未唯への手紙
未唯への手紙
自由 国家と個人のアイデンティティ
『経済と社会の見方』より
資本主義は搾取的だと考える人は数多くいますが、そうした人びとの間で「搾取的ではない企業をつくって、それによって良い世界を拡げよう」と考える人はいないようです。あるいはまた、「現代の社会は不平等だから、平等なコミュニティをつくって皆に参加を促して世界を良くしよう」という意見もあまり聞きません。自由主義、資本主義社会では、そうした試みは禁止されておらず、どういった試みであれ、人びとが自発的に参加するのであれば、そうした活動は支配的になるでした。
これに対して、搾取的な企業は公正な企業よりも高い利益をあげるため、強欲な資本は搾取的な企業に集まり、結果として不正は維持され続けるという主張があります。あるいは強者に有利で、弱者に不利な法制度によって、世界の不平等が維持されているとの批判もあります。
しかし、本当に人びとが平等な取り扱いを求めており、それによって生産性が向上するなら、現在のようなトップダウン型の企業に代わって、労働者による持ち株制度と労働組合管理型の企業が支配的になってもおかしくはありません。そうした企業は法律事務所や会計事務所など、人的資本だけが重要だという特殊な組織には相当程度に存在します。
自由主義社会は、どういった企業形態に対しても開かれたオープンな制度です。完全に所得リスクや人生リスクをヘッジするような共同体=コニュニティに参加したいなら、そうした制度を構築して参加を呼びかけることも可能です。これまでも実際に宗教コミュニティ、特に特殊なカルトでは、そうした共同生活が行われています。こうした企業やコニュニティに参加することで、集合的な美徳を実現することもできるでしょう。
つまり国家という枠組みのレベルでは自由主義を採用しながら、自分の属するもっと小さな単位の集団で自分の価値観を共有することにすれば、無益な論争も避けることができます。二〇世紀アメリカの哲学者ロバート・ノージックは最小国家こそがメタ・ユートピアであり、そこではいかなるコミュニティを設立して自分たちの楽園を築くこともできると言います。彼の言葉を引用しまし 人々のどんなグループも、あるパタンを工夫し、そのパタンをもつコミュニティー「建設」の冒険に参加するよう他の人々に説得する試みをすることが許される。夢想家や変人、偏執狂や聖人、修道僧や道楽者、それに、ファランクス(フーリエ)、労働の宮殿(フローラ・トリスタン)、統一と共同の村(オーエン)、相互主義的共同体(プルードン)、時間ストアー(ジョシア・ウォレン)、ブルーダー・ホーフ、キブツ運動、クンダリニー・ョガ修行所、等々の支持者たちは、すべて彼らの夢の建設を試み、人々を惹き付ける実例を設けることが許されるのである。
しかし、人は自由な国家を維持しつつ、任意参加型の団体の結成に期待することはありません。人びとが常に国家という単位で、自分が望む制度を他人に強制しようとするのは、なぜなのでしょうか?
これに対して、法的な制度のほとんどは国家を単位にせざるを得ないからだという意見があるでしょう。年金制度などの福祉制度、税制度や徴兵制をいわば集合的でない形で実践することはできません。公共投資や金融政策にしても、国家的な単位でしか実行できません。そのため人びとは、国家という単位でしか政策論争をせず、より小さな集団での制度への参加に興味を示さないことになります。しかし私の意見では、人はそうしたテクニカルな理由に基づいて、もっぱら国家的な制度を議論しているのではありません。ほとんどの人がそれを一顧だにしないのは、我々がプラトンのいうポリス的動物だからでしょう。長い進化の歴史の中で、国と呼べる集団が私たちのアイデンティティとなっているのです。
アリストテレスがポリスを通して「良き生の実現」を重視したのと同じように、現代のほとんどの日本人は国家に対して強い帰属意識を持っています。それは明治時代以降の共通の義務教育制度によるところもあるでしょうし、はるか以前からの言語的・文化的な一体性もあるでしょう。
例えば私は富山県に生まれ育っているため、富山県、あるいは魏志倭人伝の古代であれば、「越のクニ」人であることをアイデンティティとすることもできるはずです。しかし私自身の現実的な感覚では、そうした県民性の違いはテレビの娯楽番組にはなっても、スコットランドやカタロニアの独立運動のように盛り上がりそうにありません。
自分の属する政治集団をアイデンティティとする個人の心理は、強い形で発現すれば全体主義として非難されますが、弱い形ではオリンピックやワールドカップでの自国代表の応援のように、ごく自然で望ましいと考えられます。しかしそうした心理は、個人の経済的な自由を重視せず、国家的な産業保護などを潜在的に肯定するメンタリティにつながっていそうです。
過剰な集団主義は、イノベーションを促進する自由主義にとっては鬼門です。ここでは、「進化的な理由から、人間は周囲の社会にアイデンティティを求め、自分の理想を制度として押し付けようとする傾向を持つ可能性がある」という指摘にとどめます。その科学的な実在性や人間の自由意志に対する拘束、あるいは倫理的な是非などについてはオープン・クエスチョンとして、行動科学的な知識の発展と読者の判断に委ねましょう。それが本書の自由主義の主題にもっとも合致した、開かれた知識のあり方だからです。
資本主義は搾取的だと考える人は数多くいますが、そうした人びとの間で「搾取的ではない企業をつくって、それによって良い世界を拡げよう」と考える人はいないようです。あるいはまた、「現代の社会は不平等だから、平等なコミュニティをつくって皆に参加を促して世界を良くしよう」という意見もあまり聞きません。自由主義、資本主義社会では、そうした試みは禁止されておらず、どういった試みであれ、人びとが自発的に参加するのであれば、そうした活動は支配的になるでした。
これに対して、搾取的な企業は公正な企業よりも高い利益をあげるため、強欲な資本は搾取的な企業に集まり、結果として不正は維持され続けるという主張があります。あるいは強者に有利で、弱者に不利な法制度によって、世界の不平等が維持されているとの批判もあります。
しかし、本当に人びとが平等な取り扱いを求めており、それによって生産性が向上するなら、現在のようなトップダウン型の企業に代わって、労働者による持ち株制度と労働組合管理型の企業が支配的になってもおかしくはありません。そうした企業は法律事務所や会計事務所など、人的資本だけが重要だという特殊な組織には相当程度に存在します。
自由主義社会は、どういった企業形態に対しても開かれたオープンな制度です。完全に所得リスクや人生リスクをヘッジするような共同体=コニュニティに参加したいなら、そうした制度を構築して参加を呼びかけることも可能です。これまでも実際に宗教コミュニティ、特に特殊なカルトでは、そうした共同生活が行われています。こうした企業やコニュニティに参加することで、集合的な美徳を実現することもできるでしょう。
つまり国家という枠組みのレベルでは自由主義を採用しながら、自分の属するもっと小さな単位の集団で自分の価値観を共有することにすれば、無益な論争も避けることができます。二〇世紀アメリカの哲学者ロバート・ノージックは最小国家こそがメタ・ユートピアであり、そこではいかなるコミュニティを設立して自分たちの楽園を築くこともできると言います。彼の言葉を引用しまし 人々のどんなグループも、あるパタンを工夫し、そのパタンをもつコミュニティー「建設」の冒険に参加するよう他の人々に説得する試みをすることが許される。夢想家や変人、偏執狂や聖人、修道僧や道楽者、それに、ファランクス(フーリエ)、労働の宮殿(フローラ・トリスタン)、統一と共同の村(オーエン)、相互主義的共同体(プルードン)、時間ストアー(ジョシア・ウォレン)、ブルーダー・ホーフ、キブツ運動、クンダリニー・ョガ修行所、等々の支持者たちは、すべて彼らの夢の建設を試み、人々を惹き付ける実例を設けることが許されるのである。
しかし、人は自由な国家を維持しつつ、任意参加型の団体の結成に期待することはありません。人びとが常に国家という単位で、自分が望む制度を他人に強制しようとするのは、なぜなのでしょうか?
これに対して、法的な制度のほとんどは国家を単位にせざるを得ないからだという意見があるでしょう。年金制度などの福祉制度、税制度や徴兵制をいわば集合的でない形で実践することはできません。公共投資や金融政策にしても、国家的な単位でしか実行できません。そのため人びとは、国家という単位でしか政策論争をせず、より小さな集団での制度への参加に興味を示さないことになります。しかし私の意見では、人はそうしたテクニカルな理由に基づいて、もっぱら国家的な制度を議論しているのではありません。ほとんどの人がそれを一顧だにしないのは、我々がプラトンのいうポリス的動物だからでしょう。長い進化の歴史の中で、国と呼べる集団が私たちのアイデンティティとなっているのです。
アリストテレスがポリスを通して「良き生の実現」を重視したのと同じように、現代のほとんどの日本人は国家に対して強い帰属意識を持っています。それは明治時代以降の共通の義務教育制度によるところもあるでしょうし、はるか以前からの言語的・文化的な一体性もあるでしょう。
例えば私は富山県に生まれ育っているため、富山県、あるいは魏志倭人伝の古代であれば、「越のクニ」人であることをアイデンティティとすることもできるはずです。しかし私自身の現実的な感覚では、そうした県民性の違いはテレビの娯楽番組にはなっても、スコットランドやカタロニアの独立運動のように盛り上がりそうにありません。
自分の属する政治集団をアイデンティティとする個人の心理は、強い形で発現すれば全体主義として非難されますが、弱い形ではオリンピックやワールドカップでの自国代表の応援のように、ごく自然で望ましいと考えられます。しかしそうした心理は、個人の経済的な自由を重視せず、国家的な産業保護などを潜在的に肯定するメンタリティにつながっていそうです。
過剰な集団主義は、イノベーションを促進する自由主義にとっては鬼門です。ここでは、「進化的な理由から、人間は周囲の社会にアイデンティティを求め、自分の理想を制度として押し付けようとする傾向を持つ可能性がある」という指摘にとどめます。その科学的な実在性や人間の自由意志に対する拘束、あるいは倫理的な是非などについてはオープン・クエスチョンとして、行動科学的な知識の発展と読者の判断に委ねましょう。それが本書の自由主義の主題にもっとも合致した、開かれた知識のあり方だからです。
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