未唯への手紙
未唯への手紙
〈紙の本〉と〈電子の本〉とグーグル
『読書と日本人』より 〈紙の本〉と〈電子の本〉 ⇒ 「7番目のキンドル」にOCR化した3000冊の本を電子化している。そのメリットは絶大です。この実験から、先の世界が見えます。悩みは、残りの時間では、読み切れないことです。私の世界では可能ですけど。
二〇〇四年、同社は「グーグル・プリント」(現、グーグル・ブックス)という新プロジェクトを発足させ、世界各地の大学図書館や公立の中央図書館と手を組んで、これまで出版された〈紙の本〉のすべてをデジタル・スキャンし、そこから作成した〈電子の本〉を世界中からオンラインで利用できるようにするという大事業にとりかかった。古代アレクサンドリア図書館のむかしから、おおくの図書館人が「世界中角本を一か所にあつめた巨大図書館」という夢を、むなしく追いつづけてきた。その「全世界図書館」の夢を、いまやグーグルというグローバル企業が膨大な資金と技術力を投入して一気に現実化しようとしているのです。
ただし前世紀の「プロジェクト・グーテンベルク」や「アメリカの記憶」は、全世界の人びとに無料でひらかれた公共的な電子アーカイブとして構想されたが、「グーグル・ブックス」はちがいます。
じつをいうと、発足時、私はこの計画に少なからず心をうごかされた。アップルがそうだったように、もとはといえばグーグルも、七〇年代のパーソナル・コンピュータ革命(巨大コンピュータの単なる端末ではない自立した個人用コンピュータという夢の実現をめざす)の申し子ですからね。この途轍もない大事業のうちに、当時、さまざまな困難に直面していた図書館の社会的任務を新しい時代に引きつごうとする意志をかいま見たと、うっかり思ってしまった。
ところが時間がたつにつれて、それがとんでもないまちがいだったことがわかってきます。きれいなタテマエの裏側で、かれらをここまで突き動かしてきたのは、結局のところ、〈紙の本〉という形式で保存されてきた人類の知的資産をじぶんたちの手で根こそぎデジタルーデータ化し、それへのアクセス権を独占して、グローバルな情報権力をにぎろうとする欲望だけだったのです。
いまとなってそう認めるのはいささかならず癩にさわるのですが、電子本リーダーからインターネット・アーカイブまで、こうして見てくると、二十世紀後半にめばえた〈電子の本〉の未来が、二十一世紀の最初の十年間に、ごく少数の巨大IT企業の支配下におかれてしまったことがわかります。つまりはハリー・ポッターと新自由主義経済による世界制覇の時代ですよ。運わるくそこに「電子本ビジネス元年」がピタリとかさなってしまったのです。
そのため二十世紀末に表面化した「いますぐ売れる本がいい本、そうでない本は悪い本」という出版業界内での暗黙の了解が、〈紙の本〉のみならず、二十一世紀の〈電子の本〉の世界にまで引きつがれ、日本でいえば、電子書店の棚にならぶ本の八割はコミックスで、のこりを売れ筋のくやわらかい本〉や〈新しい本〉が占めるという状態を呈してしまった。
対するにアマゾンの kindle は、すでに発足時に〈新しい本〉と〈古い本〉、〈やわらかい本〉とくかたい本〉を合わせて四十五万点という膨大な電子本の在庫を持ち、それをどこからでも安価に、もしくは無料でダウンロードできる仕組みをととのえていた。あからさまな世界制覇を狙う以上、かれらはそこまで徹底的にやるしかなかったのです。
そしてその結果として、日本の読者もこれと同レベルの市場環境を期待することになった。しかし、よかれあしかれ、われわれの出版濃界にそうした期待に応える力はなかったし、それにとって代わりうる独創的なビジョンを打ちだす意欲もなかった。ただし業界のそとにでれば話はべつです。小さいながらも、「これは!」と思わされるような試みがまったくなかったわけではない。とりあえずその実例をふたつあげておきます。まずは先はども触れた「青空文庫」について--。
著者の死後五十年たって著作権が消滅した作品(おもに文学)をボランティアの手で電子化し、綿密な校正をへて、無料でダウンロードできるようにした日本で最初の私設電子公共図書館--それが「青空文庫」です。一九九七年にノンフィクション作家、故富田倫生の呼びかけによってはじまった。
じつをいうと私は本書を書くにあたって、この文庫からかなりの恩恵を受けています。たとえば「読書」というキーワードで検索をかけると、幸田露伴、夏目漱石、寺田寅彦、岡本綺堂、平田禿木、三木清といった人たちの代表的な読書エッセイが二十編ほど、ずらりと並ぶ。「ははア、この線で徹底的にやれば日本でも独立的な電子公共図書館ができるぞ」とすくなからず感動した。そういえば原勝郎の『東山時代に於ける一組紳の生活』も、あるはずの筑摩叢書本が書棚に見つからず、やむなくこの文庫で再読したのでしたっけ。
いま日本の出版社やIT企業がインターネット上に開設している電子書店をのぞくと、たいていはそこのバーチャルな書棚に「青空文庫」の本が並んでいる。しかし、かつて発足時の同文庫に向けられた業界人の目は、なかなかに冷やかなものでした。そんな出版社やIT企業が、いまは自社の電子出版事業のかくれた目玉のひとつとして、じぶんたちにできないこと(じっくり読むに足る本をまとめて電子化する)を無償でやってくれる「青空文庫」にたよっている。ちょっとへんな気がします。
そして第二が「自炊」ブーム--。
いくら待っても読みたい本が電子本化される気配がないので、苛立った読者がじぶんの手で蔵書を電子化することにした。じぶんでつくるから自炊。手持ちの本を裁断機でバラし、一ページずつスキャンしたものをOCRソフトで電子化して、kindle や iPad などの電子本リーダーで擬似的なページめくりが可能なしかたで読む。
最初にだれがはじめたのか、私は知りません。たぶん二〇一〇年か一一年、あの「電子本元年」騒ぎのなかで自然発生的に生まれたものだったのでしょう。
発足時の「青空文庫」と同様、「自炊」に対しても、出版社や著作権者の反発はことのほかつよかった。犯罪視する人もいたし、いまもいます。でもね、わが国の出版業界はいつまでたっても、硬軟ひっくるめた大量の本の一挙雄子化と公開に踏み切ろうとしない。おかげで読みたいのに読む本がどこにもない。そのため、やむなく自炊に追い込まれた「本好き」諸氏のささやかな自衛の知恵まで押しつぶして、いったいどうなるというのだろう。「青空文庫」から「自炊」にいたる小さな知恵と工夫の流れ。これまでのところ、日本の出版電子化が世界に誇りうる独創的な試みは、それしかないのかもしれないのに。
--と私も一応はそう考えるのですが、なにせ書物史上はじめての大変化ですから、なんであれ、そう簡単に結着がつくわけがない。
そんな厄介なケースの一例としてこんな話があります。著名な書物史家ロバート・ダーントンがハーヴァード大学図書館の館長に選出され、「グーグル・ブックス」計画の提携相手であるグーグル社をはじめて訪れたときのこと。そこでかれは、この会社には弁護士や技術者が何千人もいるというのに、ひとりの書誌学者もいないという事実に気づき、「このプロジェクトはかならず失敗する」という確信をえたというのです。
では失敗したグーグルは、そのあとどうすればいいのか。「まようことはない」とダーントンはいいます。データの独占を放棄して原則タダの電子公共図書館の企てにすすんで参加すればいい。「こうした気前のよさによって会社が失うものはない。むしろその善行によって大いに称賛されるのではないか」(「グーグルのものよりいい電子図書館」)--。
この忠告が近い将来、そのままのかたちで実現されるとは思えません。でも、たとえばグーグル社自体が何度か消えてなくなるほどの長い時間がたてばどうか。同社の手でデジタル・スキャンされた「全地球図書館」が、やがて全地球レペルの「電子公共図書館」の重要な一部になってゆく可能性は、かなり大きいといっていいのではないだろうか。
だとすれば私たちも、そんなにいそいでジタバタせずとも、あと何十年かがたち、「すぐ売れる本がいい本、そうでない本は悪い本」の時代が過ぎ去ってゆくのを、腰を据えて待ちつづければいいのかもしれない。たんに受け身でいるのではなく戦略的に待つ。ゆっくり急げ。そのふくざつな時間に笑って対処できればいうことはないのですが。
二〇〇四年、同社は「グーグル・プリント」(現、グーグル・ブックス)という新プロジェクトを発足させ、世界各地の大学図書館や公立の中央図書館と手を組んで、これまで出版された〈紙の本〉のすべてをデジタル・スキャンし、そこから作成した〈電子の本〉を世界中からオンラインで利用できるようにするという大事業にとりかかった。古代アレクサンドリア図書館のむかしから、おおくの図書館人が「世界中角本を一か所にあつめた巨大図書館」という夢を、むなしく追いつづけてきた。その「全世界図書館」の夢を、いまやグーグルというグローバル企業が膨大な資金と技術力を投入して一気に現実化しようとしているのです。
ただし前世紀の「プロジェクト・グーテンベルク」や「アメリカの記憶」は、全世界の人びとに無料でひらかれた公共的な電子アーカイブとして構想されたが、「グーグル・ブックス」はちがいます。
じつをいうと、発足時、私はこの計画に少なからず心をうごかされた。アップルがそうだったように、もとはといえばグーグルも、七〇年代のパーソナル・コンピュータ革命(巨大コンピュータの単なる端末ではない自立した個人用コンピュータという夢の実現をめざす)の申し子ですからね。この途轍もない大事業のうちに、当時、さまざまな困難に直面していた図書館の社会的任務を新しい時代に引きつごうとする意志をかいま見たと、うっかり思ってしまった。
ところが時間がたつにつれて、それがとんでもないまちがいだったことがわかってきます。きれいなタテマエの裏側で、かれらをここまで突き動かしてきたのは、結局のところ、〈紙の本〉という形式で保存されてきた人類の知的資産をじぶんたちの手で根こそぎデジタルーデータ化し、それへのアクセス権を独占して、グローバルな情報権力をにぎろうとする欲望だけだったのです。
いまとなってそう認めるのはいささかならず癩にさわるのですが、電子本リーダーからインターネット・アーカイブまで、こうして見てくると、二十世紀後半にめばえた〈電子の本〉の未来が、二十一世紀の最初の十年間に、ごく少数の巨大IT企業の支配下におかれてしまったことがわかります。つまりはハリー・ポッターと新自由主義経済による世界制覇の時代ですよ。運わるくそこに「電子本ビジネス元年」がピタリとかさなってしまったのです。
そのため二十世紀末に表面化した「いますぐ売れる本がいい本、そうでない本は悪い本」という出版業界内での暗黙の了解が、〈紙の本〉のみならず、二十一世紀の〈電子の本〉の世界にまで引きつがれ、日本でいえば、電子書店の棚にならぶ本の八割はコミックスで、のこりを売れ筋のくやわらかい本〉や〈新しい本〉が占めるという状態を呈してしまった。
対するにアマゾンの kindle は、すでに発足時に〈新しい本〉と〈古い本〉、〈やわらかい本〉とくかたい本〉を合わせて四十五万点という膨大な電子本の在庫を持ち、それをどこからでも安価に、もしくは無料でダウンロードできる仕組みをととのえていた。あからさまな世界制覇を狙う以上、かれらはそこまで徹底的にやるしかなかったのです。
そしてその結果として、日本の読者もこれと同レベルの市場環境を期待することになった。しかし、よかれあしかれ、われわれの出版濃界にそうした期待に応える力はなかったし、それにとって代わりうる独創的なビジョンを打ちだす意欲もなかった。ただし業界のそとにでれば話はべつです。小さいながらも、「これは!」と思わされるような試みがまったくなかったわけではない。とりあえずその実例をふたつあげておきます。まずは先はども触れた「青空文庫」について--。
著者の死後五十年たって著作権が消滅した作品(おもに文学)をボランティアの手で電子化し、綿密な校正をへて、無料でダウンロードできるようにした日本で最初の私設電子公共図書館--それが「青空文庫」です。一九九七年にノンフィクション作家、故富田倫生の呼びかけによってはじまった。
じつをいうと私は本書を書くにあたって、この文庫からかなりの恩恵を受けています。たとえば「読書」というキーワードで検索をかけると、幸田露伴、夏目漱石、寺田寅彦、岡本綺堂、平田禿木、三木清といった人たちの代表的な読書エッセイが二十編ほど、ずらりと並ぶ。「ははア、この線で徹底的にやれば日本でも独立的な電子公共図書館ができるぞ」とすくなからず感動した。そういえば原勝郎の『東山時代に於ける一組紳の生活』も、あるはずの筑摩叢書本が書棚に見つからず、やむなくこの文庫で再読したのでしたっけ。
いま日本の出版社やIT企業がインターネット上に開設している電子書店をのぞくと、たいていはそこのバーチャルな書棚に「青空文庫」の本が並んでいる。しかし、かつて発足時の同文庫に向けられた業界人の目は、なかなかに冷やかなものでした。そんな出版社やIT企業が、いまは自社の電子出版事業のかくれた目玉のひとつとして、じぶんたちにできないこと(じっくり読むに足る本をまとめて電子化する)を無償でやってくれる「青空文庫」にたよっている。ちょっとへんな気がします。
そして第二が「自炊」ブーム--。
いくら待っても読みたい本が電子本化される気配がないので、苛立った読者がじぶんの手で蔵書を電子化することにした。じぶんでつくるから自炊。手持ちの本を裁断機でバラし、一ページずつスキャンしたものをOCRソフトで電子化して、kindle や iPad などの電子本リーダーで擬似的なページめくりが可能なしかたで読む。
最初にだれがはじめたのか、私は知りません。たぶん二〇一〇年か一一年、あの「電子本元年」騒ぎのなかで自然発生的に生まれたものだったのでしょう。
発足時の「青空文庫」と同様、「自炊」に対しても、出版社や著作権者の反発はことのほかつよかった。犯罪視する人もいたし、いまもいます。でもね、わが国の出版業界はいつまでたっても、硬軟ひっくるめた大量の本の一挙雄子化と公開に踏み切ろうとしない。おかげで読みたいのに読む本がどこにもない。そのため、やむなく自炊に追い込まれた「本好き」諸氏のささやかな自衛の知恵まで押しつぶして、いったいどうなるというのだろう。「青空文庫」から「自炊」にいたる小さな知恵と工夫の流れ。これまでのところ、日本の出版電子化が世界に誇りうる独創的な試みは、それしかないのかもしれないのに。
--と私も一応はそう考えるのですが、なにせ書物史上はじめての大変化ですから、なんであれ、そう簡単に結着がつくわけがない。
そんな厄介なケースの一例としてこんな話があります。著名な書物史家ロバート・ダーントンがハーヴァード大学図書館の館長に選出され、「グーグル・ブックス」計画の提携相手であるグーグル社をはじめて訪れたときのこと。そこでかれは、この会社には弁護士や技術者が何千人もいるというのに、ひとりの書誌学者もいないという事実に気づき、「このプロジェクトはかならず失敗する」という確信をえたというのです。
では失敗したグーグルは、そのあとどうすればいいのか。「まようことはない」とダーントンはいいます。データの独占を放棄して原則タダの電子公共図書館の企てにすすんで参加すればいい。「こうした気前のよさによって会社が失うものはない。むしろその善行によって大いに称賛されるのではないか」(「グーグルのものよりいい電子図書館」)--。
この忠告が近い将来、そのままのかたちで実現されるとは思えません。でも、たとえばグーグル社自体が何度か消えてなくなるほどの長い時間がたてばどうか。同社の手でデジタル・スキャンされた「全地球図書館」が、やがて全地球レペルの「電子公共図書館」の重要な一部になってゆく可能性は、かなり大きいといっていいのではないだろうか。
だとすれば私たちも、そんなにいそいでジタバタせずとも、あと何十年かがたち、「すぐ売れる本がいい本、そうでない本は悪い本」の時代が過ぎ去ってゆくのを、腰を据えて待ちつづければいいのかもしれない。たんに受け身でいるのではなく戦略的に待つ。ゆっくり急げ。そのふくざつな時間に笑って対処できればいうことはないのですが。
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