未唯への手紙
未唯への手紙
ロンドンで育った共産主義
『驚きの英国史』より
イギリスには亡命者を受け入れてきた奇妙な歴史がある。ときには、彼らを受け入れさせたリベラルな精神とも相容れない過激な思想の持ち主をもてなしたこともある。
最も有名な例はカール・マルクスかもしれない。数百万数千万の命を奪うことを正当化するのに使われたイデオロギーをつくり出した人物だ(彼自身はそんなことになるとは思っていなかったし、もちろん実際に手を下したわけでもないのだが)。マルクスはフランスとベルギーから追放されたのち、一八四九年にロンドンに移住し、残りの人生をそこで過ごした。
マルクスが共産主義の主要文献である『共産党宣言』と『資本論』の調査・執筆を行ったのはロンドンだった。大英図書館の読書室である。マルクスの墓は、ロンドンの有名なハイゲート墓地の目玉かもしれない。なんともみごとな像で、イギリス共産党(影響力はゼロに等しい)が一九五四年に寄贈した。
マルクスの友人であり、スポンサーであり、協力者だったフリードリヒ・エングルスもイギリスに住んでいた。若いときにはマンチェスターに、プロイセンを追放されたあとにはロンドンに住んだ。
一般的に言って現代では、ドイツやフランス、イタリアといった大陸ヨーロッパの国に過激思想の強い伝統がある。政府側と革命勢力側の両方にである。そのため国家は革命勢力を非常に恐れ、彼らを追跡して弾圧しようとした。イギリスでは政府側にも反政府側にも、その伝統がなかった。だからイギリスにやって来た外国の過激思想家たちは脅威とはみなされず、政府も弾圧しようと考えなかった。
マルクスの足跡をたどって、マルクス主義の信奉者たちがイギリスヘやって来た。一九〇二年にはウラジーミル・レーニンも大英図書館への入館を認められ、そこで膨大な読書をしたといわれる。レーニンは図書館から一キロ半ほど離れたクラーケンウェル・グリーンと呼ばれる小さくて気持ちのいい広場に事務所を構え、「イスクラ(火花)」というプロパガンダ新聞を編集してロシアの反体制派にひそかに送っていた(最初のころレーニンはイギリス料理があまり好きではなかったが、二階に屋根のないオープントップ型のバスやパブやフィッシュ&チップスは好きになったようだ)。
一九〇二年にはレオン・トロツキーが流刑先のシベリアから逃亡し、ロンドンにいたレーニンと合流し、「イスクラ」の編集部員に加わった。翌一九〇三年、ロシア社会民主労働党(すなわちレーニンとトロツキーの共産党だ)は第二回党大会をロンドンで終えた(大会が幕を開けたのはブリュッセルだったが、ペルギー政府に追い出された)。この党大会にはヨシフ・スターリンも参加していた。
伝えられるところでは、レーニンはクラーケンウェル・グリーンにあるクラウン・タバーンというパブでスターリンと会い、話をしていた。やがて口シアを内戦と恐怖と、国家の過失による飢饉に陥れる二人の男が、感じのいい小さなパブでビールをちびちび飲んでいる場面を想像すると、面白くて不条理な感じさえする。このパブは教会の隣にあり、金融街にも近く、宝石店街も目と鼻の先にある。二人が「あれもこれもみんな消えるべきだ」と話していたのではないかと想像すると、なんとも不思議だ。
ロシアの共産主義者たちの生涯をつづる伝記作家は、トロツキーとレーニンは後年になってもコスモポリタンな感覚をいちおう失わず、人道主義もわずかにそなえ、少なくともリベラルな民主主義も理解していたが、ロシアを離れたことがほとんどないスターリンにはそういう感覚がなかった……と書くことがあるだろう。実際のところ、この三人が自国民に対して働いた暴力の程度や他国の政府に示した姿勢には、ほとんど違いがない。三人とも非人間的なイデオロギーにからめとられた残虐な男たちだった。リベラルな民主主義に触れたとしても、彼らの根本が変わることはなかった。
イギリスではレーニンが一九一七年にロシアで権力を握る前に、労働者階級の利益になる本物の改革が行われていた。しかし警察国家のシステムに支えられた独裁制だけがめざすべき道だというレーニンの信念は、決して揺らぐことがなかった。
イギリスには亡命者を受け入れてきた奇妙な歴史がある。ときには、彼らを受け入れさせたリベラルな精神とも相容れない過激な思想の持ち主をもてなしたこともある。
最も有名な例はカール・マルクスかもしれない。数百万数千万の命を奪うことを正当化するのに使われたイデオロギーをつくり出した人物だ(彼自身はそんなことになるとは思っていなかったし、もちろん実際に手を下したわけでもないのだが)。マルクスはフランスとベルギーから追放されたのち、一八四九年にロンドンに移住し、残りの人生をそこで過ごした。
マルクスが共産主義の主要文献である『共産党宣言』と『資本論』の調査・執筆を行ったのはロンドンだった。大英図書館の読書室である。マルクスの墓は、ロンドンの有名なハイゲート墓地の目玉かもしれない。なんともみごとな像で、イギリス共産党(影響力はゼロに等しい)が一九五四年に寄贈した。
マルクスの友人であり、スポンサーであり、協力者だったフリードリヒ・エングルスもイギリスに住んでいた。若いときにはマンチェスターに、プロイセンを追放されたあとにはロンドンに住んだ。
一般的に言って現代では、ドイツやフランス、イタリアといった大陸ヨーロッパの国に過激思想の強い伝統がある。政府側と革命勢力側の両方にである。そのため国家は革命勢力を非常に恐れ、彼らを追跡して弾圧しようとした。イギリスでは政府側にも反政府側にも、その伝統がなかった。だからイギリスにやって来た外国の過激思想家たちは脅威とはみなされず、政府も弾圧しようと考えなかった。
マルクスの足跡をたどって、マルクス主義の信奉者たちがイギリスヘやって来た。一九〇二年にはウラジーミル・レーニンも大英図書館への入館を認められ、そこで膨大な読書をしたといわれる。レーニンは図書館から一キロ半ほど離れたクラーケンウェル・グリーンと呼ばれる小さくて気持ちのいい広場に事務所を構え、「イスクラ(火花)」というプロパガンダ新聞を編集してロシアの反体制派にひそかに送っていた(最初のころレーニンはイギリス料理があまり好きではなかったが、二階に屋根のないオープントップ型のバスやパブやフィッシュ&チップスは好きになったようだ)。
一九〇二年にはレオン・トロツキーが流刑先のシベリアから逃亡し、ロンドンにいたレーニンと合流し、「イスクラ」の編集部員に加わった。翌一九〇三年、ロシア社会民主労働党(すなわちレーニンとトロツキーの共産党だ)は第二回党大会をロンドンで終えた(大会が幕を開けたのはブリュッセルだったが、ペルギー政府に追い出された)。この党大会にはヨシフ・スターリンも参加していた。
伝えられるところでは、レーニンはクラーケンウェル・グリーンにあるクラウン・タバーンというパブでスターリンと会い、話をしていた。やがて口シアを内戦と恐怖と、国家の過失による飢饉に陥れる二人の男が、感じのいい小さなパブでビールをちびちび飲んでいる場面を想像すると、面白くて不条理な感じさえする。このパブは教会の隣にあり、金融街にも近く、宝石店街も目と鼻の先にある。二人が「あれもこれもみんな消えるべきだ」と話していたのではないかと想像すると、なんとも不思議だ。
ロシアの共産主義者たちの生涯をつづる伝記作家は、トロツキーとレーニンは後年になってもコスモポリタンな感覚をいちおう失わず、人道主義もわずかにそなえ、少なくともリベラルな民主主義も理解していたが、ロシアを離れたことがほとんどないスターリンにはそういう感覚がなかった……と書くことがあるだろう。実際のところ、この三人が自国民に対して働いた暴力の程度や他国の政府に示した姿勢には、ほとんど違いがない。三人とも非人間的なイデオロギーにからめとられた残虐な男たちだった。リベラルな民主主義に触れたとしても、彼らの根本が変わることはなかった。
イギリスではレーニンが一九一七年にロシアで権力を握る前に、労働者階級の利益になる本物の改革が行われていた。しかし警察国家のシステムに支えられた独裁制だけがめざすべき道だというレーニンの信念は、決して揺らぐことがなかった。
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