授業が外国にもあるの?
日本の道徳教育では、戦後の一時期を除いて、「道徳」を教える特定の時間が学校に設置されてきました。外国にもそういう学習時間があるのでしょうか。
言語や数理を学ぶ教科は、世界各国でほぼ共通に設置されています。それに比べると、道徳教育は国によってかなり違います。人格や人間性の育成は学校教育の重要な課題とみなされていますが特定の教科等を設置している国もあれば、特定の教科によらず、学校の教育活動全体で行う道徳教育に力を入れている国もあります。
なぜ、国によってこんなに違うのでしょう。
道徳か宗教か
日本では、公立学校で宗教の教義などを教える宗教教育は行えないと定められています(教育基本法第一五条二項)。他方、世界には、学校で特定の宗教を教えている国があります。ヨーロッパの多くの国やイスラム圏の学校もそうです。これらの国では、伝統的に宗教教育が道徳教育の役割を担ってきました。
学校における宗教教育では、信仰の異なる子どもへの対応が問題になることがあります。たとえば、ドイツでは、伝統的にキリスト教による宗教教育が教科として実施されてきましたが、一九七〇年代頃から、宗教を履修しない子どもが増加してきたことに対応して、「道徳」などの代替科目の導入が進みました。多民族国家であるマレーシアの学校では「イスラム教」が教えられてきましたが、一九八〇年代から、イスラム教徒以外の子ども対象に「道徳」が設置されました。
公立学校で宗教教育を実施せず、道徳にかんする学習を必修教科として設置している国には、フランス(「道徳・公民」)、中国(「品徳と生活」・「品徳と社会」)、韓国(「道徳」など)、シンガポール(人格・市民性教育)があります(括弧内は設置教科名)。
アメリカやオーストラリアでは、公立学校で宗教や道徳を教える教科は設置されていません。これらの国では、学校教育全体で「人格教育」(アメリカ)や「価値教育」(オーストラリア)が進められています。
「考え、議論する」授業が主流に
では、世界各国の多様な取組に何か共通する特徴があるでしょうか。
フランスやシンガポール、韓国など、これまで独立教科を設置してきた国では、近年、大きな教育改革がありました。これらの国々では、学校内外での体験活動も充実し、教育活動全体を通した道徳教育に力を入れるようになっています。教室での学習にとどまらず、参加や体験が重視されているのです。
体験的な学習を重視する一方、授業では、子どもが実生活で出会うさまざまな問題を取り上げて議論する学習活動が多くの国で推奨されています。
「考え、議論する道徳」の授業は、世界でも積極的に導入され、定着しつつあると言えるでしょう。
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