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メディアと民主主義を守れ 駅馬車の最後

『なぜネット社会ほど権力の暴走を招くのか』より

 おそらく、紙媒体の危機は避けられないだろう。私たちはそれを嘆くこともできる。あるいは危機から目をそらし、過ぎ去るのを待ち、そのまま人生を終えることもできる。しかし、未来を向いてリスクを取り、「いやそうはさせない、メディアは救うことができるし、救わなければならない」と叫ぶこともできるのだ。

 メディアの未来はどこにあるだろう? ヴァイス・メディア? それともニューヨーク・タイムズ紙? プロパブリカ? それともワシントンポスト紙? アゴラヴォックス? それとも夕・フィガロ紙? メディアパート? それともリベラシオン紙?

 経済学者ジョゼフ・シューンペーターによれば、鉄道を建設したのは駅馬車の所有者ではなかった。このことは、従来の経済主体に明日の改革を期待してはいけないということを意味している。しかし、実にバラエティに富む斬新な形での新規参入者が次々と登場するものの、一方で、近代化の道を歩み始め、デジタル化の波をうまく乗り越え、メディアの未来に積極的にかかわろうとしている新聞もまた存在する。

 問題は、どの新聞が生き残り、どの新聞がなくなるかを知ることではない。いくつかの新聞は姿を消すだろう。新聞が廃刊するごとに心が痛み、挫折感を抱いたとしても、それに慣れなくてはならない。しかし、圭た別の新聞が誕生するだろう。そのことを歓迎しなければならない。たとえ、メディア産業においては現実に共存できる企業体の数には限りがあり、広告が減り、競争が激化しているとしても、重要なのはどのような形であれ、ひとりでも多くの人がアクセスできるような、質の高い自由で独立した情報を生みだしつづけることである。媒体は何でもいいのだ。

 本書で提案した解決策、「非営利のメディア会社」という新しい形態は過激に見えるかもしれない。だが、オール・オア・ナッシングと言っているわけではない。新聞・雑誌への助成制度を徹底的に単純化すること、寄付基金をメディアも利用できるようにすること、メディアがより容易に財団の形態をとれるようにすること、こうした措置はどれもすでにひとつの進歩である。

 なぜなら、政治や一般情報を扱うメディアは、大学、映画館、あるいは21世紀の知識経済をつくりだす、もしくはこれからつくりだすであろう産業全体と同じ資格で公共財を提供しているという事実を認識しなければならないからだ。また、まさにその資格において、メディアは国家から特別な扱いを受けるべきなのであ今こそ変革のとき

 「終わり、終わりだ、終わるだろう。まもなく終わるだろうか」(訳注:フランスの劇作家サミュエル・ペケットの著作『勝負の終わ力』の冒頭のセリフ)。ことの重大さの前で国は身動きがとれずにいる。メディアにかんして何か手を打てば、国家の干渉主義あるいは国家による管理だと糾弾されるおそれがあるため、政府は及び腰である。それでもなお、フランスでは、新聞・雑誌を援助するための新しい基金が創設され、その給付金は既存の補助金の大半と違い、ほとんど法律に規制されていない。

 また、さまざまな国で、メディアにも少しずつ非営利の形が与えられ、そのためにメセナ活動に対する優遇措置も認められるようになってきた。だが、そういりた国々でも、多くの条件を課すことによって、この形態を得るための道を複雑にしすぎている。それは、公共財という考え方を最後まで推し進めていないからである。選挙ごとに新聞が廃刊し、投票率が下がり、極右や極左が票を仲ばし、政治的議論が硬直化するのも無理はない。

 単純化は絶対不可欠なステップである。さらに先へ行くには、柔軟な新しい形態を発展させることが必要なのだ。その形態は、権力と資金調達の分割と刷新をこれまでとは違うやり方で可能にするような、財団と株式会社の中間のメディア会社である。現状においても、このロジックによって危機的状況から脱することができるという例を見つけるのは難しくない。

 フランスでは、このような形態をとってさえいれば、たとえばニース・マタン紙(会社更生法の適用中)を従業員の手に取り戻せただろう。コルス・マタン紙も手放す必要がなく、とりわけ、2014年11月の決定にしたがって従業員が新聞の運営を譲渡する必要もなかった。リペラシオン紙も、メディア会社の形態をとっていれば、オーナーのカルローカラッチオーロの相続問題に端を発した最近の危機を回避することができただろう。メディア会社であれば資本の拠出金を回収できないので、相続人たちが自分たちの出資金を取り戻そうとするといった事態にはならなかっただろう。情報の質にはほとんど関心のない外部株主が経営権を握ったり、ついにはあらゆる権力を握ることで制度全体を弱体化させたりすることもなかっただろう。

 ヌーヴェル・オプセルヴァトゥール誌でも最近同じ問題が起こった。もしも、メディア会社という形態を利用しながら、自分の死後も週刊誌はずっと続いていくことがわかっていたら、クロード・ペルドリエル会長はこの週刊誌を二束三文で売り払うことはなかったのだ。

 最後に、メディアパートも、寄付基金という形態を手に入れようとする代わりに、もっと民主的なこの新しい形態をとっていれば、得することばかりだっただろう。そうすれば、メディアパートは、資本の5分の1を所有する投資ファンドの撤退に対して少しずつ手を打つことができ、将来の独立性を守ることができたはずである。

 とりわけメディア会社はメディアのもっと先を行っている。メディア会社が示しているのは、財団と株式会社の中間モデルを考える必要性だ。それは、資本主義において、より民主的なやり方で権力を分配する方法を見直すことでもある。また、超共同組合的な幻想(出資金に関係なくぐI人1票乙と超資本主義的な幻想(大株主が制限のない絶対権力を握る)という2つの両極に存在する過ちの中間点を見つけることである。そして、権力と人員の刷新を可能にすることでもある。

 メディアは十分準備ができている。メディアの困難な状況から目を背けてはならない以上、代案を選ぶ以外に方法はない。今日ではクラウドファンディングの発達が示しているように、特にインターネットのような新しいテクノロジーによって、資本主義の民主化が進んだ。しかし、寄付だけにとどめてはいけない。一人一人が議決権と政治的権力を持つべきなのだ。それは、企業にもっと投資をしようという意欲を促すためである。そしてまた、資本主義、クラウドファンディング、民主主義といったわれわれ自身の運命を、自分たちの手に取九戻すためでもある。
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