未唯への手紙

未唯への手紙

ヨーロッパ音楽都市案内--バイエルンの音楽

2017年12月09日 | 7.生活
『クラシック音楽とは何か』より ヨーロッパ音楽都市案内--バイエルンの音楽

若い頃に留学していたという身聶厦も多少あるかもしれないが、バイエルンの州都ミュンヘンはコンサートライフを満喫するという意味で、おそらくヨーロッパ中で最高の都市である。ドイツ屈指の大都会だから、ロンドンやパリやベルリンに劣らず、次から次へとスターたちが来演する。ミュンヘンはメジャー音楽家のシーズンのツアーリストに必ず組み込まれている街のはずだ。だが音楽都市としてのミュンヘンの素晴らしさはそれだけではない。単にスターの来演が多いというだけではなく、地元音楽家たちのプレゼンスも強烈なのだ。バイエルン放送交響楽団とミュンヘン・フィルという、超一流のオーケストラを二つも持っているうえ、バイエルン国立歌劇場というヨーロッパ屈指のオベラ劇場まで、ここにはある。

そもそもバイエルンには伝統的に、プロイセン・ベルリンに対する強烈な対抗意識がある。サッカーチームのバイエルンーミュンヘンなどを見ればわかるように、何がなんでも「おらが街」がドイッ一にならないと気が済まないようなところがあるのだ。かつてミュンヘン・フィルの音楽監督として長年君臨し、それを掛け値なしにベルリン・フィルやウィーン・フィルをも凌ぐようなオーケストラに育て上げたカリスマ指揮者、セルジュ・チェリビダッケは、もともとオーケストラと衝突しベルリン・フィルを追い出された人であった。またカルロス・クライバーは同世代で最高のカリスマ指揮者にしてキャンセル魔として名高かったが、彼はミュンヘンの歌劇場にはたびたび登場する一方、ベルリンではまったく聴くことはできなかった。これらはすべて、プロイセンに対するバイエルンのライバル意識から説明できるはずである。

バイエルンの音楽には強烈なローカルカラーがある。単にレベルの高いオーケストラやオペラが揃っているというだけではない。まさにこれが、音楽都市としてのミュンヘンを私かこよなく愛する、最大の理由である。たとえて言えばそれは、バイエルン州の旗にもなっている、白と水色のイメージだろうか。この白と水色の組み合わせは、この街に本拠地を置くBMWのエンブレム、さらにはバイエルン・ミュンヘンのチームの紋章にも使われている、ミュンヘンのシンボルカラーである。

冬になると鈍い鉛色の低い雲で覆われる北ドイツと対照的に、バイエルンの空はいつも高くて青い。よく晴れた日には遠くに真っ白なアルプスの山並みも見える。そしてイタリア・バロックを基調としているミュンヘンの建築も、あくまで白が基調だ。抜けるような青い空に響き渡る、澄んだ高らかなメロディー--これはバイエルンのあらゆる種類の音楽に共通している。ビアホールでよく生演奏をやっているアルプス民謡のアコーディオンも、ミュンヘン・フィルやバイエルン放送交響楽団のサウンドも、そしてミュンヘンが生んだ最大の作曲家リヒャルト・シュトラウスの音楽も、すべてそうである。これこそが、オルガンのようにどっしりした低音を土台とする北ドイツの音楽とも、熟した果実のような甘味を特徴とするウィーンの音楽とも決定的に違う、バイエルンのそれの最大の持ち味である。バイエルンの音楽は高らかに、そして爽快に響き渡るのである。

プロイセンやザクセンに対するバイエルンの歴史的対抗心を反映しているのだろう、北ドイツの大作曲家の多くは、意外とミュンヘンに縁がない。バッハやヘンデルはここに立ち寄ったこともないはずだし、ウェーバーやシューマンやメンデルスゾーンにしても、もちろん来訪したことくらいはあるだろうが、彼らの創作においてこの街はほとんどなんの役割も果たさなかった。だが一人だけ例外がある。それはワーグナーである。

ザクセン州の中心都市ライプツィヒに生まれた彼は、生粋の北方ドイツ人である。しかしワーグナーはドレスデンで起きた革命に参加して指名手配となってしまう。チューリヒで亡命生活を送っていた彼に救いの手を差し伸ばしたのが、かの伝説のバイエルン王、ルートヴィヒニ世だった。かねてよりワーグナーの崇拝者だった彼は、即位と同時に、破格の厚遇とともにワーグナーをミュンヘンの自分の宮廷に招いた。

大芸術家の生涯にはおとぎ話のような幸運が似つかわしい。チューリヒ亡命中のワーグナーは、上演に四夜かかる楽劇《ニーベルングの指環》の作曲にとりかかっていた。作曲で収入を得たいならもう少し一般受けするオペラでも書けばいいものを、当時の常識からすればおよそ狂気の沙汰のような巨大舞台作品を、なんの上演の当てもないままに、亡命暮らしを送りながら構想していたのである。ところが生活の一切合財を丸抱えしたうえに、その上演を実現してやろうという王侯が現れた。それがルートヴィヒニ世である。《ニーベルングの指環》四部作のうち序夜《ラインの黄金》、第一夜《ワルキューレ》、そして畢生の大作《トリスタンとイゾルデ》および《ニュルンベルクの名歌手》が初演されたミュンヘンは、彼が音楽祭を設立したバイロイトと並ぶワーグナー楽劇の聖地である。

ルートヴィヒニ世とワーグナーといえば、この夢想王がミュンヘン近郊に建てさせた城の数々を忘れることはできない。湖の上にヴェルサイユ宮殿を模して建てられたヘレンキームゼー城、大トリアノン宮殿を模したリンダーホーフ城、そして何よりノイシュヴァンシュタイン城。一九世紀後半といえば、もはや近代重工業の時代である。しかるにルートヴィヒは世間に対する強い忌避感のある人で、ワーグナーの楽劇《ローエングリン》の白鳥伝説による幻想的なモティーフの数々でノイシュヴァンシュタイン城を埋め尽くさせた。今流に言えばアニメの世界にひきこもったのである。

男色の噂もあったルートヴィヒは、ワーグナーに入れあげた挙げ句に国の財政を傾け、やがて側近によって強制的に退位させられて、シュタルンベルク湖で謎の入水自殺を遂げた。静かな森の中にあるこの湖は、水鳥がいつも群がり、周囲には素敵なレストランがいくつもあって、ミュンヘンに用がある時は必ず立ち寄る私のお気に入りスポットなのだが、数年前の秋にこんなことがあった。

行ったのはまだ一〇月末だったのだけれども、なぜか突然気温が氷点下まで下がって、湖畔に着いた途端に凍てつくような吹雪に襲われたのである。こんな悪天候はミュンヘンでは珍しい。オフシーズンだから逃げ込むようなカフェもない。全部閉まっているのだ。油断していて厚着もしておらず、誇張ではなくだんだん気が遠くなってくる。雪嵐で白くイルミネーションされた黒々とした雪雲の合間に、踊っている妖精、ワーグナーの《ニーベルングの指環》に出てくるワルキューレ--天馬に乗って戦場を駆け、戦死した勇者を天上の宮殿ワルハラヘと連れていく北欧神話の天女--が飛び回っているのが見えた気がする。そして風の唸り声がいつの間にかワーグナーの音楽に変わっている。まさしく幻聴である。

ワーグナーの神話楽劇が想定しているのは、バイエルンというよりテューリングンあたりの中世伝説で彩られた森なのかもしれない。だがまさにルートヴィヒが入水自殺したこのシュタルンベルク湖でなかったら、幻聴幻覚の類いがこんなにも生々しかったかどうか。音楽体験とは地の霊のようなものとの交感なのだと、この時強く思った。

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