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哲学の緒論 ハイデガー

『ハイデルベルク論理学講座』より 緒論

第一節 〔一般諸学は表象の立場〕

 哲学以外のあらゆる学の場合には、対象とされるものは、表象によって直接的なものであると認められている。その表象の立場の〕ためにそういう対象は、学をこれから始めるという場合でも、あらかじめ〔出発点となりうるような〕受け入れられたものとして前提されている。また、学がそれより先に進んだ場合に必要だと見なされる規定でさえも、取り出されるのは表象からなのである。

  そうした学は、白分か扱うのはどうしてこの対象でなければいけないかという対象そのものの必然性について、みずから権利づけをする義務を免れている。数学全般、幾何学、算術、法学、医学、助物学、植物学などの学の場合には、量、空間、数、椛利・法、病気、動物、植物などがあると前提としてもかまわないことになっている。つまり、こうした対象は、表象によって現にあるものとして受け入れられているのである。

  そうした対象が存在することを疑ったり、また、量、空間や、病気、動物、植物などがそれ自体としてかつそれだけで存在しなければならないことを「概念」から証明せよ、などと要求することは、普通の人には思いもよらないことである。

  --そういった対象に関してまず手っ取り早く挙げられるのは、人がそれに付けている名前である。名前というものは〔聞けばそれと分かる〕確かなものではあるが、さしあたっては事柄の表象を与えてくれるだけのものでしかない。しかし〔対象を知るためには〕当の事柄についてのもっと詳しい規定もまた挙げられる必要がある。〔名前を挙げるのと〕同じように、そうした詳しい規定もたしかに〔いま、ここに〕直接に浮かんでいる衣象から収ってくることもできる。けれどもその場介には、すぐに難しい問題に直面することになる。つまり〔この場合に〕捉えられるべきあれこれの規定に関して、それらが対象の中に現にあるとともに、また本質的な規定でもある、ということがどちらも同じくただちに認められなくてはならない、という問題である。

  この〔現にあることと本質的にあることという二重性の〕問題について〔一方で〕形式的なことを言えば、その〔問題を解決する〕ためにこそ論理学、つまり定義や区分などについての理論があらかじめ前提されるわけである。他方、内容に関して言えば、その際には経験的な仕方で振る舞うことが認められていて、その〔ような態度をとる〕ために、〔経験的方法を取る学者は〕普遍的な対象に関する表象のなかにはたしてそのような徴表が事実として見出されるかを、ああだこうだと探すことになる。とはいえ、そうした事実なるものからしてすでに〔いったい「事実」とは何だという〕やかましい議論の的になることがあるものなのである。

第二節 〔哲学を始めることの難しさ--内容面〕

 これに対して、哲学の始まりはやっかいなものである。やっかいだと言うのは、哲学の対象というのがそもそもただちに懐疑にさらされ、論争に身を委ねなくてはならないものだからである。〔詳しく言うと、〕

 1 対象の中身に関して言えば、対象が単に表象の〔対象だと〕主張されるだけでなく、哲学の対象なのだと主張されなくてはならない時には、対象は表象のなかに求められないし、それどころか哲学の対象は認識の仕方に関しては表象と対立していて、表象することの方がむしろ哲学によって自己〔の限界〕を超えていくようにされなければならないからである。

第三節 〔哲学を始めることの難しさ--形式面〕

 2 形式に関しても、哲学の対象は同じ困難にさらされている。なぜかと言えば、哲学の対象は、哲学を始める出発点とされる以上、直接的〔無媒介的〕なものなのであるが、しかしそれはその本性から言えば、媒介されたものとして提示され、概念によって必然的なものであると認識されねばならないというあり方をもっているものだからである。そして同時に、認識の仕方と方法というのは哲学そのものの内部で考察されるわけだから、哲学の対象が認識の仕方と方法を前提するということもあってはならないことだからである。

  表象に対して表象自身のなかに、哲学の〔始まりとなるような〕まったく無規定な対象を示してやるということだけが問題であるとすれば、逃げ道をありきたりの訴えかけに求めることができるだろう。つまり、人間というものは感性的な知覚や欲求から出発するものであるとしても、すぐさまそうしたものを超え出て。自分かいまあるよりもさらに高いもの、無限の存在、無限の意志、こうしたものへの感情と予感へと駆り立てられる衝動があると感じるようになるのだ、と。

  --その際人間が抱く普遍的な関心は、次のような様々な問いのなかに示されている。魂とは何か、世界とは何か、神とは何か、--私は何を知ることができるのか、何に従って私は行為するべきなのか、私は何を望むことができるのか、等々。もっと細かいことは、宗教とその対象のことを考えてみれば分かるだろう。このようなあれこれの問いやそうした諸々の対象そのものとがただちに疑いと否定の餌食になるということはさておいて、すでに直接的な意識というものは、そしてそれ以上に宗教というものは、自分の流儀で、こういう問いに対する答えを、そしてそういう対象に関する一説を、部分的には含んではいる。しかしながらこれではあれこれの対象を哲学の内容に仕立てあげるその当の固有のものは言い表されてはいないのである。

  --それだから、対象に関するものだけに限っても、哲学の名の下に理解されている権威ある一般的な共通理解をあてにすることはできない。〔共通理解などというものにあっては〕この節で述べた、概念による必然性の認識という要求でさえ、認められてはいないのである。というのも、まさにその必然性の認識を捨て去って、哲学の対象をむしろ直接的な感情や直観に求め、そのうえ知覚のこうした直接態を理性と称してさえいるというありさまなのに、「自分には哲学がある」と勝手に思い込んでいるものはいくらでもいるからである。

  この意味でニュートンをはじめとするイギリス人たちは、実験自然学までも哲学と称している。だから彼らはまた静電発電機、磁気器具、空気ポンプなどを哲学的な道具と呼んでいる。そうは言っても、木や鉄などを組み合わせたものを哲学の道具と言うことはできない。そう言うことのできるものは思考だけである。

第四節 〔緒言は先取り〕

 哲学の対象は直接的なものではない。それゆえに対象の概念および哲学そのものの概念は、哲学のなかでしか掴むことができない。したがって、哲学そのものに先立って、対象ならびに哲学そのものについてまずここで述べることがあっても、それは先取りであるにすぎず、まだそれ自身として基礎づけられているようなものではない。けれどもそれだからこそまた、〔ここで述べるような先取りは、最低限の〕反論の余地のないような確実なものなのである。〔そしてそのような先取りをする〕狙いは、まだ未規定で、暫定的にとどまるが、こうと言える程度の事実的な知識を提供することにある。

第五節 〔哲学は理性の学である〕

 以上のようなわけで、哲学とはここでは理性の学であると主張される。しかもここでいう理性とは、自分自身があらゆる存在であると意識している理性のことである。

  哲学的な知以外の知はすべて、有限なものについての知、つまりは有限な知である。なぜなら、そもそもこのような知において理性は主観的な理性であるから、所与の対象をあらかじめ前提としていて、そのためにそうした対象のなかに自己自身を認識することはないからである。

  権利や義務などのような対象は、たとえ自己意識のなかに見出されるとしても、個々別々に存在している対象であって、宇宙のその他の豊かな富は、そうした対象と並んで、あるいはそれらの外に、したがってまた自己意識の外にあることになる。宗教の対象ともなれば、たしかにそれだけでもう一切のものを自己のうちに包み込んでいるとされる無限な対象である。しかし宗教の表象はいつまでも自己に忠実のままではいない。というのも、宗教にとってもやはり世界というものが無限なものの外にあくまでも自立して残り続けているからである。宗教が最高の真理として挙げるものはと言えば、計り知れず、神秘であり、そしてまた認識することもできず、与えられたものであって、もっぱら所与の外的なものという形式でのみ、区別する意識に残り続けるものだとされている。宗教において真なるものは、感情と直観、予感、表象、信心深さなるもののうちにあるのであって、思想とも結び付いてはいるものの、〔そこでは〕真理は真理の形式をとってはいない。たとえ宗教の心情は一切のものを包みこむものであるにしても、宗教というものは一般に、宗教以外の、意識と分離したそれ独自の領域を形成しているのである。

  --哲学は〔理性の学であるとともに〕また自由の学であると見なすこともできる。哲学のうちでは諸々の対象が〔互いに〕疎遠であるという性格が、したがって意識の有限性が消え失せるのだから、唯一、哲学のうちで、偶然性、自然必然性、そして外的なものへの関係というものが、したがって依存、憧れ、恐れといったものがなくなってゆく。ただ哲学のうちでのみ、理性はどこまでも自己自身のもとにあるのである。

  --同じ理由から、この学において理性はまた、主観的な理性であるという一面性さえももたない。理性は、芸術家が熟練の業をもつ場合のように、特別な才能をもつ人の所有物でもなければ、格別な神的な幸運

  --あるいは不運--の賜物でもない。哲学は自分自身を意識している理性にほかならないのであるから、その本性からして普遍的な学たりうるのである。

  また、〔ある種の〕観念論は、知の内容は自我によって措定された、自己意識の内部に閉ざされた主観的な産物であるという規定しかもたないものであるが、哲学はこうした観念論でもない。理性は自分自身が存在であると意識しているのであるから、こうした主観性、自我(この自我は自己を客観に対する一つの特殊的なものだと思い、自分の諸規定は自己のうちにあり、自己の外や自己を超えてある他のものとは区別されたものだと思っている)は揚棄されてしまっており、理性的な普遍性のうちへと沈められているのである。

第六節 〔哲学はエンチクロペディーである〕

 哲学は、その領域全部があれこれの部分のある特定の言説で叙述される場合には、「哲学的な諸学のための」エンチクロペディー〔集大成〕であるが、その各部分の分離と連関〔のあり方〕が概念の必然性に従って叙述される場合には、「哲学的な」エンチクロペディーである。

  哲学とは徹頭徹尾、理性的な知である。だから、その各部分はどれをとっても哲学的全体であり、自己自身の内部で完結した円環をなす統体性である。しかし、哲学的な理念はそうした個々の部分においては特殊な規定態のかたちを取って存在する、言いかえれば特殊な境地において存在する。

  個々の円環は自己のうちで統体性であるのだから、自分がいる境地の制限さえも突破して、それより広い領域の基礎となる。それだから全体は諸々の円環からなる一つの円環として自己を現すのであって、これらの円環のどれもが必要不可欠な契機なのである。そのために、それぞれの円環に特有な境地からなる体系が理念の全体を形成しているのであって、理念の方もまた個々の境地のどこにおいても現象してくるのである。

第七節 〔哲学は体系である〕

 哲学は本質的に言ってもエンチクロペディー〔百科全書〕である。というのも、真なるものは統体性としてしか存在することができないし、また自分の〔なかに潜在的にある〕区別を〔はっきりと〕区別し規定することによってしか、それらの区別の必然性と、そして全体の自由とは存在しえないからである。哲学はそれゆえ必然的に体系でなければならない。

  体系のないまま哲学的に思索してみても、それは学的なものとはなりえない。そのように哲学することは、それだけとって見てもせいぜい主観的な物の考え方を表現するのでしかないのだが、それに加えて内容面から見ても偶然的である。というのも内容は全体の契機としてしかその正当性をもたないし、全体を離れては無根拠の前提や主観的な確信をもつにすぎないからである。

第八節 〔学の体系は特殊的な諸原理をも含む〕

 哲学の体系とは、他の諸原理から区別された或る特定の原理をもつ一つの哲学のことであると解するならば、それは誤りである。それとは逆で、すべての特殊的な諸原理を自己のうちに含んでいるということこそ、真なる哲学の原理なのである。哲学はこうした原理を哲学そのものにあって示しているばかりでない。哲学の歴史もまた次のことを示してくれている。すなわち哲学史は、一方では、様々な姿で現れてくる諸々の哲学というかたちで、唯一の哲学を様々な形成段階において示している。そして他方では、あれこれの特殊な諸原理というものがあっても、そうした諸原理のうちのIつが体系の基礎となったのであって、それらの特殊な諸原理は同一の全体から枝分かれしたものにすぎないのだということを示しているのである。

  ここでは普遍的なものと特殊的なものとはそれ本来の規定に従って区別されなければならない。普遍的なものが形式的に受け取られて特殊的なものと並べて置かれるならば、普遍的なもの自身もまた何らかの特殊的なものになってしまう。

  このように〔普遍と特殊とを並べて〕置くのは、日常生活での対象の場合を考えてみれば、不適切でまずいやり方だということがおのずと分かる。たとえば、果物を欲しがっている人であれば、サクランボやナシやブドウなどを、それはサクランボやナシやブドウであって果物ではないなどと言って受け取らないということはないだろう。--ところが哲学に関しては、人々はそのたぐいのことを許している。つまり一方では、千差万別な哲学があり、そのどれもが一つの哲学にすぎず、哲学そのものではないというのが、哲学を侮りはねつけるもっともな理由になるということを認めている。--まるでサクランボは果物ではないかのように。

  そして他方では、人々は普遍的なものを原理としている哲学を特殊的なものを原理としている哲学と並べて置いてもかまわないと思っている。それどころか、「哲学などはまったく存在しない」と放言し、そして真なるものを与えられた直接的なものとして前提し、これについてあれこれの反省を行う思想活動のために、「哲学」という名を使っているような説と並べて置くことさえも許しているのである。
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