未唯への手紙
未唯への手紙
政府の権力を不必要に拡大すると弊害
ミル『自由論』より
第三は、これこそ政府の干渉を制限する理由として最有力のものである。それは、政府の権力を不必要に拡大すると弊害も深刻になることだ。
政府の機能をひとつ増やすごとに、国民の希望や不安に与える影響もさらに広がり、国民のうちで活動力と野心をそなえた者たちはだんだん政府や、あるいは次の政権を狙う政党の手下になっていく。
もし、道路、鉄道、銀行、保険会社、大企業、大学、慈善団体が、すべて政府の機関と化したらどうなる。さらにもし、地方自治体や地方委員会とその権限がすべて中央政府に吸収されたらどうなる。もし、これらの組織の従業員がすべて政府に雇われ、政府から給料をもらい、立身出世もすべて政府の計らい次第になったらどうなる。そうなったら、出版の自由があろうと、議会制度が民主的であろうと、またイギリスであろうと、どの国であろうと、自由は名ばかりのものとなる。そして、行政機構が効率的で科学的につくられていればいるほどーその機構を動かす優秀な労働力と頭脳を獲得する段取りが巧妙であればあるほどー弊害は大きくなるだろう。
イギリスでは、最近、国家公務員の全員を競争試験で選び、できるかぎり聡明で高学歴の人間を採用すべきだとの提案がなされた。この提案は、賛成と反対どちらの側からも、たくさんの発言や論評を引き出した。
提案に反対する側がもっとも強く主張している点は、終身雇用の国家公務員という職業には、すぐれた才能の持ち主をひきつけるほどの、めざましい昇級や昇進の見込みがないことである。優秀な人間は、専門職か、民間会社や公共団体のしごとに、もっと魅力的なキャリアを見出すことができる、というのである。
こういう主張なら、提案の大きな難点にたいする回答として、提案に賛成する側から出てもおかしくない。それを提案に反対する側が出すのは、奇妙きわまりない。反対意見として出されているものは、まさに提案されている制度の安全弁だからである。
じっさい、もし万が一、提案のせいで、国内の優秀な人間全員が国家公務員になりたがりかねないのであれば、そういう提案は不安を招いて当然だろう。社会のしごとのうち、組織的な連携と総合的な配慮を必要とする部分はすべて政府が管理することになったら、また、政府の各機関に最高に有能な人間ばかりが集まったら、純然たる学者を除き、教養のある人間、実践的知識をそなえた人間は全員、大きな官僚組織に集められることになる。そして、それ以外のひとびとは、万事をこの官僚組織に委ねるしかなくなるだろう。
一般大衆は自分が何をしたらいいかまで、すべてお役所からの指示と指導を待つようになる。能力と野心のある人間は、官僚組織にのみ個人的な立身出世の道を求めるようになる。こうした官僚の一員となるのを認められること、そして、その一員となったら、そのなかで昇進すること、そのことだけが唯一の野心の対象となるであろう。
このような体制の下では、官僚の仕事ぶりを批判したり、チェックすることができる人間は外部に存在しない。外部の大衆は、実務経験がないからである。また、専制においては偶然に、民主制においては自然の経緯によって、改革の意欲をもった指導者が頂点に立ったとしても、官僚組織の利益に反するような改革はけっして実行できない。
これがロシア帝国のあわれな現状である。ロシアのようすをじっくり観察してきたひとびとの話でそれがわかる。ロシアでは、皇帝でさえ官僚組織にたいしては無力なのだ。皇帝はどの官僚でもシペリアに追放することができるけれども、官僚なしでは、あるいは官僚たちの意に反しては、国を統治することができない。官僚たちは、皇帝が命令をくだしても、ただその実行を控えるだけで、暗黙の拒否権を発動することができるのである。
ロシアよりもっと文明が進んでいて、もっと反逆的な精神がみなぎっている国では、国民は、すべてを国家が国民のためにしてくれることを期待する。あるいは少なくとも、国家が許可を授けたうえに、やり方まで指示してこないかぎり、自分では何もしない。そういう習慣ができあがっている国では、当然、国民に害がふりかかるのはすべて国家に責任があることになる。そして、その害が国民の忍耐の限界を超えたとき、国民は政府に反対して立ち上がり、いわゆる革命を起こす。
革命が起きると、別の人物が、国民から正当な権威を授かっていようといまいと、すぐさま権力の座につき、官僚組織に命令をくだすようになる。そして、すべてが以前とほとんど同様の形で動いていく。官僚組織は変わらない。官僚にかわってしごとができる人間がどこにもいないからだ。
第三は、これこそ政府の干渉を制限する理由として最有力のものである。それは、政府の権力を不必要に拡大すると弊害も深刻になることだ。
政府の機能をひとつ増やすごとに、国民の希望や不安に与える影響もさらに広がり、国民のうちで活動力と野心をそなえた者たちはだんだん政府や、あるいは次の政権を狙う政党の手下になっていく。
もし、道路、鉄道、銀行、保険会社、大企業、大学、慈善団体が、すべて政府の機関と化したらどうなる。さらにもし、地方自治体や地方委員会とその権限がすべて中央政府に吸収されたらどうなる。もし、これらの組織の従業員がすべて政府に雇われ、政府から給料をもらい、立身出世もすべて政府の計らい次第になったらどうなる。そうなったら、出版の自由があろうと、議会制度が民主的であろうと、またイギリスであろうと、どの国であろうと、自由は名ばかりのものとなる。そして、行政機構が効率的で科学的につくられていればいるほどーその機構を動かす優秀な労働力と頭脳を獲得する段取りが巧妙であればあるほどー弊害は大きくなるだろう。
イギリスでは、最近、国家公務員の全員を競争試験で選び、できるかぎり聡明で高学歴の人間を採用すべきだとの提案がなされた。この提案は、賛成と反対どちらの側からも、たくさんの発言や論評を引き出した。
提案に反対する側がもっとも強く主張している点は、終身雇用の国家公務員という職業には、すぐれた才能の持ち主をひきつけるほどの、めざましい昇級や昇進の見込みがないことである。優秀な人間は、専門職か、民間会社や公共団体のしごとに、もっと魅力的なキャリアを見出すことができる、というのである。
こういう主張なら、提案の大きな難点にたいする回答として、提案に賛成する側から出てもおかしくない。それを提案に反対する側が出すのは、奇妙きわまりない。反対意見として出されているものは、まさに提案されている制度の安全弁だからである。
じっさい、もし万が一、提案のせいで、国内の優秀な人間全員が国家公務員になりたがりかねないのであれば、そういう提案は不安を招いて当然だろう。社会のしごとのうち、組織的な連携と総合的な配慮を必要とする部分はすべて政府が管理することになったら、また、政府の各機関に最高に有能な人間ばかりが集まったら、純然たる学者を除き、教養のある人間、実践的知識をそなえた人間は全員、大きな官僚組織に集められることになる。そして、それ以外のひとびとは、万事をこの官僚組織に委ねるしかなくなるだろう。
一般大衆は自分が何をしたらいいかまで、すべてお役所からの指示と指導を待つようになる。能力と野心のある人間は、官僚組織にのみ個人的な立身出世の道を求めるようになる。こうした官僚の一員となるのを認められること、そして、その一員となったら、そのなかで昇進すること、そのことだけが唯一の野心の対象となるであろう。
このような体制の下では、官僚の仕事ぶりを批判したり、チェックすることができる人間は外部に存在しない。外部の大衆は、実務経験がないからである。また、専制においては偶然に、民主制においては自然の経緯によって、改革の意欲をもった指導者が頂点に立ったとしても、官僚組織の利益に反するような改革はけっして実行できない。
これがロシア帝国のあわれな現状である。ロシアのようすをじっくり観察してきたひとびとの話でそれがわかる。ロシアでは、皇帝でさえ官僚組織にたいしては無力なのだ。皇帝はどの官僚でもシペリアに追放することができるけれども、官僚なしでは、あるいは官僚たちの意に反しては、国を統治することができない。官僚たちは、皇帝が命令をくだしても、ただその実行を控えるだけで、暗黙の拒否権を発動することができるのである。
ロシアよりもっと文明が進んでいて、もっと反逆的な精神がみなぎっている国では、国民は、すべてを国家が国民のためにしてくれることを期待する。あるいは少なくとも、国家が許可を授けたうえに、やり方まで指示してこないかぎり、自分では何もしない。そういう習慣ができあがっている国では、当然、国民に害がふりかかるのはすべて国家に責任があることになる。そして、その害が国民の忍耐の限界を超えたとき、国民は政府に反対して立ち上がり、いわゆる革命を起こす。
革命が起きると、別の人物が、国民から正当な権威を授かっていようといまいと、すぐさま権力の座につき、官僚組織に命令をくだすようになる。そして、すべてが以前とほとんど同様の形で動いていく。官僚組織は変わらない。官僚にかわってしごとができる人間がどこにもいないからだ。
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