未唯への手紙
未唯への手紙
中華ソビエト共和国 一九三一~三四年 毛沢東三七~四〇歳
『真説 毛沢東』より
一九三二年一一月七日、瑞金では中華ソビエト共和国の創立を記念して盛大な祝賀行事がおこなわれた。その晩は何万という地元住民が動員され、竹の松明を持ち、星や鎌やハンマーの形をした提灯を掲げて行進した。夜の闇に光の行列がまたたき、壮観であった。太鼓が打ち鳴らされ、爆竹がはじけ、「イギリス帝国主義者」の名札をつけた支配者が「インド」と「アイルランド」の名札をつけた囚人を鎖につないで追いたてていく寸劇も上演された。寺の裏手にある防空壕では発電機が騒々しい音をたてて電気を起こし、柱から柱へ張りめぐらされた無数の豆電球に明かりをともしていた。光の中に浮かぶのは、電線から吊るした色とりどりの垂れ幕に書かれたスローガンの文字。壁にも、赤と白と黒で描かれた巨大なスローガンが貼ってあった。毛沢東をはじめとする指導者たちは御立ち台から行列を眺めて拍手を送り、大声でスローガンを叫んだ。天安門上で一〇〇万の人民から万歳の声を浴びる栄光の原形を毛沢東が初めて味わった瞬間であった。
ただし、このときは決定的な違いがあった。瑞金における毛沢東は、最高指導者ではなかったのだ。モスクワは毛沢東に新共和国の「大統領」と「首相」に相当する地位を与えたものの、独裁者の地位は与えず、モスクワの命令に従順で信頼できる人物で毛沢東の周囲を固めた。軍のトップには、中央革命軍事委員会主席に任命された朱徳がいた。朱徳はソ連で訓練を受けた軍人なので、モスクワには朱徳という人物がわかっていた--朱徳がモスクワを裏切らないこともわかっていた。モスクワは毛沢東を軍のトップに据えることも検討したが、結局、毛沢東は軍事委員会の一五人の委員に名を連ねるにとどまった。
何よりも重要なことに、毛沢東のすぐ上に実権を握る中国人が配置されていた。周恩来である。周恩来は中華ソビエト共和国樹立の翌月一九三二年一二月に上海から赴任して、党書記に就任することになっていた。共産党体制においては、党書記が最高の権力を持ち、国家元首といえどもこれに及ばない。周恩来の着任と同時に、党中央の機能も瑞金に移った。上海は単にソ連との連絡事務所のような存在になり、博古(秦邦憲)と呼ばれる若者が責任者になった。瑞金とモスクワのあいだには、上海経由で信頼性の高い無線通信が確立された。モスクワとの通信にあたっていたのは、毛沢東ではなく周恩来だった。中華ソビエト共和国をスターリン主義国家に作り上げたのは、周恩来である。新しい共和国の基礎作りと運営において、毛沢東は中心的な役割を果たしたわけではなかった。
組織化の達人周恩来は、厳しい弾圧を用いて、新共和国をあらゆる面において連関しあうシステムに作り上げていった。周恩来は、巨大な官僚制度を作り上げるうえで力を発揮した。そうして作られた官僚制度は、根拠地の運営にとどまらず、人民を強制的に党の命令に従わせるためにも使われた。どの村にも「拡大紅軍委員会」「土地委員会」「没収委員会」「戸口(戸籍)委員会」「赤色戒厳委員会」等々、何十もの委員会が作られた。人民は、六歳で最初の組織「児童団」に組み込まれ、一五歳で自動的に「少年先鋒隊」に登録され、成人後は高齢者と障害者を除いて全員が「赤衛軍」に編成された。こうして人民全員が組織化され、支配網が作られた。
毛沢東にとって、これは目をみはる発見だった。周恩来が着任するまで、毛沢東は根拠地を土匪スタイルで支配しており、人民に対する管理はさほど厳密ではなかった。が、毛沢東は新しいやり方の利点と可能性をいちはやく見抜いた。中国全土を支配下におさめたとき、毛沢東はこの全体主義的システムを引き継いで、さらに一層--スターリンのソ連にも増して--干渉的かつ徹底的なシステムにした。あわせて、周恩来の手腕も周が死ぬまで利用した。
周恩来はまた、モスクワの監督のもと、一九二八年に中国版KGB(当時は政治保衛局と呼ばれた)を作り上げた。周恩来と部下たちはこの組織を瑞金にも持ち込み、恐怖の力で国家を維持した。毛沢東が個人的な権力のために恐怖を利用したのに対し、周恩来は共産党による統治のために恐怖の力を利用した。毛沢東が粛清のために使った腹心は私利私欲が目的のごろつき連中だったが、周恩来が使ったのはソ連で訓練されたプロ集団だった。
一九三一年末、瑞金に着任してまもないころ、周恩来は毛沢東の粛清方法を正しくない部分もあったと処断し、毛沢東のやり方は「もっぱら自白と拷問に頼り」「大衆のあいだに恐怖を引き起こしてしまった」として、何人かの被害者を復権させたことがあった。ある人物が、そのときのもようを述懐する。
[ひとりの役人がやってきて]手帳を取り出し、名前を読み上げはじめた。名前を呼ばれた者は中庭へ行って立って待つように、という命令だった。中庭には武装衛兵がいた。何十もの名前が読み上げられた……わたしの名も呼ばれた。わたしは恐ろしさのあまり、全身に汗をかいていた。そのあと、わたしたちは一人ずつ尋問を受け、一人ずつ嫌疑を解かれた。たちまち、拘束されていた全員が釈放された。そして、罪を着せられるもとになった自白書類はその場で焼却された・・・・・・
しかし、わずか数カ月で、周恩来はこの緩和策に終止符を打った。ほんの短期間締めつけを緩めただけで、共産党の統治に対する批判が噴出したのである。政治保衛局の人間は驚いて、「粛清を緩和したところ、反革命分子どもが……ふたたび頭をもたげた」と書いている。もうこれ以上の処刑や逮捕はないだろうと楽観した民衆は、団結して共産党の命令に反抗しはじめた。共産党による統治はつねに殺人を続けていないと不可能であることが明らかになり、すぐに処刑が再開された。
共産党政権は、人民を金、食糧、労働力、兵力という四つの主要な資産の供給源として見ていた。それらは、当面は戦争を戦うために必要であり、究極的には中国を征服するために必要な資産である。
この地域には大きな資金源があった--世界最大の埋蔵量を誇るタングステンである。タングステンは非常に高価な戦略的鉱物資源で、以前は外国資本のコンソーシアムがこの地域で採掘をおこなっていた。中華ソビエト共和国政府は、一九三二年初頭にタングステンの採掘を再開した。紅軍兵士と強制労働を使って採掘されたタングステンは、中華ソビエト共和国の南境を越えて広東軍閥へ売却された。このあたりの軍閥は国民党系ではあったものの、反蒋介石で、儲け話には熱心だった。共産党の支配地域は表向きは経済封鎖されていることになっていたが、広東軍閥との交易は、両者のあいだに戦闘が散発しているときでさえ活発におこなわれていた。塩、綿、薬品、武器までもが、タングステンと引き換えに赤色根拠地へ公然と運び込まれていた。取引は毛沢東の弟で人民銀行の責任者である毛沢民が仕切っていた。
タングステンなどを売却して莫大な利益を得ていたにもかかわらず、中華ソビエト共和国政権は地元住民から最大限に搾り取る方針を緩めることはなかった。農民はいまや自分の土地を与えられ、地代は廃止されたものの、暮らし向きは全体として以前より悪くなっていた。それまで、大多数の人々は生きるのに最低限必要なもの以外に二、三の財産を持っていたが、共産党政府はそうしたわずかな財産まで取りあげてしまった。これには、いろいろな名目が使われた。そのひとつは、人民にむりやり「革命戦争公債」を買わせる方法だ。戦債を買うために、女たちは髪を切らされた。そうすれば銀の髪飾りが不要になるからだ。なけなしの宝石類--昔から、いざというときのために女たちが持っていた財産‐‐-も供出させられた。人々がそうした宝石類を持っていたということは、共産党政権以前は生活水準がもう少し高かったことの証左である。人民に戦債を買わせたあと、政府は「退還公債運動」、すなわち人民をおどしつけて無償で債券を返納させる運動を始めた。結局のところ、幾人かの勇気ある住民が口に出して嘆いたように、「共産党の債券は国民党の税金よりもっと悪い」ということだった。
食糧についても、やり方は同じだった。税として穀物を納めたあと、農民は「革命的大衆は紅軍に穀物を貸与しよう!」といったスローガンのもとで、さらに多くの穀物を国家に「貸与」するよう圧力をかけられた。しかし、「貸与」した食糧が戻ってくることはなかった。「貸与」させられた食糧は、農民が生きていくために必要な食糧だった。毛沢東は要するに、すでに十分つましい農民の暮らしをもっと切りつめるよう命じたことになる。
就労年齢の男性は、大多数が軍に徴兵されるか、さもなければ労働力として徴用された。共産党政権になって三年たったころには、村には一〇代前半から五〇代までの男性はほとんどいなくなってしまった。
一九三二年一一月七日、瑞金では中華ソビエト共和国の創立を記念して盛大な祝賀行事がおこなわれた。その晩は何万という地元住民が動員され、竹の松明を持ち、星や鎌やハンマーの形をした提灯を掲げて行進した。夜の闇に光の行列がまたたき、壮観であった。太鼓が打ち鳴らされ、爆竹がはじけ、「イギリス帝国主義者」の名札をつけた支配者が「インド」と「アイルランド」の名札をつけた囚人を鎖につないで追いたてていく寸劇も上演された。寺の裏手にある防空壕では発電機が騒々しい音をたてて電気を起こし、柱から柱へ張りめぐらされた無数の豆電球に明かりをともしていた。光の中に浮かぶのは、電線から吊るした色とりどりの垂れ幕に書かれたスローガンの文字。壁にも、赤と白と黒で描かれた巨大なスローガンが貼ってあった。毛沢東をはじめとする指導者たちは御立ち台から行列を眺めて拍手を送り、大声でスローガンを叫んだ。天安門上で一〇〇万の人民から万歳の声を浴びる栄光の原形を毛沢東が初めて味わった瞬間であった。
ただし、このときは決定的な違いがあった。瑞金における毛沢東は、最高指導者ではなかったのだ。モスクワは毛沢東に新共和国の「大統領」と「首相」に相当する地位を与えたものの、独裁者の地位は与えず、モスクワの命令に従順で信頼できる人物で毛沢東の周囲を固めた。軍のトップには、中央革命軍事委員会主席に任命された朱徳がいた。朱徳はソ連で訓練を受けた軍人なので、モスクワには朱徳という人物がわかっていた--朱徳がモスクワを裏切らないこともわかっていた。モスクワは毛沢東を軍のトップに据えることも検討したが、結局、毛沢東は軍事委員会の一五人の委員に名を連ねるにとどまった。
何よりも重要なことに、毛沢東のすぐ上に実権を握る中国人が配置されていた。周恩来である。周恩来は中華ソビエト共和国樹立の翌月一九三二年一二月に上海から赴任して、党書記に就任することになっていた。共産党体制においては、党書記が最高の権力を持ち、国家元首といえどもこれに及ばない。周恩来の着任と同時に、党中央の機能も瑞金に移った。上海は単にソ連との連絡事務所のような存在になり、博古(秦邦憲)と呼ばれる若者が責任者になった。瑞金とモスクワのあいだには、上海経由で信頼性の高い無線通信が確立された。モスクワとの通信にあたっていたのは、毛沢東ではなく周恩来だった。中華ソビエト共和国をスターリン主義国家に作り上げたのは、周恩来である。新しい共和国の基礎作りと運営において、毛沢東は中心的な役割を果たしたわけではなかった。
組織化の達人周恩来は、厳しい弾圧を用いて、新共和国をあらゆる面において連関しあうシステムに作り上げていった。周恩来は、巨大な官僚制度を作り上げるうえで力を発揮した。そうして作られた官僚制度は、根拠地の運営にとどまらず、人民を強制的に党の命令に従わせるためにも使われた。どの村にも「拡大紅軍委員会」「土地委員会」「没収委員会」「戸口(戸籍)委員会」「赤色戒厳委員会」等々、何十もの委員会が作られた。人民は、六歳で最初の組織「児童団」に組み込まれ、一五歳で自動的に「少年先鋒隊」に登録され、成人後は高齢者と障害者を除いて全員が「赤衛軍」に編成された。こうして人民全員が組織化され、支配網が作られた。
毛沢東にとって、これは目をみはる発見だった。周恩来が着任するまで、毛沢東は根拠地を土匪スタイルで支配しており、人民に対する管理はさほど厳密ではなかった。が、毛沢東は新しいやり方の利点と可能性をいちはやく見抜いた。中国全土を支配下におさめたとき、毛沢東はこの全体主義的システムを引き継いで、さらに一層--スターリンのソ連にも増して--干渉的かつ徹底的なシステムにした。あわせて、周恩来の手腕も周が死ぬまで利用した。
周恩来はまた、モスクワの監督のもと、一九二八年に中国版KGB(当時は政治保衛局と呼ばれた)を作り上げた。周恩来と部下たちはこの組織を瑞金にも持ち込み、恐怖の力で国家を維持した。毛沢東が個人的な権力のために恐怖を利用したのに対し、周恩来は共産党による統治のために恐怖の力を利用した。毛沢東が粛清のために使った腹心は私利私欲が目的のごろつき連中だったが、周恩来が使ったのはソ連で訓練されたプロ集団だった。
一九三一年末、瑞金に着任してまもないころ、周恩来は毛沢東の粛清方法を正しくない部分もあったと処断し、毛沢東のやり方は「もっぱら自白と拷問に頼り」「大衆のあいだに恐怖を引き起こしてしまった」として、何人かの被害者を復権させたことがあった。ある人物が、そのときのもようを述懐する。
[ひとりの役人がやってきて]手帳を取り出し、名前を読み上げはじめた。名前を呼ばれた者は中庭へ行って立って待つように、という命令だった。中庭には武装衛兵がいた。何十もの名前が読み上げられた……わたしの名も呼ばれた。わたしは恐ろしさのあまり、全身に汗をかいていた。そのあと、わたしたちは一人ずつ尋問を受け、一人ずつ嫌疑を解かれた。たちまち、拘束されていた全員が釈放された。そして、罪を着せられるもとになった自白書類はその場で焼却された・・・・・・
しかし、わずか数カ月で、周恩来はこの緩和策に終止符を打った。ほんの短期間締めつけを緩めただけで、共産党の統治に対する批判が噴出したのである。政治保衛局の人間は驚いて、「粛清を緩和したところ、反革命分子どもが……ふたたび頭をもたげた」と書いている。もうこれ以上の処刑や逮捕はないだろうと楽観した民衆は、団結して共産党の命令に反抗しはじめた。共産党による統治はつねに殺人を続けていないと不可能であることが明らかになり、すぐに処刑が再開された。
共産党政権は、人民を金、食糧、労働力、兵力という四つの主要な資産の供給源として見ていた。それらは、当面は戦争を戦うために必要であり、究極的には中国を征服するために必要な資産である。
この地域には大きな資金源があった--世界最大の埋蔵量を誇るタングステンである。タングステンは非常に高価な戦略的鉱物資源で、以前は外国資本のコンソーシアムがこの地域で採掘をおこなっていた。中華ソビエト共和国政府は、一九三二年初頭にタングステンの採掘を再開した。紅軍兵士と強制労働を使って採掘されたタングステンは、中華ソビエト共和国の南境を越えて広東軍閥へ売却された。このあたりの軍閥は国民党系ではあったものの、反蒋介石で、儲け話には熱心だった。共産党の支配地域は表向きは経済封鎖されていることになっていたが、広東軍閥との交易は、両者のあいだに戦闘が散発しているときでさえ活発におこなわれていた。塩、綿、薬品、武器までもが、タングステンと引き換えに赤色根拠地へ公然と運び込まれていた。取引は毛沢東の弟で人民銀行の責任者である毛沢民が仕切っていた。
タングステンなどを売却して莫大な利益を得ていたにもかかわらず、中華ソビエト共和国政権は地元住民から最大限に搾り取る方針を緩めることはなかった。農民はいまや自分の土地を与えられ、地代は廃止されたものの、暮らし向きは全体として以前より悪くなっていた。それまで、大多数の人々は生きるのに最低限必要なもの以外に二、三の財産を持っていたが、共産党政府はそうしたわずかな財産まで取りあげてしまった。これには、いろいろな名目が使われた。そのひとつは、人民にむりやり「革命戦争公債」を買わせる方法だ。戦債を買うために、女たちは髪を切らされた。そうすれば銀の髪飾りが不要になるからだ。なけなしの宝石類--昔から、いざというときのために女たちが持っていた財産‐‐-も供出させられた。人々がそうした宝石類を持っていたということは、共産党政権以前は生活水準がもう少し高かったことの証左である。人民に戦債を買わせたあと、政府は「退還公債運動」、すなわち人民をおどしつけて無償で債券を返納させる運動を始めた。結局のところ、幾人かの勇気ある住民が口に出して嘆いたように、「共産党の債券は国民党の税金よりもっと悪い」ということだった。
食糧についても、やり方は同じだった。税として穀物を納めたあと、農民は「革命的大衆は紅軍に穀物を貸与しよう!」といったスローガンのもとで、さらに多くの穀物を国家に「貸与」するよう圧力をかけられた。しかし、「貸与」した食糧が戻ってくることはなかった。「貸与」させられた食糧は、農民が生きていくために必要な食糧だった。毛沢東は要するに、すでに十分つましい農民の暮らしをもっと切りつめるよう命じたことになる。
就労年齢の男性は、大多数が軍に徴兵されるか、さもなければ労働力として徴用された。共産党政権になって三年たったころには、村には一〇代前半から五〇代までの男性はほとんどいなくなってしまった。
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