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国家はコミュニティか?

『エクソダス』より 国家とナショナリズム 国家はコミュニティか?
コミュニティは、ほとんどの人にとっての第一価値として、幸福の主な決定要因として、そして物質的な利益の源として重要だ。では、コミュニティにとってもっとも重要な組織の単位はどれだろう。家族か、親族か、地元か、民族か、宗教か、職業か、地域か、国家か、世界か? 人はあたりまえに複数のアイデンティティを持つことができるし、その多くが別に競合するものではない。入部可能なこれらの数多いクラブの中で、国家はどの程度重要なのだろう?
ナショナリズムは、アインシュタインによって「はしか」だと一蹴された。ヨーロッパでは、国家の優先順位が下がったとする見方が流行している。国家は地域アイデンティティによって下から挑戦されている。スペインはカタルーニャの分離運動におびやかされているし、イギリスもスコットランドの分離運動に揺れている。国家は、上からは欧州連合のようなより大きな存在に権力を明け渡すよう公式に迫られているだけでなく、国民的アイデンティティを鼻で笑うグローバル化した高学歴エリートの出現によって文化的にも挑戦されている。だが、そのアイデンティティは公正を実現する力としてこのうえなく重要だ。
国家は、課税における圧倒的にもっとも重要な制度だ。国レベルで強い共通のアイデンティティを感じている国民だけが、税金が再分配されて、さまざまな資産の気まぐれな変化を部分的に相殺することを受け入れる。スペインから分離独立したいというカタルーニャ人の例を見てみよう。カタルーニャはスペインでもっとも豊かな地域で、収入の9%をほかの地域に移転しなければならないことへの反発が分離運動の原動力のひとつとなっている。スペイン・ナショナリズムの感覚がもっと強ければ、ポルトガルに対する好戦的な決断が誘発される可能性はまずなく、場合によっては、カタルーニャ人は貧しい隣人を助けるかもしれない。言い換えれば、近代のナショナリズムははしかの集団流行というよりは、幸せホルモンと言われるオキシトシンの集団接種のようなものなのだ。
もちろん、共通のアイデンティティという感覚が国家よりも上のレベルで構築できればさらにいいだろうが、ナショナリズムと世界主義はどちらか一方でなければならないというものではない。「慈善は家庭から始まる」という格言のキーワードは、「始まる」だ。思いやりは、筋肉のようなものだ。同胞市民に対して使えば、同胞ではない人々への共感も育てることができる。さらに、国家を超えた共通のアイデンティティを構築するのが非常に難しいことが今ではわかっている。この半世紀、世界でもっとも成功した超国家的実験はなんといっても、欧州連合だろう。だがその半世紀が経過してもなお、そしてナショナリズムがはしかどころか炭疸病のようだったときの記憶があってもなお、欧州連合はヨーロッパ全体としての収入の1%未満しか、加盟国間で再分配していない。ユーロの苦労と、「移転連合」(これは「ギリシャ人の分まで払う」と読む)という考え方に対するドイツ人の激しい反発は、アイデンティティの再構築の限界を証明している。相応な額の再分配を可能にするための、ヨーロッパ人としての共通のアイデンティティでさえ満足に築けないことを、欧州共同体は50年かけて証明した。ヨーロッパ内では、各国政府が分配する歳入は、欧州委員会が分配するそれの40倍にもなる。世界レベルに到達するころまでは、再分配税制の仕組み--援助--はさらに弱くなってしまう。国際システムは奮闘してきたが、これまでの40年間で、税率は所得のO・7%にさえ到達できていない。人と人との協力という観点からは、国家は地球市民に対する利己的な障害ではない。それは事実上、公共財を提供する唯一の制度なのだ。
国家が提供する再分配は、あらゆる上位の協力機関による再分配をはるかに上回っているだけでなく、下位の機関すら上回っている。準国家政府はほぼ例外なく、国家政府よりも扱う歳入の割合が小さい。例外はベルギーとカナダだが、この2国はアイデンティティの感覚がおおむね地方レベルにあり、言語分布を反映している。たとえば、カナダは天然資源の所有権を国レベルではなく地方レベルに割り当てているところが独特だ。これは国家意識が弱い現状においては必要な譲歩だったとはいえ、ほかの状況ではあまり望ましくない。貴重な天然資源は、たまたまそれが取れる地域に住んでいるという幸運に恵まれた者だけが恩恵を受けられるよりは、国として所有したほうが平等だ。アルバータ州民が石油をアルバータに持ってきたわけではなく、たまたまほかのカナダ人よりも近いところにいたというだけなのだ。再分配の究極の非集権的システムである家族でさえ、国家をうっすらと反映している。実際には、慈善は本当に家庭から始まるわけではない。財務省から始まるものであって、家庭の慈善はそれをごくささやかに補完するだけだ。国家は、親から幼い子どもへの資源の移転にでさえ深くかかわっている。国が資金を出し、国が義務化する教育がなければ、私の父のように、多くの子どもたちが教育を受けられないままだろう。
国家が再分配税制のシステムとして機能する理由は、心情的な観点から言うと、国家と一体感を持つことが国民同士の結びつきを強くする非常に強力な方法だからだ。国家意識を共有したからと言って、攻撃的になるとは限らない。むしろ、それが友愛をはぐくむ現実的な手段となる。近代をもたらしたフランスの革命家たちが友愛を自由と平等とセットにしたのにはそれなりの理由がある。つまり、友愛は、自由と平等を調和させる感情である。他者を同じコミュニティの一員とみなすことができた場合のみ、公正のために必要な再分配税制が自分の自由を侵害しないという事実が受け入れられるのだ。
多くの意味で、社会化がもっとも難しいのは若い男性だろう。10代の男性は反社会的で暴力的、反抗的でいるように遺伝子レベルでプログラムされているかに思える。だが、国民的アイデンティティは血気盛んな若い男性を引き入れられる能力があることを証明してきた。実際、その能力が高すぎるくらいだ。1914年8月にそれぞれの国の首都で戦争賛成のデモを起こした若者たちの集団のことを思い出してみるといい。彼らの行動が、結果的に彼ら自身の多くを死に至らしめた。アイデンティティとしての愛国心でとりわけ心配になるのは通常、その非効率ではなく、戦争を選びがちな歴史的傾向だ。
国家は税収を上げて再分配するのが得意なだけではない。技術的観点からは、国家は多くの集団活動がもっとも実行しやすいレベルだ。集合的提供は経済の規模を享受できるが、多様性を犠牲にする。規模の経済と多様性はトレードオフなので、世界レベルでまとめるだけの価値がある活動は非常に少ないように思える。さらに国レベルの供給は通常であることが明らかになってきた。その程度は不明だが、公共財の供給が国レベルに集中しているのは、国が集合的アイデンティティの強力な単位であることが証明されてきたからだ。アイデンティティが協力による利益というロジックによって形作られてきたからではない。つまりアイデンティティを集団活動に合致させるのは、重要なことだったのだ。
国民的アイデンティティは、公共部門の労働者にやる気を持たせるのにも役立つ。インサイダーとアウトサイダーの主な違いを思い出してほしい。労働者が組織の目標を内面化できるかできないかだ。ある活動を民間市場ではなく公共部門に担当させる基準のひとつは、金銭的インセンティブが問題となるかどうかだ。定量的に測定するには成果があまりにも不定形であったり、実績がチームワークに著しく依存していたりする場合には、実績と報酬を結びつけるのは簡単ではない。逆に言えば、教育や医療など、公共部門によく割り当てられる活動の多くは、容易に内面化できる。香水を売るよりも、子どもに読み書きを教えるほうが内面的満足感は得やすいだろう。だが公的組織で労働者のコミットメントを構築する上では、ナショナリズムのシンボルが広く使える。イギリスでは、公衆保健機関は「国民保健サービス」と言い、看護師組合は「王立看護師学校」と呼ばれる。信頼がインセンティブではなくむしろコミットメントに置かれる究極の公的組織は軍隊であり、そこには国家の象徴が満載だ。実際、アカロフとクラントンの著書『アイデンティティ経済学』では、アメリカの軍隊への人材募集が例として取り上げられている。
多くの財が公共部門から民間へと委譲されてしまったことをマイケル・サンデルが嘆いているが、公共部門ではそれに合わせてコミットメントからインセンティブヘの移行が起こった。より一般的な傾向としては、この変化の多くを突き動かしたのが、お金は効率的だという過剰な信念だ。この傾向が悪化したのは、国民的アイデンティティでやる気を出そうとするのがためらわれるようになり、そうすることの効率が悪くなったからかもしれない。なんといっても、移民がしばしば公共部門の労働力の相当部分を占めているのだ。

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