未唯への手紙
未唯への手紙
社会を考える視点 他者との関係
『「今、ここ」から考える社会学』より 社会を考える6つの視点 ⇒ ジンメルの中の記述から「中間の存在」を確認できた。それ以来、未唯空間のキーワードになっている。中間の場で市民は覚醒する。
「関係性」:人と人の間にあるものとは
ゲオルグ・ジンメル。行為の社会性に注目したウェーバーとは対照的に、ジンメルは相互行為に焦点をあてます。世の中には政治や経済、家族などさまざまに異なる内容の領域が存在していますが、それらが社会として機能していくためには、固有の「社会化の形式」というものが存在します。その形式を探求する営みが社会学だとジンメルは考えています。彼は社会学史では「形式社会学」を構想した巨人と位置づけられています。
ただ「形式」と言われても、ピンと来ないと思います。言い方を変えれば、社会は相互行為のなかで、相互行為をとおしてできあがるのです。それは個人間の関係性や相互行為のありよう、つまり人と人の間にある微視的なさまざまな関係性をダイナミックに捉え、そのなかに社会を見出していく社会学の方法なのです。
たとえば、二人の人間から成る相互行為と三人以上の相互行為とでは、どのように異なるのでしょうか。上位と下位という人間相互の関係性、闘争、孤独、秘密といった状態はどのような関係性のことなのでしょうか。ジンメルはさまざまに人と人の間に構成される「形式」をめぐる思索を重ねていきます。支配という現象を考えてみても、権力は、それを持つ人間によって一方向的に行使されるのではなく、常に権力に服従する人々の自発性や協力性による相互行為の過程だと考えるのです。つまり、支配は支配する側だけでなく、支配される人々が何を感じどのように考えて行動しているのかを同時に見なければ、その現象の本質は見えません。
このように微視的な相互行為のありようを詳細に読み解くことから社会がみえてくるとジンメルは考えました。私たちの日常を超越したところで社会が構成されるとともに、社会は、まさに普段私たちが他者と共に生きて在る「細部」に宿っているのです。現代社会学の微視的な社会理論や質的研究にとって基本となるこうした社会の捉え方は、いまではよく知られたものになりました。それは、人と人の間にある「形式」「関係性」を読み解く営みこそ社会学的であるというジンメルの考え方に強い影響を受けてきたといえます。
ところでジンメルを読むと、私は『醒めたネジ』こかしら斜に構えたい印象を受けます。ウェーバーや後述するデュルケームは、近代社会の「合理化」の様相を語り、社会を維持するうえでいかに秩序や道徳が大切かをいわば直球勝負で語るのですが、変化球やスローカーブでいつの間にか三振をとられてしまう驚きというか、どこか人を食ったような冷徹なまなざしを感じてしまいます。でもこれはジンメルを読む人にとって楽しい驚きではないでしょうか。
人と人の間にある〝何か〟を、相互行為を詳細に検討することから明らかにするとして、それは他者を完璧に理解できる、あるいは理解したいという強い思いが背後にあるからでしょうか。確かに他者理解への思いはあるのですが、それと同時に、完璧な他者理解などできはしないし、はたして完璧な他者理解を希求し続けるとして、それは私たちが日常生きていくうえで、いつでもどこでも必要なことで、幸せなことなのでしょうか。それよりも人と人との間にある〝距離〟のようなものを、きちんと認識したうえで、〝距離〟とつきあっていける人間同士の関係性を静かに穏やかに、しかし冷徹なまなざしを持って、見抜いていく営みのほうが、より社会学的ではないでしょうか。私個人の勝手な印象なのかもしれないのですが、このようにジンメルが語りかけてくるように思えるのです。
ジンメルは、社会が高度に分化していき、貨幣というメディアが日常を支配していくにつれ、人間疎外は避けがたいものであり、常態化していくことを論じています。簡単に言えば、私たち人間の価値や生きる目的がすべてお金に換算され、〝換算できない〟価値や目的が何かを見失ってしまい、個人や相互行為のなかから〝人間性〟がかき消されてしまうというのです。
疎外とは、端的に言えば、私という人間が人でなくなることであり、他者を人としてみなさずに、道具か何かを扱うような他者との関係に落ち込んでしまうことです。ジンメルは、こうした疎外は、個人の心理、人間関係、社会集団、生活様式、文化など私たちが生きる世界のあらゆるところで多次元的に生起すると述べています。
片時もスマートフォンを手放さず、一心に指を滑らせ、周囲の人々が何をしているのかなど一切気にすることなく、前から歩いてくる人と肩がぶつかるぎりぎりのところでよけて通り過ぎていく人々の姿が、いま私たちの日常の光景となっています。ジンメルがタイムワープしてやってきたら、どう感じるでしょうか。私は、おそらくは小躍りし喜んだのではないだろうかと思います。スマートフォンに飼い慣らされた私たちは、疎外の典型的な姿だからです。こうした姿をみて、ジンメルは生活全域に惨みわたっていく疎外のありようをさらに読み解ける面白さを感じるだろうし、滲みわたる疎外のなかで、人間がどのようにそれとつきあい、新たな「社会化の形式」をどのように創造するか、その可能性を考察することでしょう。
人間は、常に〝人間性、人間らしさ〟を奪われるリスクに直面して生きざるを得ないことを前提に、リスクを考え、リスクとむきあうために重要な視点、考えるための拠りどころをジンメルは語ってくれていると思います。それは人と人との間にある〝距離〟であり、〝距離〟がもつ意味を〝腑に落とす〟ことで読み解くことがより面白くなる「関係性」という社会の見方なのです。
「自己」:社会に生き、自分を生きるために
ジョージ・ハーバート・ミード。ミードはアメリカのシカゴ大学で哲学と社会心理学を教えていました。当時のシカゴには、ヨーロッパから大量の人々が移り住み、仕事を求めて労働者たちも集まっていました。多様な人種や民族が集住し、シカゴという都市で懸命に生きていたのです。
「人種の坩堝(るつぼ)」という言葉があります。「るつぼ」とは何でしょうか。社会学史の講義で学生に聞いても、最近は知らない人がかなり多くなっています。「るつぼ」とは化学実験などでいろいろな物質を溶かすのに使う白い陶器のことです。私たちの世代では、小学校や中学校であたりまえのように使っていた道具でした。多様な人種や民族を溶かしてしまう器、それはミードが生きたシカゴそのものの姿でした。都市社会学の原点であるシカゴを語る時、この言葉は象徴的に使われます。
語る言葉も生活習慣も文化も異なる人々が同じ街で暮らすとして、そこには当然のようにさまざまな社会問題が発生します。こうした問題をどのように考え、どのように解決すればいいでしょうか。実践的な問題関心のもと、シカゴ大学に初めて社会学部ができたのです。そして個別の問題について、具体的に調査し、質的にせよ量的にせよ経験的なデータを収集し、分析するという社会学という知的実践の基本が、シカゴ大学で創造されていきます。
ミードも、社会学の創造に大きな貢献をしたのですが、ここで私が伝えておきたい彼のテーマは「社会的自己」論です。さまざまな「ちがい」をもつ人々があふれかえり、さまざまな問題も沸騰している日常を生きるなかで、数え切れないくらいの刺激を受けながら、人間はどのようにして「社会的な存在」となるのでしょうか。ミードはこの問いに対して、他者の態度を内面化することによる社会化と「I」と「me」のダイナミクスによる自己の形成という答えを出しました。
「I」とは、主我とも訳されていますが、私という人間がもつ創発的で創造的な営みの源とでもいえる側面です。他方「me」は、客我とも訳されますが、私という人間が他者の態度を引き受け、状況に適切なようにふるまうためにもつ規範的な部分です。そしてミードは、「I」と「me」が絶えずダイナミックに交流することで初めて、私という人間が「社会的自己」として無数の他者に対して立ち現われることができると語っています。
少し考えればわかるのですが、生まれてから死ぬまで、どの人間にも共通し避けられない端的な事実があります。それは「他者と出会うこと」です。母親や父親のような最も親密な他者との出会いから始まり、学校での友人や部活仲間、同じ職場で働く仕事仲間、コンサートやイベントで共に盛り上がる人々、街ですれ違う人々、老いて自らの介護をしてくれる人、そして自分が生きている間で一度も出会うことがない圧倒的多数の他者の存在など、まさに私という人間は、多様な他者とさまざまなグラデーションがある出会いを繰り返しながら成長し、社会化し、老いていくのです。
圧倒的な量と質がある「他者との出会い」を私が生きていくとき、他者の態度を引き受け、期待される役割をその場で判断し、適切に役割を演じ、上手に他者との関係性を維持していくことは、とても重要だと思います。たとえばこうした「出会い」をうまく乗り切るためのマニュアル本がこんなに売れていますと私たちに訴えかける通勤通学電車で見かける広告が、そのことを象徴しているでしょう。
ミードの「自己」論で、私がとても興味深く思うのは、「I」という「自己」がもつ側面です。ミードの説明を読んでいても、「E」に比べ、「I」は、はっきりこうだと理解しづらいことは確かです。しかし、社会を生き、自分を生きていくために、私たち人間はつねに新しい何かを生み出す可能性を秘めています。「社会性」を守ること以上に、私たちが「自己」をつくりあげ、「自己」を生きるうえで、新しい何かを創造するその力が大切だと唱えるミードの考えは、確実に伝わってきます。
「自己」は「社会性」を盛るためだけの器ではありません。それは「社会性」をどのように受容するか、その検討ができる力をもった人間存在の重要な側面なのです。またそれは「社会性」がもつさまざまな問題や歪みをいったん受容し、そのうえでより気持ちよい「社会性」を実現するために、その中身を修正し変革し、あらたな形として、他者へと示していける力をもった「生きていくプロセス」にもなり得るのです。
「自己」の創発性や創造性という主張はまた、私たちが社会や日常を批判する力を持っていることを考えるうえで、導きの糸であり、魅力的なものです。
「関係性」:人と人の間にあるものとは
ゲオルグ・ジンメル。行為の社会性に注目したウェーバーとは対照的に、ジンメルは相互行為に焦点をあてます。世の中には政治や経済、家族などさまざまに異なる内容の領域が存在していますが、それらが社会として機能していくためには、固有の「社会化の形式」というものが存在します。その形式を探求する営みが社会学だとジンメルは考えています。彼は社会学史では「形式社会学」を構想した巨人と位置づけられています。
ただ「形式」と言われても、ピンと来ないと思います。言い方を変えれば、社会は相互行為のなかで、相互行為をとおしてできあがるのです。それは個人間の関係性や相互行為のありよう、つまり人と人の間にある微視的なさまざまな関係性をダイナミックに捉え、そのなかに社会を見出していく社会学の方法なのです。
たとえば、二人の人間から成る相互行為と三人以上の相互行為とでは、どのように異なるのでしょうか。上位と下位という人間相互の関係性、闘争、孤独、秘密といった状態はどのような関係性のことなのでしょうか。ジンメルはさまざまに人と人の間に構成される「形式」をめぐる思索を重ねていきます。支配という現象を考えてみても、権力は、それを持つ人間によって一方向的に行使されるのではなく、常に権力に服従する人々の自発性や協力性による相互行為の過程だと考えるのです。つまり、支配は支配する側だけでなく、支配される人々が何を感じどのように考えて行動しているのかを同時に見なければ、その現象の本質は見えません。
このように微視的な相互行為のありようを詳細に読み解くことから社会がみえてくるとジンメルは考えました。私たちの日常を超越したところで社会が構成されるとともに、社会は、まさに普段私たちが他者と共に生きて在る「細部」に宿っているのです。現代社会学の微視的な社会理論や質的研究にとって基本となるこうした社会の捉え方は、いまではよく知られたものになりました。それは、人と人の間にある「形式」「関係性」を読み解く営みこそ社会学的であるというジンメルの考え方に強い影響を受けてきたといえます。
ところでジンメルを読むと、私は『醒めたネジ』こかしら斜に構えたい印象を受けます。ウェーバーや後述するデュルケームは、近代社会の「合理化」の様相を語り、社会を維持するうえでいかに秩序や道徳が大切かをいわば直球勝負で語るのですが、変化球やスローカーブでいつの間にか三振をとられてしまう驚きというか、どこか人を食ったような冷徹なまなざしを感じてしまいます。でもこれはジンメルを読む人にとって楽しい驚きではないでしょうか。
人と人の間にある〝何か〟を、相互行為を詳細に検討することから明らかにするとして、それは他者を完璧に理解できる、あるいは理解したいという強い思いが背後にあるからでしょうか。確かに他者理解への思いはあるのですが、それと同時に、完璧な他者理解などできはしないし、はたして完璧な他者理解を希求し続けるとして、それは私たちが日常生きていくうえで、いつでもどこでも必要なことで、幸せなことなのでしょうか。それよりも人と人との間にある〝距離〟のようなものを、きちんと認識したうえで、〝距離〟とつきあっていける人間同士の関係性を静かに穏やかに、しかし冷徹なまなざしを持って、見抜いていく営みのほうが、より社会学的ではないでしょうか。私個人の勝手な印象なのかもしれないのですが、このようにジンメルが語りかけてくるように思えるのです。
ジンメルは、社会が高度に分化していき、貨幣というメディアが日常を支配していくにつれ、人間疎外は避けがたいものであり、常態化していくことを論じています。簡単に言えば、私たち人間の価値や生きる目的がすべてお金に換算され、〝換算できない〟価値や目的が何かを見失ってしまい、個人や相互行為のなかから〝人間性〟がかき消されてしまうというのです。
疎外とは、端的に言えば、私という人間が人でなくなることであり、他者を人としてみなさずに、道具か何かを扱うような他者との関係に落ち込んでしまうことです。ジンメルは、こうした疎外は、個人の心理、人間関係、社会集団、生活様式、文化など私たちが生きる世界のあらゆるところで多次元的に生起すると述べています。
片時もスマートフォンを手放さず、一心に指を滑らせ、周囲の人々が何をしているのかなど一切気にすることなく、前から歩いてくる人と肩がぶつかるぎりぎりのところでよけて通り過ぎていく人々の姿が、いま私たちの日常の光景となっています。ジンメルがタイムワープしてやってきたら、どう感じるでしょうか。私は、おそらくは小躍りし喜んだのではないだろうかと思います。スマートフォンに飼い慣らされた私たちは、疎外の典型的な姿だからです。こうした姿をみて、ジンメルは生活全域に惨みわたっていく疎外のありようをさらに読み解ける面白さを感じるだろうし、滲みわたる疎外のなかで、人間がどのようにそれとつきあい、新たな「社会化の形式」をどのように創造するか、その可能性を考察することでしょう。
人間は、常に〝人間性、人間らしさ〟を奪われるリスクに直面して生きざるを得ないことを前提に、リスクを考え、リスクとむきあうために重要な視点、考えるための拠りどころをジンメルは語ってくれていると思います。それは人と人との間にある〝距離〟であり、〝距離〟がもつ意味を〝腑に落とす〟ことで読み解くことがより面白くなる「関係性」という社会の見方なのです。
「自己」:社会に生き、自分を生きるために
ジョージ・ハーバート・ミード。ミードはアメリカのシカゴ大学で哲学と社会心理学を教えていました。当時のシカゴには、ヨーロッパから大量の人々が移り住み、仕事を求めて労働者たちも集まっていました。多様な人種や民族が集住し、シカゴという都市で懸命に生きていたのです。
「人種の坩堝(るつぼ)」という言葉があります。「るつぼ」とは何でしょうか。社会学史の講義で学生に聞いても、最近は知らない人がかなり多くなっています。「るつぼ」とは化学実験などでいろいろな物質を溶かすのに使う白い陶器のことです。私たちの世代では、小学校や中学校であたりまえのように使っていた道具でした。多様な人種や民族を溶かしてしまう器、それはミードが生きたシカゴそのものの姿でした。都市社会学の原点であるシカゴを語る時、この言葉は象徴的に使われます。
語る言葉も生活習慣も文化も異なる人々が同じ街で暮らすとして、そこには当然のようにさまざまな社会問題が発生します。こうした問題をどのように考え、どのように解決すればいいでしょうか。実践的な問題関心のもと、シカゴ大学に初めて社会学部ができたのです。そして個別の問題について、具体的に調査し、質的にせよ量的にせよ経験的なデータを収集し、分析するという社会学という知的実践の基本が、シカゴ大学で創造されていきます。
ミードも、社会学の創造に大きな貢献をしたのですが、ここで私が伝えておきたい彼のテーマは「社会的自己」論です。さまざまな「ちがい」をもつ人々があふれかえり、さまざまな問題も沸騰している日常を生きるなかで、数え切れないくらいの刺激を受けながら、人間はどのようにして「社会的な存在」となるのでしょうか。ミードはこの問いに対して、他者の態度を内面化することによる社会化と「I」と「me」のダイナミクスによる自己の形成という答えを出しました。
「I」とは、主我とも訳されていますが、私という人間がもつ創発的で創造的な営みの源とでもいえる側面です。他方「me」は、客我とも訳されますが、私という人間が他者の態度を引き受け、状況に適切なようにふるまうためにもつ規範的な部分です。そしてミードは、「I」と「me」が絶えずダイナミックに交流することで初めて、私という人間が「社会的自己」として無数の他者に対して立ち現われることができると語っています。
少し考えればわかるのですが、生まれてから死ぬまで、どの人間にも共通し避けられない端的な事実があります。それは「他者と出会うこと」です。母親や父親のような最も親密な他者との出会いから始まり、学校での友人や部活仲間、同じ職場で働く仕事仲間、コンサートやイベントで共に盛り上がる人々、街ですれ違う人々、老いて自らの介護をしてくれる人、そして自分が生きている間で一度も出会うことがない圧倒的多数の他者の存在など、まさに私という人間は、多様な他者とさまざまなグラデーションがある出会いを繰り返しながら成長し、社会化し、老いていくのです。
圧倒的な量と質がある「他者との出会い」を私が生きていくとき、他者の態度を引き受け、期待される役割をその場で判断し、適切に役割を演じ、上手に他者との関係性を維持していくことは、とても重要だと思います。たとえばこうした「出会い」をうまく乗り切るためのマニュアル本がこんなに売れていますと私たちに訴えかける通勤通学電車で見かける広告が、そのことを象徴しているでしょう。
ミードの「自己」論で、私がとても興味深く思うのは、「I」という「自己」がもつ側面です。ミードの説明を読んでいても、「E」に比べ、「I」は、はっきりこうだと理解しづらいことは確かです。しかし、社会を生き、自分を生きていくために、私たち人間はつねに新しい何かを生み出す可能性を秘めています。「社会性」を守ること以上に、私たちが「自己」をつくりあげ、「自己」を生きるうえで、新しい何かを創造するその力が大切だと唱えるミードの考えは、確実に伝わってきます。
「自己」は「社会性」を盛るためだけの器ではありません。それは「社会性」をどのように受容するか、その検討ができる力をもった人間存在の重要な側面なのです。またそれは「社会性」がもつさまざまな問題や歪みをいったん受容し、そのうえでより気持ちよい「社会性」を実現するために、その中身を修正し変革し、あらたな形として、他者へと示していける力をもった「生きていくプロセス」にもなり得るのです。
「自己」の創発性や創造性という主張はまた、私たちが社会や日常を批判する力を持っていることを考えるうえで、導きの糸であり、魅力的なものです。
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