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〈レバノン〉ベイルート--ダウンタウンの記憶

『地中海を旅する62章』より 〈レバノン〉ベイルート--ダウンタウンの記憶 → とりあえず、行きたい場所
ベイルートを訪れると、穏やかな風の吹く東地中海に面した、洗練された街並みを心地よく思うであろう。しかしベイルートは、激しい内戦を経た経験を持ち、また現在内戦中のシリアの隣国レバノンの首都である。その都市計画の歴史は血なまぐさい紛争と決して無縁ではなかった。ここでは、さわやかささえ覚える都市景観にどのような記憶が埋め込まれているのかを概観した上で、ダウンタウンを足早に歩くことにしたい。
ベイルートはビブロスやサイダといったフェニキア起源の港町と比べると新しく発展した都市である。中東らしい緻密な旧市街はひとしなみ形成されてはいたが、第一次大戦中に艦砲射撃を受けて破壊され、フランス委任統治領期の1932年に、ルネ・ダンジェが策定したオスマニザシオン型の改造計画により復興がなされた。時計塔のあるエトワール広場を中心とするアレンビー、フォッシュ等の放射状街路が構築されて、パリを思わせる「ダウンタウン」に生まれ変わったのである。オスマン帝国時代の病院(現政庁)や時計塔、それにモスクや教会、シナゴーグがバロック式の区画の中で再建されている。レバノン人もまたその街並みをよく使いこなし、中東の金融センターとして著しい経済発展を遂げた都市は「中東のパリ」と呼ばれ、レバノン人の進取の精神とビジネス・センスの象徴となっていった。各国の企業が進出し、日本からも商社や新聞社などから多くの駐在員が派遣されている。
しかし1975年、スンナ派、シーア派、マロン派、ギリシャ正教、カトリック、ドルーズなど、歴史的に多数の宗派、部族を抱えるレバノンは、パレスチナ問題を背景とする周辺各国の思惑が絡み合う泥沼の内戦に突入してしまう。内戦は実に十数年にも及び、人々はデマルケーションラインを境に東西に分かれて激しい戦闘を展開し、都市は甚大な被害を受けた。シリア軍がレバノン国内に駐留しその影響力を高めると、82年にはこれに対してイスラエルが空爆を行った。こうして建物という建物には夥しい銃創が残り、都市はゴーストタウンと成り果てたのである。ドゥニ・ヴィルヌーヅ監督の映画『灼熱の魂』(2010年)では、瓦礫と化したダウンタウンの一室から通行人をひたすらに狙撃するよう教化された少年スナイパーの姿が描かれている。
そしてここからが現在のダウンタウン復興に関わってくる。内戦に一応の終止符が打たれた翌年の1992年、レバノンの首相に指名されたのは、サウジアラビアのゼネコンのオーナーで、シラク仏大統領と親交を結んでいたラフィーク・ハリーリーであった。ハリーリーは自ら最大株主となって建設会社ソリデールを設立し、ダウンタウンの戦災復興事業を強力に推進した。復興は、象徴的な都市空間の復興であると同時に、外国からの投資を誘致し、また内戦から逃れていった在外レバノン人の資金をレバノン国内に還流させることをも狙った、文字通りレバノン経済の復興を賭けた大事業であった。ちなみに、在外レバノン人には往古のフェニキア人よろしく商才にたけた者が多く、カルロス・ゴーンもまたその一人である。
ハリーリーは行政改革を断行し、明るく活動的な性格もあって、一躍国民的人気の高い政治家となった。このあたりは日本の田中角栄を思わせる面がなくもない。一方、シリア指導部の影響を強く受けたラフード大統領との溝は少しずつ広がっていった。2005年2月14日、宗派を超えて反ラフード勢力を糾合しつつあったハリーリー前首相は、車でベイエリアを通行中、大爆発とともに暗殺されてしまう。このテロについては国連がシリアを取り調べたし、まもなくシリア軍の撤兵も実現した。しかし南レバノンのシーア派組織ヒズボッラーに対する支援は継続され、今日のシリア内戦の要因の一つとなってきたとされている。一方、レバノンに逃れたシリア難民の多くがベイルート復興の建設現場で労働に従事した。シリアの戦災復興には彼らの帰趨もまた問われるであろう。ジアード・クルスーム監督の映画『セメントの記憶』(2019年)は、そうした建設と復興におけるレバノンとシリアの建ち切り難い連環を描いている。
今日、ベイルートにはダウンタウンの他に複数の中心が存在するが、代表的なのは西側のハムラ地区と東側のアシュラフィーエ地区であろう。一応、前者がイスラーム教徒中心、後者がキリスト教徒中心の地区となっており、事実内戦中はそのように分裂してはいたが、双方にモスクとキリスト教会が混在しており人々も今日では共存している。よりポピュラーなのはハムラ地区であり、賑やかな街並みの中にレバノンらしい多国籍の料理店や中流ホテルが存在する。ベイルートのさわやかさは、例えば、ここから海沿いに下りていった建物群の、白い壁面に設けられた3列のベイウィンドウからきている。ホテルの多くは経済発展期の1950年代にオープンしたもので、比較的手ごろながら格式ある内装とサービスが往時を忍ばせる。そのうちの一つ、メイフラワーホテルは歴代の日本人研究者の定宿となっており、私もその恩恵に預かる一人である。
ダウンタウンヘは、そこから東方向へ歩いて小一時間ほどの距離である。60年代にミシェル・エコシャールと番匠谷尭二が道路網を再編しているが、時代の要請は自動車中心であったためか歩道がない道路も多く、歩きにくい。中途には日本大使館があり、その先には国会等の政府系施設が存在し、いずれも前面道路が封鎖されている。車で強行に突破しようとすれば路上に突き出た鉄の棒によってタイヤがバーストする仕掛けである。そうかと思えば、道路幅を狭めるようにして巨大なガードレールが設置されている箇所もある。建物までに一定の距離を確保することで、車爆弾による建物への被害を軽減するという狙いなのだろうか。
こうしてしばらく歩いていくと、ダウンタウンに至る。放射状街路の全ての入口に当然のように検問がある。警備員の服装は様々であり、銃を構えた軍装のものもあれば、警察官のようなもの、民間セキュリティー会社のものなどが見られる。ただし日本人と見るとたいしたチェックもなく通してくれる。おそらく、正面にある日本センターの存在を知っているのだろう。
ダウンタウンで採用された復興の手法は、建物ファサードや躯体を継承しての修復型である。どの入口から入っても、新しい都市と見まがうほどに、鮮やかなカーキ色で塗装された街並みが広がっている。しかし、柱廊や壁面をよくよく見ると、そこかしこに埋め込まれた銃創の痕跡を見ることができ、紛れもなくフランス時代に建設されレバノン内戦を生き延びてきた建物なのだということがわかる。損傷の激しいエリアについては完全なスクラップビルドも実施されたが、この場合でも、破壊された建物とほぽ全く同じデザインで再建されている。それでいて、建物内部は現代的にリニューアルされており、1階は店舗、2階以上はオフィスまたは住宅という形式で統一されている。19世紀フランスの柱廊式アパルトマンを基本とし、イスラーム建築の装飾要素も取り入れたアーチやバルコニー、窓枠の精細な修復は、間違いなく世界中の都市の復興計画と比べても遜色はないであろう。かつてキリスト教会であり、後に増改築を経てモスクとされていったウマル・モスクもまた、通りに沿って作られたファサードを正面に美麗に再生されている。また、下部にアリバイ的に保存された遺跡がのぞいているアパルトマンもある。とはいえ決して課題がないわけではない。
放射状街路は中央の時計塔のある広場に収束していく。しかし、肝心の人の賑わいが全くといっていいほど見られない。2007年の頃には昼過ぎからオープンカフェで食事や酒を楽しむ人々で賑わっていた。しかしシリア内戦が始まった頃から目に見えて人通りが減り、現在では多くの店が休業を余儀なくされている。シリア人学生のアッラーム君が調査を試みたことがあったが、交通の便が悪いのと、ヴィトンやカルティエ等の高級ブティックが高価過ぎるため、敬遠しているという回答が多く得られただけで、不人気の理由ははっきりとはわからなかった。おそらく、内戦の記憶に不釣り合いな程にきらびやかに復興された都市空間に、ある種の嫉妬が渦巻いていても不思議ではない。今後の都市計画もまた、シリア内戦にも関連する、レバノン社会そのものの閉塞感と向き合うことなくしてはありえないであろう。

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