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いちばん新しい独立国 南スーダン共和国

『アフリカ社会を学ぶ人のために』より

スーダン共和国の南部地方は、二〇一一年七月九日に独立し、南スーダン共和国となった。アフリカでは五四番目、国連加盟国としては一九三番目の新国家の誕生である。この独立は、南スーダンの人びとが、スーダン人民解放運動/スーダン人民解放軍(SPLM/SPLA)が指導した闘争に参加して、二二年間にわたって内戦を戦いぬいた末に勝ち取ったものだ。この闘いは、死者二五〇万人、数百万人の難民・国内避難民という、私たちの想像を超えた、膨大な犠牲者を生んだ。現在、一〇〇〇万を超えるといわれる南スーダン国民は、全員が「生き残り」である。皆が、家族や友人の誰かを内戦で失っている。生き残った人びとは、犠牲者たちを思い起こしながら、全国の町や村で独立を祝った。

十九世紀中期以来百数十年にわたって、南部スーダンの人びとはあまたの外部勢力による支配を受け、断続的な武力抵抗を続けてきた(独立前は「南部スーダン」、独立後は「南スーダン」という名称が用いられている)。エジプト、マフディー国家、イギリス、そして一九五六年の独立後はスーダンによる支配を受けてきた。しかし、どの勢力も南部スーダンを十分に統治したことはなく、南部スーダン人は正当な国民として扱われたこともなかった。南スーダン人にとって独立は、抑圧と搾取の長い歴史に終止符が打たれ、自由と平和、そして繁栄が到来することを意味したのである。全土が祝祭の雰囲気に包まれていたのも当然である。

ただし、スーダン共和国に住む南スーダン人は、心中複雑であったことと思われる。内戦が終結した二〇〇五年の時点では、二〇〇~三〇〇万人の南部スーダン人が北部に居住していたといわれている。彼らの多くは内戦を逃れて移住した国内避難民であった。北部に居住していた南部スーダン人の多数は、独立までに南部に帰還した。しかし、正確な数は不明だが、相当数が北部、とくに首都のハルツームに居残っている。独立の時点で、彼らは「外国人」になったのであり、スーダン共和国政府が彼らをどう扱うのか、不透明であった。「残留南スーダン人」たちにとって、不当な扱いを受けるかもしれないという恐れは、現実的なものなのである。

もともと一つであった国が二つに分離すると、さまざまな問題が生じることは容易に想像できる。北部からの帰還民の問題、北部に残留した南スーダン人、および南部に居住しつづけるスーダン人(北部人)の問題は、氷山の一角にすぎない。南スーダンとスーダンとのあいだには、国境の画定、債務の分担、北部の港から輸出される南部産出石油の輸出手数料などの問題、そしてとりわけ二国間の友好的関係の樹立といった、さまざまな課題が山積している。

南スーダンという国と社会の建設は、巨大な実験である。この大事業には、すでに莫大な額と数の資金と人員が投入されている。国連と国際社会は、二〇〇五年から大規模な支援をおこなってきた。日本も政府間の資金援助だけでなく、JICAとNGOが、さまざまな復興支援活動を実施してきた。また、国連南スーダン派遣団(UNMISS)の一翼を担って三〇〇名規模の自衛隊が派遣されている。南スーダンの問題は、日本に住む私たちにとっても他人事ではない。しかし、長期にわたる大規模な外部からの介入と支援は、国家建設の主役はいったい誰なのかという疑問を生じさせる。人道の名のもとにおこなわれる現代世界のこうした介入は、民主化と自由化を最終的な目的とする。その根底にあるのは、新自由主義のイデオロギーである。人道的介入は、誰のために実践されているのか、注意深くみきわめる必要がある。

国民国家の時代であった近代が終焉し、グローバル化が進展する脱近代(ポストモダン)の時代に、そして国家建設の失敗例には事欠かないアフリカにおいて、南スーダンという国はこれからいかなる進路をたどっていくのだろうか。そのなかで、自由と平和、および経済的発展という人びとの夢は現実のものになるのだろうか。アフリカに関心をもつ者は、南スーダンから目が離せないだろう。
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