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一九〇二年、再び世界とつき合いはじめた年

『驚きの英国史』より

「孤立」というのは、ふつう外交の分野ではいいことではない。だがイギリスには一九世紀後半に「栄光ある孤立」と呼ばれる時代があった。

ある見方によれば、イギリスは非常に強大だったため他国と強固な同盟関係を結ばずに超然としていられ、ヨーロッパの厄介な問題に「巻き込まれる」ことを避けられた。この幸福で平和な状況は数十年続いたが、ドイツの台頭によってヨーロッパの力の均衡が脅かされたことで、イギリスは首を突っ込まざるをえなくなった。

「栄光ある孤立」という言葉が広まったのは一八九六年、イギリスが超然としていた時代のなかではかなりあとのほうだった。言葉のもとになったのはカナダのある政治家が議会で行った発言で、それがやがてイギリスで言い換えられて使われるようになった。

最近では一部の歴史家がべつの見方をしている。「栄光ある孤立」は意図された政策ではなく、どちらかと言えば当時の状況からたまたま生まれたものであり、一部の政治家は危険で不幸な状況だと考えていたこともあったという。

いずれにせよ、イギリスの孤立は一九〇二年、意外な相手と同盟を組んだことで終わりを告げる。その相手とは日本。それまで国際社会では重要な国とみられておらず、強力な同盟国がなかったためにイギリスよりもはるかに不安定な地位にあった。

もし日英同盟が、イギリスが国際政治の「水につま先をつけた」出来事だとするなら、それからすぐにイギリスは水に飛び込んだ。一九〇四年には英仏協商を締結し、一九〇七年には英露協商を結んだ。わずか数年のうちにイギリスは、第一次世界大戦をともに戦うことになる国々と同盟を結んでいた。

日本への影響も大きかった。日本は一八九五年の三国干渉によって、日清戦争後に割譲された領土を返還するという屈辱を味わっていた。イギリスと同盟関係を結んだことで、日本の意気は上がり、国際的な地位も高まった。やがて日本は三国干渉の中心だったロシアを破って復讐を果たす。

日本とイギリスの協力関係の例のひとつが戦艦三笠だ。イングランド北西部にあるバロー・イン・ファーネス造船所で建造され、日英同盟が結ばれた年に日本に引き渡された。一九〇五年に東郷平八郎元帥(イギリスで操船術を学んだ)が対馬沖海戦(日本海海戦)でロシアの艦隊を破り、事実上ロシアに講和を求めさせるまで追い込んだとき、三笠は東郷の旗艦だった。

三笠は一九二一年に廃艦が決まる。そして、日英関係は悪化する。だが三笠は今も生き残っており、横須賀で博物館になっている。それは戦艦だったときよりも、それぞれの理由で孤立を脱する必要があった二国の同盟をよく表す存在だ。
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