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超資本主義から超民主主義へ

『物欲なき世界』より 資本主義の先にある幸福へ ⇒ ジャンク・アタリは面白い

資本主義と民主主義の両立を破壊するもの

 しかし、その対立するふたつの考えの奇跡的な両立が今、崩れようとしている。そのひとつの徴候が、先進国病となった失業率の高さ、中でも若者の失業率の高さだ。もうひとつは先進国内における格差の拡大だ。

 最初の失業率の問題は、特に既に成熟した先進国であるヨーロッパ諸国において危機的状況に達している。ギリシャ、スペインの失業率は二五%に達し、イギリスは七・五%、EUの優等生と呼ばれるドイツで五・三%である。中でも若年層の失業率の高さが顕著で、ギリシャでは五七・三%、イタリアでは三九・五%にも達している。

 ふたつ目の格差の問題は、まさに前述のピケティの本の主要テーマとなっているもの。先進国は、全体としての経済成長がないため、国内において富める者と富めない者の格差を拡大させることで、資本家が利潤を出そうとしているということだ。ピケティの調査によると、二〇一〇年のアメリカでは、国富において上位一〇%の富裕層は国民所得の七〇%を所有している。日本においても上位一〇%の富裕層の所得が全体に占める割合は四〇%に達し、彼は「日本の格差は欧州の多くの国より深刻です」と「東京新聞」のインタビューで語っている。

 このような失業の増加と格差の拡大によって、民主主義を支える中心的母体である中産階級が急速にやせ細っている。アメリカの例では、中産階級(アメリカ国民全体を年収別に超富裕層、富裕層、中間層、貧困層、超貧困層の五分割した中の真ん中の層)の年収が二〇〇一年から二〇一一年にかけて六・八%減少。日本でも世帯平均年収が一九九四年から二〇一一年にかけて一二七万円減少、貧困世帯割合も五~一〇%増えている。健全な民主主義社会を維持するには、中産階級が大きな比重を占め、富裕層と貧困層に二極化しない社会であることが重要とよく語られるが、急速に中産階級の層が減り、二極化が進んでいることが浮き彫りになっている。

巨大企業に対抗する世界国家の構想

 これらの事例が示すように、もはや多国籍企業はひとつの国家の課税システムでは把握しきれない規模に達している。では、それら国家の課税から逃げ続ける多国籍企業や資本家から、いかに税金を徴収し、社会全体に再分配するか。

 ピケティは世界規模の資本課税が必要だと唱え、水野氏は巨大資本に対抗するための世界国家の必要性を説く。「グローバル資本主義の暴走にブレーキをかけるとしたら、それは世界国家のようなものを想定せざるをえません。金融機関をはじめとした企業があまりにも巨大であるのに対して、現在の国民国家はあまりにも無力です。世界国家、世界政府というものが想定しにくい以上、少なくともG20が連帯して、巨大企業に対抗する必要があります。具体的には法人税の引き下げ競争に歯止めをかけたり、国際的な金融取引に課税するトービン税のような仕組みを導入したりする。そこで徴収した税金は、食料危機や環境危機が起きている地域に還元することで、国境を超えた分配機能を持たせるようにするのがよいと思います」。

超資本主義から超民主主義へ

 彼らの説にきわめて近い考えを以前から提唱しているひとりに、フランスの経済学者で歴史学者であるジャック・アタリがいる。サルコジ元フランス大統領のブレーンなどを務めるョーロッパ最大の知性とも称される彼の著作『21世紀の歴史』(作品社 二○○八年)において、彼は多国籍企業が国家を超えた権力を持つ時代の到来を予見する。アタリはそれを「超資本主義」と呼ぶ。学校も警察も軍隊も一部、または全面的に民営化され、国家が関与する領域が限りなく小さくなる世界が来るという。まるでSF小説のような世界観のように思えるが、学校教育の中心が私立となり、民間警備会社や民間軍事会社が表舞台に立っている今のアメリカを見ていると、あながち空想の物語でもないように感じる。

 その超資本主義状態で、すべてが市場化され、政治も治安も軍事もお金で買える世界が到来する。しかし、それに対抗する勢力も拡大し、その勢力も国境を超えたネットワークを構築し、世界的な人権の擁護と再分配を目指して積極的な活動を展開し、最後に世界政府を樹立し、超資本主義に歯止めをかけるだろうとアタリは続ける。これが彼の言う「超民主主義」。この予見も、アメリカのみならず、世界中で続々と誕生する環境系NGOやNPO、多国籍企業の活動をウォッチするさまざまな監視団体の広がり、京都議定書で注目を集めたような超国家的な環境規制などの活動を見ていると、これも既に起きている事例でもある。

 未来は、利益と人権の激しいせめぎあいの中で、着地点を見つけるのだろう。それがハードランディングなのかソフトランディングなのかはわからない。ただ言えるのは、その着地点に先に到達した国家、都市、企業や社会が、二一値世紀においてアドバンテージを持った存在になるはずだ。水野氏も断言する。「近代資本主義の土俵の上で、覇権交替があるとは考えられません。次の覇権は、資本主義とは異なるシステムを構築した国が握ることになります」。

果たして自分は何か欲しいのか?

 さまざまな予見を紹介してきたが、資本主義はそう簡単に終息するとは思えない。ただ、その臨界点はかなり視野に入ってきたといえるだろう。だが既存の経済システムの維持を、そして富のさらなる集中化を望む者たちは死に物狂いの延命策を図るだろうから、その延命行為がさらなる社会の軋轢を生むはずだ。日本という国の累積赤字が危険水域に達しているように、資本主義の過剰な格差を生み出す運動も同じように危険水域に達しており、今の経済システムが早晩機能しなくなるのは、もはや自明の理だ。だが次なるシステムヘの準備をしないと、すみやかに移行する前に人々も環境もより荒んでしまう。(ーマン・デイリーも『エコロジー経済学』の中でこう語っている。「許されないのは、現状維持では何も解決しないことが明らかなときに、座して何もしないことである」。

 現在進行中の、そしてさらに顕在化されるであろう「物欲なき世界」は、貧しいわけでも愚かなわけでもない。むしろ今まで以上に本質的な豊かさや知性を感じられる世界になれるはずだ。ただ、「何をもって幸せとするか」を巡る価値観の対立は今まで以上に激しくなるだろう。これまでの見える価値=経済的価値を信奉する守旧派と、見えない価値=非経済的価値を提唱する新興勢力とのせめぎ合いはあらゆる局面で顕在化してくるに違いない。

 そのような時代の到来の中で、多くの人々はより自問するだろう、「果たして自分は何か欲しいんだろう?」と。それに対する解答を、経済の言葉ではなく語れる人が、来るべき「物欲なき世界」を謳歌できるはずだ。
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