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ワシントンに救われる 一九四四~四七年 毛沢東五〇~五三歳

『真説 毛沢東』より 

蒋介石がアメリカ政官界で好かれていないのは、周知の事実だった。毛沢東は、この点に働きかければアメリカが蒋介石に対する支持を控えて共産党軍により好意的な態度を示すのではないか、と考えた。そして、中国共産党は本当の共産主義政党ではなく、穏健な農業改革運動の一種であってアメリカとの協力を望んでいる、というアメリカの錯覚を助長すべく巧妙な手を打った。

一九四四年半ば、ローズヴェルトは延安に使節団を派遣した。最初のアメリカ人一行が到着した直後、毛沢東は党の名前を変更する考えを吹聴した。「われわれは以前から党名の変更を考えていました」と、毛沢東は八月二一日、延安駐在のソ連人連絡員ウラディミロフに伝えた。「『共産党』ではなくて、何か別の名前で呼ぶのです。そうすれば状況は……もっと好転するでしょう。とくにアメリカとの関係は……」。ソ連側も、ただちに賛成の意を表明した。その月の後半、モロトフは同じせりふを当時のローズヴェルト大統領特使パトリック・ハーレー将軍の耳にささやいた。「[中国には]『共産主義者』を自称した人々……もいましたが、彼らは共産主義にはいっさい何の関係もないのです。経済の現状に対する不満を表明する目的で共産主義者を自称していただけです。経済状況が良くなれば、このような政治傾向など忘れてしまうでしょう。ソ連政府は……『共産主義分子』と関係したことは「ありません」」

ローズヴェルトの後継者(リー・トルーマンが一九四五年一二月に内戦を中止させる目的でアメリカ軍最高司令官ジョージ・マーシャルを中国に派遣したのを受けて、共産党側は芝居に一層力を入れた。マーシャルは一九二〇年代に中国で軍務についていた時代に蒋一族の汚職を見てきたせいで最初から蒋介石に対して良い印象を抱いておらず、アメリカと中国共産党には多くの共通点がある、という共産党の主張に共感しやすい素地があった。周恩来はマーシャルとの初めての会談で、中国共産党がどれほど「アメリカ式の……民主主義を望んでいるか」という話をして、巧みにマーシャルの心をつかんだ。一ヵ月後、周恩来はマーシャルに、毛沢東はソ連よりアメリカを好んでいる、という真っ赤な嘘を吹き込んだ。「ちょっとしたエピソードをお聞かせしましょうか、関心がおありかもしれませんから……。最近、毛主席がモスクワを訪問するのではないか、という噂が立ったのですよ。それを聞いた主席は大笑いして、半ば冗談ですが、外国にバカンスに行くなら……むしろアメリカに行きたいものだ、と言ったのです……」。マーシャルは、この話をそのままトルーマン大統領に伝えた。その後何年間も、マーシャルはトルーマンに対して、共産党のほうが国民党より協力的だったと主張しつづけた。

マーシャルは毛沢東という人間を理解していなかったし、毛沢東とスターリンの関係も理解していなかった。一九四五年こ一月二六日の時点で、マーシャルは蒋介石に対して、「ソ連政府が中国共産党と連絡を取りあい助言を与えていたかどうかをはっきりさせることは非常に重要だった」と、この点がいまだ証明されていないかのような発言をしている。後年(一九四八年二月)になっても、マーシャルは米議会に対して、「中国で[共産軍が]国外の共産党勢力から支援を受けているか否かという点については何ら具体的な証拠はない」と述べている。これは、とんでもない無知だ。アメリカはイギリスと同じくソ連の電信を傍受しており、その中には延安あての通信もあった。両者の関係は明らかだったはずだ。ほかのアメリカ政府高官も、中国共産党に関してマーシャルに強く警告していた。延安に派遣されたアメリカ使節団の団長がまとめ攻最終報告書は、「共産主義は全世界に広がっている!」という警告文で始まっている。

マーシャル特使は、一九四六年三月四日から五日にかけて延安を訪問した。マーシャルを迎えるにあたって、毛沢東は準備に万遺漏なきよう細心の注意を払った。その一環として、毛沢東は息子の毛岸英を農村へ送り出した。岸英には、この機会に農民の仕事や中国の習慣を学ぶとよい、と伝えたが、本当の理由は、英語を話す息子がアメリカ人の注目を引く存在になっていることに苛立っていたからだった。岸英がソ連から戻ってまもないころ、毛沢東は息子をAP通信の特派員ジョン・ロデリックに紹介した。ロデリックは土曜の夜に催されたダンスパーティーの会場の片隅で毛岸英にインタビューした。それを知った毛沢東は激怒した。父は「インタビュー記事を最後まで読むことさえしなかった」「父は記事をくしやくしやに丸め、わたしに厳しい口調で言った……外国人記者のインタビューにあんなに無防備に応じるとはどういうことだ! 指示も受けずに!」と、毛岸英が回想している。毛岸英はスターリンのソ連で厳しく訓練されてきたはずだったが、それでも毛沢東陣営の「超」がつくほど堅固な紀律レペルから見れば甘かったのである。毛岸英が表舞台から追放される一方で、英語を話せない江青はいよいよ「ファースト・レディ」としてのデビューを飾ろうとしていた。

マーシャルがトルーマン大統領に提出した報告書は、幻想と錯覚に満ちていた。マーシャルは、「毛沢東と長時間の会談をおこない、当方はきわめて率直に発言いたしました。毛沢束はいっさい敵意を見せず、最大限の協力を約束しました--と書いている。東北における共産党勢力について、マーシャルは「まとまりのない集団に毛が生えた程度のもの」と説明し、さらに驚くべきことに、「延安司令部は「東北の」指揮官だちとほとんど連絡が取れていない」と報告している。このときすでに、ソ連軍はDC3型機で中国共産党幹部を東北へ空輸しており、延安は東北に展開する何万という共産党勢力と日々連絡を取り合っていたのである。

マーシャルが延安に滞在しているあいだにも、毛沢東はソ連軍参謀本部情報総局(GRU)連絡員オルロフ医師を呼んで、会談内容について報告している。

マーシャルは毛沢東にとてつもなく大きな貢献をしたことになる。一九四六年晩春、毛沢東が壁際まで追いつめられて絶体絶命の状況にあったときに、マーシャルは蒋介石に対して強力な--そして決定的な--圧力をかけ、東北へ敗走する共産党勢力に対する討伐作戦を中止させた。すなわち、共産党軍をこれ以上深追いするならばアメリカは蒋介石を援助しない、国民党部隊を東北へ移送する作戦も中止する、と申し渡したのである。五月三一日、マーシャルは自分個人の名誉を引き合いに出して、蒋介石に次のような書状を送った。

 政府軍が東北進撃を継続している現下の状況では、わたくしの立場に重大な疑義が生じる局面に立ち至っていることを、くりかえし……申し上げ……ざるをえません。従って、政府軍による進撃、攻撃、追撃を終了させる命令をただちに出されるよう、重ねて要請するものであります……

蒋介石はこの要求に折れて、一五日間の停戦に同意した。まさに、毛沢東が東北における最後の砦ハルピンを放棄してゲリラ戦に転ずる覚悟を決めたタイミングであった。事実、毛沢東は六月三日付で戦術変更の命令を出したところだった。が、停戦の知らせを聞いた毛沢東は、六月五日付で、「持ちこたえよ……とくにハルピンは死守せよ」と、新たな命令を出した。流れがここで変わった。

おそらく、マーシャルの一方的な命令は、内戦の結果を左右した最も重要な決定だったと言えるだろう。この時期を経験した共産党軍関係者は、林彪から古参兵に至るまで一様に、この休戦は蒋介石の犯した決定的な失策だった、と非公式に認めている。あのとき侵攻を続けていれば、蒋介石は少なくとも共産党勢力がソ連国境沿いに大規模で強固な根拠地を築くのを阻止できた可能性が大きい。そうなれば、根拠地とソ連が鉄道で結ばれることもなく、その鉄道を使って大量の重砲が運び込まれる子こもなかったはずだ。さらに、蒋介石が合意した二週間の停戦を足がかりに、マーシャルは停戦を四ヵ月近くに引き延ばし、東北全域に拡大し、さらに東北の北部を共産党勢力に占守させることまで提案した。蒋介石が強硬な態度に出れば、マーシャルと正面衝突することは目に見えていた。この時期、マーシャルの「態度は尋常でない猛々しさだった」と、蒋介石は回想している。

蒋介石には、マーシャルだけでなくトルーマン大統領からも圧力がかかっていた。七月半ば、二人の著名な反蒋知識人が国民党支配地域で射殺された。同月のアメリカの世論調査では、蒋介石に対する援助に賛成する意見はわずか一三パーセントで、五〇パーセントが「干渉すべきでない」という意見だった。八月一〇日、トルーマンは蒋介石に非常に厳しい文面の書簡を送り、二人の暗殺事件に言及して、アメリカ国民は中国情勢を「非常に強い反感をもって」見ている、と伝えた。そして、「平和的解決に向けて」進歩が図られなければアメリカの立場を「見直す」必要もあるかもしれない、と、蒋介石を脅した。
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