未唯への手紙
未唯への手紙
ヴィトゲンシュタインの言葉
『90分でわかるヴィトゲンシュタイン』より
『論理哲学論考』の冒頭の言葉はかなり印象的なものとなっている。
「1 世界とは現に成立している事柄の全体である。
1.1 世界とは事実が集まったものであり、物が集まったものではない」
論証もなしにこのような断言をしたあとで、次のような議論が繰り広げられる。
「1.12 というのは、事実の全体こそが、何が現に成立するかを決定するからである。また、何が現に成立しないかを決定するからである。
1.13 論理的な空間における事実こそが世界である」
議論はさらにつづく。
「2 現に成立している事柄、つまり事実とは、様々な事態が存立していることに他ならない。
2.01 事態とは、様々な対象(事物、物)が結びついたものである」
このあとには、次のような言葉がつづく。
「2.012 論理のうちでは、偶然的なものは一切存在しない。ある物が一つの事態のなかにあらわれうるのならば、その事態の可能性がこの物のうちにあらかじめ書き込まれていなければならない」
後半部分で、ヴィトゲンシュタインは倫理に言及する。
「6.421 倫理を言葉で表現できないことは、明らかである。倫理は超越的なものだ。--倫理と美的感覚は一つのものである--」
「6.43 善良なる意志や邪悪なる意志が世界を変えるにしても、世界の限界を変えうるにすぎない。事実を変えることはできない。--つまり、言語によって表現されるうものを変えることはできない」
ヴィトゲンシュタインは自分の姿勢が神秘的であることを吐露する。
「6.432 いかに世界があるかなど、いっそうの高みに立つ者にとっては、まったくどうでもよいことである。世界のなかに神が自らを開示することはない」
このため、哲学を貶めることにもなる。
「6.53 哲学の正しい方法とは、本来は次のようなものであろう。まず、語りうるものしか語らないことである。つまり、自然科学の命題--それゆえ哲学とは縁もゆかりもないもの--についてだけ語ることである。次に、誰かが形而上学的な事柄を語るたびに、その人に向かって『命題のなかのある記号に何の意味も与えていない』と指摘することである」
最後には、慎み深く自分の哲学まで貶める。
「6.54 私を理解する者は、私の書物を通り抜け、それを踏み台にしてその上に立つ。そして最後に、私の書いた事柄の無意味さを知るに至る。私の本はこのような説明方法を用いた(いうなれば、私を理解する者は、梯子をのぼり詰めたあとで、その梯子を投げ捨てねばならないのだ)。私を理解する読者は、この書物を乗り越えなければならない。彼は乗り越えたとき、世界を正しくみるようになる」
ここから、物議をかもす最後の結論へとつながる。
「7 語りえぬものには、沈黙しなければならない」
後期の『哲学探究』では、ヴィトゲンシュタインは哲学を言語分析へ還元しようとする。
「30 一つの語が言語のなかで一般にどのような役割を果たしているか。このことがすでに明らかである場合には、直接的な例示による定義が語の用法--つまり語の意味--を説明することになる。そんなふうにいえるかもしれない。すると、どういうことになるか。誰かが私に一つの色彩語を説明しようとしていることを、私が知っている場合には、『これは〈セピア〉という』といった直接的な例示が、その語の理解に役立つということになる。--ただし、直接的な例示が役立つのは、一定の条件のもとでである。つまり、すべての問いが『知る』や『明らかである』という語と結びついていることを忘れないかぎりでのことである。物の名称を問いうるためには、あらかじめ何かを知っている(あるいは知りうる)のでなければならない。しかし、何を知らなければならないのだろうか?」
さらに別の例を挙げて、考察を進める。
「31 誰かにチェスのキングを示して、『これがチェスのキングだよ』といったとしても、その人にキングの駒の使用法を説明したことにはならない。--これが説明となるのは、特定の場合に限られる。説明された人が、キングの形以外のチェスのルールをあらかじめすべて知っている場合である。つまり、次のように想像することができるのである。その人はチェスのルールを学んだけれど、彼に実際の駒が示されたことは一度もない、と。チェスの駒の形に相当するのは、語の響きや形態である」
このような事例の考察から、結論が導きだされる。
「123 哲学の問題は、『私は途方に暮れている』という形をとる」
ここで、ヴィトゲンシュタインは警告を発する。
「124 哲学は絶対に、言語の実際の慣用に抵触してはならない。つまり、哲学のなしうることは、結局のところ、言語の実際の用法を記述することにすぎないのだ。なぜなら、哲学はやはり、言語の用法を基礎づけることはできないからである。哲学はすべてをあるがままにしておく。 ……」
かくして、哲学の領域は劇的に狭められる。
「125 数学的発見や論理的数学的発見によって矛盾を解決するのは、哲学の仕事ではない。……矛盾が解決される前の状態を展望できるようにすること、これが哲学の仕事である(とはいえ、困難を回避できるわけではない)」
こうして、途方もなく入りくみ、脱出不可能となった状況が、われわれの前に立ちあらわれる。
最後に、上述の箇所につづくヴィトゲンシュタインの言葉に耳を傾けることにしよう。
「 われわれはゲームのルールやテクニックを確立する。しかし、このルールにしたがおうとしても、予想通りには事が運ばない。したがって、いうなれば、われわれは自分たち自身のルールに囚われてしまうのである。これが、ここでの基本的な事実である。自分のルールに囚われてしまう--このことを、われわれは理解したいと思う。--このことを展望したいと思う」
『論理哲学論考』の冒頭の言葉はかなり印象的なものとなっている。
「1 世界とは現に成立している事柄の全体である。
1.1 世界とは事実が集まったものであり、物が集まったものではない」
論証もなしにこのような断言をしたあとで、次のような議論が繰り広げられる。
「1.12 というのは、事実の全体こそが、何が現に成立するかを決定するからである。また、何が現に成立しないかを決定するからである。
1.13 論理的な空間における事実こそが世界である」
議論はさらにつづく。
「2 現に成立している事柄、つまり事実とは、様々な事態が存立していることに他ならない。
2.01 事態とは、様々な対象(事物、物)が結びついたものである」
このあとには、次のような言葉がつづく。
「2.012 論理のうちでは、偶然的なものは一切存在しない。ある物が一つの事態のなかにあらわれうるのならば、その事態の可能性がこの物のうちにあらかじめ書き込まれていなければならない」
後半部分で、ヴィトゲンシュタインは倫理に言及する。
「6.421 倫理を言葉で表現できないことは、明らかである。倫理は超越的なものだ。--倫理と美的感覚は一つのものである--」
「6.43 善良なる意志や邪悪なる意志が世界を変えるにしても、世界の限界を変えうるにすぎない。事実を変えることはできない。--つまり、言語によって表現されるうものを変えることはできない」
ヴィトゲンシュタインは自分の姿勢が神秘的であることを吐露する。
「6.432 いかに世界があるかなど、いっそうの高みに立つ者にとっては、まったくどうでもよいことである。世界のなかに神が自らを開示することはない」
このため、哲学を貶めることにもなる。
「6.53 哲学の正しい方法とは、本来は次のようなものであろう。まず、語りうるものしか語らないことである。つまり、自然科学の命題--それゆえ哲学とは縁もゆかりもないもの--についてだけ語ることである。次に、誰かが形而上学的な事柄を語るたびに、その人に向かって『命題のなかのある記号に何の意味も与えていない』と指摘することである」
最後には、慎み深く自分の哲学まで貶める。
「6.54 私を理解する者は、私の書物を通り抜け、それを踏み台にしてその上に立つ。そして最後に、私の書いた事柄の無意味さを知るに至る。私の本はこのような説明方法を用いた(いうなれば、私を理解する者は、梯子をのぼり詰めたあとで、その梯子を投げ捨てねばならないのだ)。私を理解する読者は、この書物を乗り越えなければならない。彼は乗り越えたとき、世界を正しくみるようになる」
ここから、物議をかもす最後の結論へとつながる。
「7 語りえぬものには、沈黙しなければならない」
後期の『哲学探究』では、ヴィトゲンシュタインは哲学を言語分析へ還元しようとする。
「30 一つの語が言語のなかで一般にどのような役割を果たしているか。このことがすでに明らかである場合には、直接的な例示による定義が語の用法--つまり語の意味--を説明することになる。そんなふうにいえるかもしれない。すると、どういうことになるか。誰かが私に一つの色彩語を説明しようとしていることを、私が知っている場合には、『これは〈セピア〉という』といった直接的な例示が、その語の理解に役立つということになる。--ただし、直接的な例示が役立つのは、一定の条件のもとでである。つまり、すべての問いが『知る』や『明らかである』という語と結びついていることを忘れないかぎりでのことである。物の名称を問いうるためには、あらかじめ何かを知っている(あるいは知りうる)のでなければならない。しかし、何を知らなければならないのだろうか?」
さらに別の例を挙げて、考察を進める。
「31 誰かにチェスのキングを示して、『これがチェスのキングだよ』といったとしても、その人にキングの駒の使用法を説明したことにはならない。--これが説明となるのは、特定の場合に限られる。説明された人が、キングの形以外のチェスのルールをあらかじめすべて知っている場合である。つまり、次のように想像することができるのである。その人はチェスのルールを学んだけれど、彼に実際の駒が示されたことは一度もない、と。チェスの駒の形に相当するのは、語の響きや形態である」
このような事例の考察から、結論が導きだされる。
「123 哲学の問題は、『私は途方に暮れている』という形をとる」
ここで、ヴィトゲンシュタインは警告を発する。
「124 哲学は絶対に、言語の実際の慣用に抵触してはならない。つまり、哲学のなしうることは、結局のところ、言語の実際の用法を記述することにすぎないのだ。なぜなら、哲学はやはり、言語の用法を基礎づけることはできないからである。哲学はすべてをあるがままにしておく。 ……」
かくして、哲学の領域は劇的に狭められる。
「125 数学的発見や論理的数学的発見によって矛盾を解決するのは、哲学の仕事ではない。……矛盾が解決される前の状態を展望できるようにすること、これが哲学の仕事である(とはいえ、困難を回避できるわけではない)」
こうして、途方もなく入りくみ、脱出不可能となった状況が、われわれの前に立ちあらわれる。
最後に、上述の箇所につづくヴィトゲンシュタインの言葉に耳を傾けることにしよう。
「 われわれはゲームのルールやテクニックを確立する。しかし、このルールにしたがおうとしても、予想通りには事が運ばない。したがって、いうなれば、われわれは自分たち自身のルールに囚われてしまうのである。これが、ここでの基本的な事実である。自分のルールに囚われてしまう--このことを、われわれは理解したいと思う。--このことを展望したいと思う」
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