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1968年「輝かしい時代」の再検討

『グローバル・ヒストリーとしての「1968年」』より チェコスロヴァキア--プラハの春

1968年と一九八九年

 「プラハの春」から二一年後の一九八九年一一月二四日、ドプチェクはハヴェルと共に推定五〇万人の大群衆の前に立ち、喝釆を浴びていた。ペルリンの壁は既に崩壊し、チェコスロヴァキアにおいても民主化を要求するデモが頂点に達しつつあった。ハヴェルなどの回想によれば、依然として社会主義を信奉するドプチェクは体制の改革について演説を行い、自らが時代遅れの存在であることを露呈してしまったという。しかしながら、少なくとも大規模なデモが始まった一一月一七日からハヴェルが大統領に選出される一二月二九日までの期間、反体制派グループ「市民フォーラム」のポスターや集められた民衆の声から判断する限り、社会主義に対する支持は依然として高かったとも言われている。

 また、一九八九年一二月の時点で直接選挙による大統領選挙を行った場合、ハヴェルが当選する確率は低いと見られていた。共産党は、ドプチェクか、最悪の場合でも自党の人間に勝機があると判断し、もっとも民主的という理由で直接選挙による大統領選出を主張した。だが、あくまでハヴェルを推そうと考えていた市民フォーラムは、共産党と密かに交渉し、議会でハヴェルを大統領に選出する代わりにドプチェクを連邦議会議長にすることで合意した。

 以上の事実は何を意味しているのだろうか。例えば、ハヴェルという人物が西側で考えられていたほど国内で知られていなかったという点が挙げられよう。これは、「正常化」時代における反体制派の抑圧が良くも悪しくも効率良く機能していたことを示している。多くの国民は憲章七七の存在を政府主導の「反憲章」キャンベーンを通して知ったが、メディアによって否定的なイメージを与えられるのみであり、肝心の中身はまったく知らされなかった。工場やオフィス、学校などあらゆる場において、人びとは憲章を非難する文書を渡され、判断する間も与えられないまま署名した。もちろん、多大な犠牲を払って政府に異議申し立てをし続けた人びとが存在したことは事実であり、その意義についてはいかなる場合においても強調すべきである。だが、社会全体から見れば、反体制派と呼ばれる人たちの数は限られていた。

市民社会と1968年

 一九八九年から既に二五年が経過し、チェコスロヴァキア(現在のチェコとスロヴァキア)の現代史についても見方が少しずつ変わってきているように思われる。言うまでもなく八九年の体制転換は劇的であったが、資本主義の導入やEU加盟がバラ色の未来を約束すると思われた時期は既に昔となった。さらには、社会主義時代の記憶を持たない若い歴史家たちが、「正常化」体制に着目し、新しい見方を提示しつつある。とすれば、一九八九年以降を「良い時代」、「正常化」時代を「悪い時代」、1968年を「良い時代」、という風に単純に色分けすることはもはや難しい。

 また、九〇年代初頭のように市民社会の理念に対して楽観的であった時期においては、「プラハの春」において市民社会の萌芽が見られたと理解し、七〇~八○年代の試練の時期を経て九〇年代にそれが全面的に開花したと考えることができた。だが、市民社会の困難さが明らかとなった現在においては、そもそも市民とは何だったのかという点が問題となる。例えば、「プラハの春」において見られた知識人や学生の華々しい活躍は社会全体を代表する動きだったのだろうか。ルプニクの言葉を借りて言えば、1968年の知識人たちは、党と人民との橋渡しとして行動し、社会の民主主義的な願望を表明しながら支配者を啓蒙する役目を担った。しかし、知識人が本当に人民と一体化したと感じたのは、「プラハの春」が粉砕された後であったのかもしれない。クンデラが戦車に占領された直後の時期を「われわれの人生でもっとも美しかった一週間」と評したのは、大きな皮肉である。

 「プラハの春」がチェコスロヴァキアの歴史において輝かしい時期の一つであったことは間違いない。だが、市民社会や民主主義が現在においても大きな課題となっている以上、「プラハの春」の位置付けは今後も変化していくだろう。
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