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未唯への手紙

未唯への手紙

『貧困とはなにか』

2023年11月22日 | 3.社会
 【新版】『貧困とはなにか』

概念・言説・ポリティクス

ジェンダー

ジェンダーはもっとも大きく異なった区分を構成している。貧困をジェンダー的に分析すると、(多くの国で顕著ではなくなってきているとはいえ)その発生率が不平等であることが明らかになる。しかしそれ以上に、より重要なのは、貧困の原因と結果の両方が深くジェンダー化されていることが明らかになることである。言い換えれば、「貧困そのものがジェンダー化されている」。すなわち概念的にも方法論的にも、単に「見失われていた女性を加える」ことをはるかに超える意味がある、貧困とジェンダーに関するエビデンスをレビューしたある論文には、「ジェンダーのレンズを通して貧困を見るには、社会的・経済的関係、そして制度を検討する必要がある」と説明があるが、それは「貧困に至る過程が本質的にジェンダー化されており、そこからぬけだす可能性を持った道筋も同様に本質的にジェンダー化されている」ためである。タウンゼンドも「[一九九〇年代のジェンダーと貧困をめぐる議論の]影響は根本的なものであった」と認めている。またこれだけでなく、ジェンダー視点での分析は、女性と貧困の関係だけでなく男性と貧困の関係にも光をあてることができる。ゆっくりとではあるが、これも認識されるようになってきている。とくに、伝統的なジェンダー観によるアイデンティティは、貧困の社会的関係に浸透していることがある。たとえば、「稼ぎ手」としての役割を自分自身のアイデンティティとする男性は、家族を十分に支えられなければ恥や罪悪感を感じる可能性が高い。一方、母親は、消費社会におけるスティグマから子どもを守ることができない場合、あるいは子どものために福祉機関とかかわりを持ったりする場合、その結果として恥辱を受ける傾向が高い。

「貧困の女性化」?

典型的には、女性は男性よりも大きな貧困リスクに直面している。その事実が注目されはじめたころにEUとアメリカで集積されたエビデンスは、程度の差こそあれ(スウェーデンの明確な例外を除いて)、そう示していた。しかし、ジェンダーに関して生のかたちで目に見える貧困格差は近年狭まり、いまでは必ずしも見分けがつかなくなっている。より目につくのは、女性世帯主の家庭、とくにひとり親家庭や年金受給単身者に分類される世帯の貧困である。イギリスの分析では、子どもの存在によって家計が貧困に陥る可能性は、男性の場合よりも女性の場合の方が高いことが示唆されている。たとえばケアをする人(とくに要介護度の高い人の介護者)のような女性が多数を占める集団もリスクが高い。対象者を長期にわたって追跡する縦断的な分析では、

女性が慢性的な貧困、反復的な貧困に陥りやすいことが示されている。

「貧困の女性化」という用語は、そうしたパターンを捉えるために広く使われてきた。(一九七八年にダイアナ・ピアースによって)アメリカでリスクの高い女性世帯主の世帯数が増加していたことに対して使われるようになった当初、そのレトリックには、アメリカをはじめ世界的に女性の貧困を覆い隠していた霧を吹き払う力があった。しかし、それは多くの点で誤解を招くものであった。意味論的には難点がふたつある。まずひとつ、典型的にこれは、「プロセスではなく状態」を指すのに使われ、それによって両者が混同され、混乱することである。ふたつめには、これが新しい現象であることを暗示してしまうことである。シルヴィア・チャントによれば、「理論的にも、解説のためにも、説明にもほとんど役に立たない無骨な用語」であることが次第に認識されつつある。それゆえ、貧困を「ジェンダー化されたもの」として捉える考え方が好まれるようになってきている。

「貧困の女性化」という命題に関する問題のひとつは、それが典型的には世帯内の個人ではなく世帯主に基づいた統計に頼らざるを得ないことである。あるいは別の手段をとるなら、個人についての大まかな「当て推量」に頼らざるを得ない。その代表的な例が、広く引用される「世界の貧困の七〇%は女性」という国連の主張であり、これは「事実というより〈事実のようなもの〉」と評されている。女性が世帯主である世帯の貧困リスクにばかり目を向けることは、この集団内がそもそも均質ではないことを覆い隠す。さらに、生活様式が国によって異なることの影響(たとえば、該当する世帯が統計上は拡大家族世帯の一部であるためカントされない場合)も見えなくなる。そしてさらに重要なことには、男性世帯主の世帯における女性の貧困を覆い隠してしまう。個人をカウントするといいながら、実際には、世帯収入が公平に分配されているというヒーローまがいの前提のもとで世帯収入から貧困の推計をすることは、女性の貧困を過小評価する可能性が高い。

隠された貧困

ギータ・センは、「世帯内の不平等を認識しなければ、だ当に貧しいのか理解できない」と論じている。家庭内での所得と消費の不平等な分配は、隠れた貧困を意味することがある。男性パートナーが貧困でないが女性が貧困である場合、貧困が女性により強くのしかかる場合がそうである。家計管理に関するイギリスの研究には、所得が家庭内で必ずしも公平に分かち合われないこと、女性の方が男性より「個人的なことにお金を使うこと」が少ないことを示しているものが多数ある。こうした調査の大半は小規模で質的なものだが、量的な調査群によっても、その主な結論は支持されている。EUレベルの分析では、資源を十分に共有していると想定される世帯の三分の一近くが実際にはそうしていないことが示されている。

消費と剥奪に関していえば、質的な調査は、やはり男性の方が食糧のような日常の商品についても、自動車のような耐久消費財についても「特権的な消費者」である傾向を強く示している。しかもミラーとグレンディニングが指摘するように、「それぞれが与える利益と自由という観点から見れば、『彼の』車と『彼女の』洗濯機はとうてい等価物だとはいえない」。PSEIUK調査は、限定的な範囲ではあるものの世帯内の不平等の測定が可能になるように設定されてきた。それによれば、一九九九年以降、男女の剝奪格差は縮小しているが、子どもがいる場合にはより顕著な格差があることがわかった。カラギアンナキとバーチャードは、ヨーロッパの幅広い文献の簡単なヒューに基づいて、女性の不利益になる不平等な世帯内剝奪のエビデンスはたしかに存在するが、その程度は文化的な文脈、経済的な文脈(とくに福祉国家では)政策の文脈によって一様ではなく、また、家族・世帯の形態によって異なる、と結論づけている。とくに、「各個人が家庭にもたらす収入の配分は、資源に対するコントロールと関連している可能性があるのだが、カップル内では女性の収入比率が男性よりも小さい傾向がある」ことが示されている。カラギアンナキとバーチャードがEUISILCデータ(第2章参照)を分析した結果、「ヨーロッパの成人の属する世帯のかなりの割合が、成人した世帯員間で不平等な剝奪結果をもたらしている」。これはとくに、複数の家族単位からなる「複合世帯」において顕著である。さらに、明らかに「世帯内の困窮の不平等の程度は、すべての国の全体的な困窮の水準にかなりの影響を与えている」。

『大人のための文学「再」入門』

2023年11月19日 | 3.社会
『大人のための文学「再」入門』

「生き延びること」について

次の世代に何を残せるのか―ヘミングウェイ『老人と海』

アメリカ文学といえばヘミングウェイ、そしてヘミングウェイといえば『老人と海』である。とはいえこれがどういう話なのか、ちゃんと知ってる人は少ないのではないか。どうせ老人が海に行って魚を釣る話でしょう、と言う方。それはその通りである。しかしそれから先がちょっと違う。

アメリカ文学の代表作でありながら舞台はキューバで、なおかつ英語をしゃべる人がほとんど出てこない、という設定からして、本作はちょっと変わっている。一九五八年の革命前のキューバといえば、アメリカの属国のような扱いだった。アメ車が道路を闊歩し、大リーガーが我が物顔でキャンプにやってくる。そうした場所に住む貧しい無名の漁師が、実はアメリカ人たちを超える高貴な精神性を持ち合わせていた、というのが本書のメッセ―ジだ。

彼らの心の底にはカトリックある。それもただのキリスト教ではない。自然を愛し、動植物を敬い、魚たちや星々を兄弟だ、と思うような信仰の形だ。「人間って奴は、所詮、したたかな鳥や獣の敵ではない」。日本で言えば、ちょうど宮沢賢治の童話のような自然観である。

だからこそ、老人はエンジンがついた大きい船には乗らない。どれだけ長く不漁の日々が続いても、小さな小舟で何度も海へ漕ぎ出す。ついに巨大なカジキが針にかかれば、自分の体ひとつで何日も戦い続ける。それも決して相手を組み伏せ、略奪し、金に変えようという戦いではない。

むしろそれは老人にとって、人間よりはるかに美しく偉大な存在であるカジキとたった一本の糸でつながり、深く愛し合うという行為なのである。だからこそ老人にとって、究極的にはどちらがどちらを殺しても大した違いはない。そしてついにカジキを仕留めたとき、彼は魚を宝物と呼ぶ。「手でさわって、やつを感じたい。やつはおれの宝物さ、と老人は思った」。

だからこそ、港への帰り道に膨大な数のサメに襲われ、次々とカジキの肉を食われても、ついに骨ばかりになってしまうまで彼は死闘をやめない。オールやナイフを奪われてさえ、様々なやり方でサメを攻撃し続ける。なぜならカジキはただの獲物ではなく、彼の最愛の仲間なのだから。ようやく老人が港へ連れ帰ったカジキの巨大な白骨を見て、漁村の人々は彼がいかに偉大な戦いをやり抜いたかを無言のうちに見て取る。そしてまた、彼を慕う少年の内に老人の気概はしっかりと根を下ろす。

すべての人はやがて年老い死んでいく。そのとき次の世代に何を残せるのか。そうした問いに一つのはっきりとした答えを与えているからこそ、『老人と海』は時代を越えて読み続けられる力を持つのだ。

初出:『日本経済新聞』2021年12月1日
※初出は「名作コンシルジュ」コーナーにて

犬になること山下澄人『月の客』

たとえば、犬だ。フランツ・カフカの『審判』でKは、突然家に現れた二人組の男に、何かの罪で自分が訴追されていると告げられる。だが自分が何かを犯した記憶はない。他人の家の天井裏にある裁判所に行っても、やっぱり事情はわからない。だがじわじわと追い詰められていき、やがて「犬のようだ」と叫びながら、男たちに首を切られて死ぬ。

しかし本作では犬であるのは悪いことではない。盲目の男はトシに言う。「目玉があるのも不便やの!/男には風も見えたし、音も見えた、息を吹きかけたのが誰なのかわかった、/いぬと一緒やにおいが見える」。目が見えれば目に頼る。だから暗闇では何も見えない。だが犬は、匂いで世界の地図を描いて正確に動く。だからジャック・ロンドンが「野生の呼び声」で描いたように、北極圏でも少しの食料や炎を嗅ぎつけて生き続けられる。

そもそもなぜ犬のようにあることは、悲惨と同等視されてきたのか。文明の中にいれば、自分が身体を持つ生き物であることを忘れられるからだ。ただ人間の顔を見ながら、間の作ったや常識の中で漂っていればいい。そして安全・安心という幻想の中、多くの金を稼いだり、くの関心を集めたりするゲームに興じればいい。

だが、緊急事態にはそんな思い込みは破れる。そして我々の、生きる意思を持つ身体がゴロリと顔を出す。疫病でもいい、大災害でもいい、戦争でもいい。誰が悪いとか、誰がどうしてくれないとか言っている間に我々は簡単に死ぬ。だから目の前のことを見据えて、直感を使いながら、とにかく生き延びる可能性の高い選択をし続けるない。

本書の主人公であるトシは、生まれた瞬間から緊急事態を生きてきた。口をきけない母親は押し入れにともり、ひたすら帳面にカタカナだけで文字を書き続ける。父親はトシ出生とともにいなくなった。引き取られた先でも暴力を振るわれ、死なないためには逃げ出すしかない。

そして彼は、神社にある洞穴に住み着く。だが彼は一人ではない。近所に住む、障害を持ったおっちゃんが獣の捕り方を教えてくれる。飯盒をくれて、米の炊き方を教えてくれる。「いぬ」と名付けられた犬たちは、何度死んでも別の姿でトシの前に現れ、彼に温もりをくれる。そして酔った母親に階段から突き落とされ、脚が不自由になったサナもまた、洞穴に姿を現す。やがて彼女はトシと愛し合うだろう。

トシは民家から米を盗み、鳥や蛇を捕らえて食べる。あまりにも長く犬と暮らしていたので、犬のように鳴けるようになり、その特技を買われて見世物小屋で働く。犬になったトシの声を聞いて、何より観客よりも犬たちが喜ぶ。トシは犬を見下さない。だから「犬のよう」になることにためかない。その敬意を犬たちも感じる。

おそらく戸籍もないトシは、社会の片隅で、見えない存在として生きてきた。けれどもそんな彼の生き方が、先進的なものとなるときがやってくる。大地震だ。登場人物たちが全員関西弁で話しているからには、これは阪神淡路大震災なのかもしれない。あるいはこここはアイヌの言葉で「地の果て」という地名だという記述があり、しかも放射線障害のように腹が膨れて何人も死ぬという設定から見ると、東日本大震災かもしれない。

そのいずれか、あるいは両方にせよ、トシの頭の中にはそうした呼び名は存在しない。ただ体験があるだけだ。そしてその体験は死んだ犬が教えてくれる。「いぬがからだを起とした、暗い中でトシにはそう見えた、死んでいる場合ではない、といぬは、すべてが縦に動いた、何度も、それから横に、斜めに/ぎしぎしと洞穴が音を立てていた、/揺れがおさまり、音が止んだ/いぬは寝ていた、冷たく固くなっていた、撫でて外へ出た」。

トシは死にかけた母親を連れて避難所である学校に行く。だがなぜかそこには誰もいない。母親を看取り、やがて彼は、地震で妻と娘を亡くしたまっさんの工場で働くことにな身体を病んだまっさんはトシに言う。「死んだらあかんで、つまらん、なやとかいいなや、なんでそもない、生まれたら生きるんや、生まれたおぼえはないやろが、」。

知らぬ間に生まれ、知らぬ間に死んでいく。他の動物の身体も、魂も、記憶も食べて食べて、大量に蓄積しながら、我々は生き続ける。一体何のために生きるのか。目的などない。ただこの世界が生命に満ちていて、人間も動物も、死者も生者も、それぞれの形で生きていて、それらの生命がつながっているだけだ。

そして死ぬと我々は月に帰っていく。まっさんの遺体を見て、そこにまっさんはいない、今まっさんは月の近くにいる、とトシは感じる。どうして月に帰るのか。かつて焼かれた男の骨を見たトシは知っている。その、赤や黒の斑点もある白く熱いかけらは月に似ている。ということは、我々の身体の中にはいつも月がある。いつも空から見守ってくれている大きな月は我々の故郷であり、やがて戻っていく場所なのだ。

常にすべてを剥ぎ取られたむき出しの生を生きるトシの物語である本作を読んで、僕はJ・M・クッツェーの『マイケルK』を思い出した。知的障害のあるマイケルは内戦下の南アフリカで、死んだ母親の遺骨を彼女の故郷まで運び、穴に住んで身を隠しながら、誰とも関わらずに植物を育てる。そこには、社会の外側から、現代を批判する鋭い目がある。

だがそれと似た設定である本作はもっと優しい。社会から疎外された多くの人々や動物がトシを助けてくれる。そこには生者も死者もいる。一人の男の人生に、遠大な時間と空間が交錯していく。個人を個人として見るのではなく、むしろ生命の流れの一つの結節点として捉える山下澄人の本作に、僕は日本現代文学の一つの先端を感じる。まずは読者はその、決して「。」で終わることのない言葉の流れを堪能してほしい。

初出:『すばる』2020年7月号(集英社)

戦争が引き裂く個の悲しみヴィエト・タン・ウェン『シンパサイザー』

主人公には居場所がない。戦時下のベトナムでフランス人の宣教師と現地のメイドの間に生まれた彼は、妾の子と罵られて育つ。唯一彼を助けてくれたのが同級生のマンとボンだ。彼ら三人は義兄弟の契りを結ぶ。この関係が、やがて主人公を引き裂くことになる。

大人になったマンは共産主義者として、南ベトナム政府転覆を工作する。そしてボンは、愛国者としてベトコンと戦う兵士となるのだ。二人の友に同時に忠実でいるにはどうしたらいいか。彼はマンの指示のもと、共産側のスパイとしてボンの戦友を本気で演じる。

この危ういバランスは何度も崩れそうになる。サイゴン陥落の日、共産軍の砲撃で死にかけながらボンとベトナムを脱出した主人公は、ロサンゼルスの亡命者社会に溶け込む。そしてともに脱出した将軍への忠誠心を誓いながら、彼の動向を本国に送る。ならば彼は演技しているだけなのか。そうではない。彼は本気で将軍に同情しているのだ。

シンパサイズ

将軍だけは、主人公の出自を気にせずに、能力だけを評価してくれた。しかし自分が内心、軽蔑している人間にさえ認められたい、という主人公の焼け付くような欲望を、共産側は受け入れない。ボンと一緒にラオスから侵入した主人公に対して、共産側は過酷な拷問を加える。一体お前の心はどちらにあるのか。しかし主人公はそのどちらも選べない。著者のウェンは四歳でベトナムを逃れ、アメリカで英文学の教授となった。ベトナム共和国に戻ればアメリカ人と言われ、アメリカでは外国人扱いされ続ける。肝心のベトナム語さえ大して話せないのに。しかも祖国である南ベトナムは消滅し、もはや亡命者たちの心の中にしかない。彼が生涯を通じて感じ続けてきた疎外感が、ベトナムとアメリカの下幸な歴史を巡る巨編として結実した。息をつく暇もないほどの面白さの裏に真の悲しみが流れている本書がピュリッツァー賞を獲ったのも納得である。

「多くの男たちが、自分の名前を覚えてくれた一人の男のために死ぬ」という言葉が切ない。彼らだって、利用されているだけだとわかっているだろうに。本書はすべての戦争の裏にアイデンティティの問題があると看破した、戦争文学の傑作である。

『日本経新聞』2011年9月2日

人生の哀切さ奥底の生命力

シルヴィア・プラス『メアリ・ヴェントゥーラと第九王国』

気づけばメアリーは奇妙な汽車に乗っている。乗り心地はいいし、車内で知り合った女性は大きなチョコレートまでくれる。けれどもどこに行き着くかはわからない。ただ目的地が第九王国という名前だと知らされるだけだ。女性との会話から、そこが冷たい、希望のない場所だとわかる。「第九王国に着いたら、もう戻りようはない。そこは否定の王国、凍りついた心の王国なのよ」。逃げるには、車掌たちの目を盗んで非常停止の紐を引くしかない。ようやく勇気を出したメアリーは汽車から降りることに成功する。スーツケースを置き去りにして、なんとか車掌たちの追跡を振り切るのだ。途中で振り返ると、客車のガラス窓の向こう、生気も個性も失った乗客たちの姿が見える。

知らぬ間にシステムに縛られ、ガラスの中に閉じ込められる。そして心の底にある生命力を振り絞って逃げ出す。本書の表題作のテーマは、プラスの自伝的小説『ベル・ジャI』(ガラスの覆いを思い起こさせる。高校時代、優等生だったエスターは、学校の外で壁にぶつかる。ファッションのセンスも気の利いた会話の能力もない自分は、マスコミと

いうキラキラした世界では生きられない。悩み抜いた彼女は鬱になり生きる意欲まで失う。本当は詩人になりたかった。でも女性に職業選択の自由を与えない五〇年代のアメリカは、彼女の未来を暗く閉ざす。

女性として生きることの困難を哀切に描いたプラスは、いまだ英語圏でカリスマ的な人気を誇っている。それは今なお社会が本質的には変わっていないからだ。だからこそ、プラスの文章は日本に住む我々の心をも打つ。荷物をすべて手放し、風となって走ること。どんな状況でも諦めず、戦い抜くこと。三十歳で若くして亡くなった彼女の言葉は、今でもわれわれを励ます。

もちろんプラスの魅力はそれだけではない。病院を描いた短篇「ブロッサム・ストリートの娘たち」で看護師たちは言う。医者たちの書く字は汚くて読めないし、処方箋や報告書はすべて、カルテ帳の間違った場所に貼られている。こうしたちょっとした表現にも、ユーモアや愛情が表れている。このプラスの短篇集は、小説や詩だけではわからない彼女の多面的な魅力に満ちている。

初出:『日本経済新聞』2022年7月16日

遊牧民の知恵と生きる難民たち―アブドゥラマン・アリ・ワベリ『トランジット』

今の世界を知るにはワベリを読めばいい。ヨーロッパやアメリカに貧しい人々が押し寄せる。どんな国境も法律も彼らを止められない。なぜか。彼らは、どうして自分たちには人権も快適な生活もないのかと叫ぶ、普通の人間だからだ。そしてこの正義に反論できる者などいない。

本書の登場人物バシールもその一人だ。アフリカの小国ジブチの内戦で兵士として闘った彼は、フランス行きの飛行機に乗り込む。もちろん難民として、より良い暮らし求めてだ。そのために言葉がわからない愚か者のふりをする。泣いて同情を得ようとする。

彼の姿勢は欺瞞だろうか。いや、権力者の前で生き延びるには、本心を隠して移動を繰り返し、正面衝突を避けるのが正しい。それにそもそも、ジブチを暴力に満ちた国にしたのは、かつてそこを植民地としていたフランスではないか。

バシールの知恵は遊牧民のものである。ベドウィン時代の記憶を持つアワレは言う。「遊牧民の時間がどの暦にも従わず、いかなる記録文書にも煩わされることはなく、フランス第三共和政の山羊ひげたちによって求められた行政書類にも署名していないということだ」。そしてそんな彼らを真に支配できる者などいない。

一九六五年生まれで自らも内戦に参加したワベリは、ジブチで話されている生のフランス語も交えて見事な文章を織り上げる。ときに詩と散文の間のようになる作品は高く評価され、今や彼はフランス語圏を代表する書き手の一人だ。

もちろん、遊牧民にも弱みはある。フランス式の教育を受けた者たちは伝統を見失い、自分たちを見下し、ヨーロッパ人を仰ぎ見るようになる。フランスで教育を受けたハルビもそうだ。だがそれでは、誇りを持って生きられない。

トヨタの小型トラックを改造して作ったソマリアの戦車のように、ヨーロッパと先祖代々の知恵を統合すること。このワベリの試みは、東洋人である我々にも他人事ではない。

初出:『朝日新聞』2019年3月30日

人種差別との過酷な闘いを体感

 未来の社会を SF で書くという手法がある

 奥さんへの買い物依頼
ベーコンブロック         278
茶わん蒸し   298
香薫            258
朝食ヨーグルト           138
カレーメシ     200

『地図で見るアフリカハンドブック』

2023年10月25日 | 3.社会
新版『地図で見るアフリカハンドブック』

はじめに

グローバル化でのアフリカの軌道を問いただす

グローバル化による世界の再編成の現状を分析すると、アジアが新興しているのに対し、ヨーロッパとアメリカが相対的に衰退していることは明らかなのだが、アフリカの占める地位はどうもはっきりとしない。はたしてアフリカは、これからも紛争と環境破壊、破綻した公衆衛生の犠牲になり、貧しくて不安定な大陸のまま、世界の中心からはずれていくのだろうか?それとも、豊かな自然資源[鉱物資源、生物資源、景観など]や人口の伸び、都市化、デジタル活用の急激な出現が、ほかに類を見ない成長の担保となって変化をとげ、世界的な資本主義の最後のフロンティアになるのだろうか?

ほかと同じ大陸か?

アフリカについて問いただすとは、つまり「アフリカ悲観論」や「アフリカ楽観論」といった型にはまった考えから完全に離れ、その多様性をとりいれて考えることである。2つの偏見から透けて見えるのは、この大陸を世界のほかの大陸とは違うと見ているのは明らかで、それではカメルーン人の歴史家で哲学者のアキーユ・ンベンベが強調するように、現実のアフリカを反映することにはならない。

アフリカ大陸の面積は3030万平方キロメートル――中国とインド、西ヨーロッパ、アメリカ合衆国を合わせた面積に相当で、そこに2022年現在、14億5000万人が住んでいる。ひと塊となった大陸部周囲につらなる大小の列島は、1億6000年前にあったとされる巨大なゴンドワナ大陸が分裂した結果である。しかし、アフリカが細分化されているのはなにより政治的な要因によるもので、大半が熱帯である大陸の多様な地形や、何千という言語を話す民族のことは忘れられている。そんなアフリカの国々に共通しているのは、少数の例外(リベリア、エチオピア)をのぞき、19世紀の終わりからヨーロッパの大国の植民地となり、1960年代に多くが独立してからは、開発途上国に埋没したまま抜けだせていないことである。アフリカには現在、54の国家がある。国境の制定は外的な要因だったとしても、いかんせんその影響力は決定的だ。各国はあたえられた領土の枠組で、平和的にしろ、悲劇的にしろ、それぞれ特異な歴史をきざむことになったのである。

アフリカ情勢についての西欧の分析の多くは、単純化されるきらいがある。フランスの農学者でエコロジスト、ルネ・デュモンが『アフリカはハンディを背負ってスタートした』(1962年)で述べた意見は、1960年代においては異端で、当時支配的だったのは、「アフリカはヨ―ロッパからの開発の遅れを猛スピードでとりもどしている」という見方だった。続く1980-1990年の10年間は、災害大陸(干ばつ飢饉、戦争)として、世界体制の周辺に追いこまれることが多くなる。2000年代に入ってからはもっと複雑だ。多くは、元世界銀行副総裁のジャン=ミシェル・セヴェリーノと彼の特別補佐官オリヴィエ・レイの意見と歩調を合わせ、2人の共著書のタイトルのように『アフリカの新時代』(2010年)が来たとみなしている。その要因としては、新興各国との新しいパートナーシップ、人口増加と都市化による国内市場の拡大、教育とインフラの向上、独裁政権の減少と民主化の要求、国連で2015年までに達成する目標として合意された「ミレニアム開発目標」(MDGs)に象徴される開発政策の新たな高まり、などがあげられ、アフリカは新興地域に仲間入りしたようでもある(大陸内の重要な市場に支えられた堅調な経済で、グローバル化のなかで力をつけていることが確認される)。しかしそのいっぽうで、さまざまな危機(内戦、テロ、感染病など)によって、「アフリカ悲観論」が根強く残っている面もある。たとえば、開発問題の専門家セルジュ・ミハイロフは、著書『アフリカニスタン[アフガニスタンの過ちとアフリカを引っかけた造語]、アフリカの危機はわれわれの近くにもおよぶのか?』(2015年)で、地中海からそう遠くないサヘル地域[サハラ砂漠南縁部]で、貧困と暴力にあえぎながらも人口が爆発的に増えていることが、ヨーロッパにとって事実上の「爆弾」になっていると訴えている。

軌道と分岐点

本書では、データにもとづいた地図で、グローバル化のなかでの現在のアフリカの立ち位置を明確にしたいと思っている。現在の活力に満ちた状況は、アフリカ大陸のさまざまなレベル(国家、地方、大都市)で、軌道を多様化させるのには絶好だ。ちなみに、一部の国は新興国(南アフリカ、モロッコ)に組み入れられているのに対し、貧困と政治的な無秩序の負のスパイラルにおちいっている国(中央アフリカ共和国、ソマリア)もある。経済と人口、環境の動向が複雑にシンクロしているのである。

アフリカ経済の歩みはいたって遅い。人口の動向は、アフリカを専門とするイギリス人歴史家、ジョン・イリフェが強調するように(2009年)、鍵となるパラ―メーターの1つである。広大な空間を移動しながら暮らす、多いとはいえない人口に税を課すのが非常にむずかしいことから、アフリカの指導者は遠方との貿易を管理することで権力を築くことが多かった。それはたとえば、フランス人地理学者のロランプルティエが指摘するように、18世紀から19世紀に最盛期を迎えていた奴隷貿易である。これが先例となって、未加工の原材料(農業、鉱業、林業)の輸出に頼る資源依存型経済に踏襲され、19世紀終わりから、植民地時代をへて独立してからも実施されている。こうして、経済が原材料の世界相場に左右される脆弱な国家が生まれることになる。このようなやり方は、現在までのところ、多様な工程で経済全般を押し上げることができず、結果、より多くの人々の生活が持続的に向上する意味での発展からは見放されている。

1960年代の至福の時代(原材料の相場が高騰)のあとは、相場の下落で経済成長が失墜(1970-1980年)あした。つづく冷戦の終了(1990年)と、関連する支援の打ち切りなどで、アフリカの国々は貧困と政治危機のスパイラルにおちいり、各国は構造的な修正計画をよぎなく

された。次いで2000年から2014年にかけて、新たな好機が訪れる。中国の成長が世界の原材料相場を支えたのである。債務の帳消しと、新自由主義経済の改革(ゆるい税制と、法的な安全性)に引きつけられた対外投資が、とくに新興国(中国がいちばん目立つが、一国だけではない)から競ってつぎこまれた。くわえて、国外移住者からの送金や、グローバル化された金融が、合法違法にかかわらず流れてくる。この間、経済は成長して資金が流通、各国はふたたび開発計画をスタートさせた。しかし2014年以降は、景気循環の周期が短くなり、読みとりにくくなっている。Covid-19[新型コロナウイルス感染症]の影響で、とくに経済が打撃を受け、アフリカの成長は抑止され、政治の不安定化が助長されている。2022年初頭現在、ロシア・ウクライナ危機で世界に新たな衝撃をあたえていることもあり、その中期的な結果を判断するのはいっそうむずかしくなっている。

ところでアフリカの人口は、奴隷貿易や植民地時代の武力衝突などで減少していたのだが、第2次世界大戦以降、猛烈な勢いでとりもどしている。世界の人口転移の最新版では、アフリカ人は1900年には1億人だったのが、2000年には10億人になり、2050年には24億5000万人に達し、2100年に32億人から44億人のあいだで安定すると予想されている。都市化率も上昇している(人口に占める都市住民の割合は、1950年には14パーセントだったのが、2020年には43.5パーセント)。これらの変化は、かつてない規模とペースで起きており、好機をもたらすと同時に挑戦にもなっている。好機といえるのは、新興国を目ざすにはけた違いの消費とインフラ整備が欠かせないのだが、その点、都市化で経済力をつけた中流階級には相当の消費が期待できるからだ。そうなると、外部依存型経済[巻末用語]で貧困におちいってきた長い歴史とも決別し、大陸内部で生産性のある多様な分野に活路を提供する可能性も見えてくる総人口のなかで非労働力人口(15歳以下と、65歳以上)の割合が減少すれば、アフリカにもついに「人口ボーナス」期――労働力人口が増加して、消費や投資への購買力が高まり、経済成長が促進されること――が訪れることになる。そのいい例が、経済で急成長している中国だ。このシナリオでは、毎年、労働市場に参入する若い世代に見あう雇用が生まれることが想定されるのだが、そのいっぽうで、政治・社会が急激に不安定になるリスクもはらんでいる。これらをふまえたうえで、別の新たな開発軌道として考えられるのは、世界の投資をアジアからアフリカへ移動させ、安価な労働市場としては最後の鉱脈を発掘することで、産業に舵を切ってスタートすることだろう。この過程をふむと、都市部の新たなサービス業と、農村経済の多様化につながり、アフリカの農業と都市部市場の関係もより密接になるはずだ。

それにくわえて、人口の伸びで想定されるのは、環境との均衡を保ちつつ、増加した人口を養うために農業のパフォーマンスを向上させることである。そのためには、フランスの地理学者ジャン=ピエール・レゾン(1997年)や、農学者ミシェル・グリフォン(2006年)が強調するように、環境に配慮しつつ農作物の増産をはかる「緑の革命」が必要になるだろう。また一方で、アフリカ大陸の大半はいまだに農村部が貧困下にあることから、気候変動の影がよけいに重くのしかかっている。それによる結果はさまざま――その地域が乾燥化に向かうかどうかにより――であろうし、住民が気候変動に対応できるような設備にしても、いまだ確実なものはないのが現実だ。この不安を反映しているのが、2015年、国連の「ミレニアム開発目標」(MDGs)を受け継ぐ形で合意された「持続可能な開発目標」(SDGs)[2030年を目標]に、環境問題が統合されていることだろう。ちなみにこの重要問題は、2014年、「アフリカ連合」(AU-2001年に創設)に属する各国首脳が、前身「アフリカ統一機構OAU」の創設100周年を見越して合意した、長期的ヴィジョン「アジェンダ2063」にもしっかりと明記されている。

最後に、本書で使用した統計の出典についてひと言ふれておこう。強調したいのは、アフリカにかんする数字のデータでは信頼できるものがきわめて少ないことである。これは毎度のことなのだが、近年は状況が新しくなっている。実際に現在は、さまざまな組織が過剰なほどの統計的な情報を発信している。しかし、国連アフリカ経済委員会によると、アフリカで国際的基準に合致する統計を所有しているのはわずか12か国だけである。これでは情報は豊富でも、世界銀行チーフ・ディレクターのシャンタ・デバラジャンの表現を借りると、「アフリカの統「計学の悲劇」は防ぎようがないだろう。アフリカでは、統計にかける国家予算や調整能力不足、計算方法の変化などから、慎重に扱うべき統計がおろそかにされている事実がある。たとえば2013年、ナイジェリアではGDP国内生産が再計算されて89パーセント増となるなど2倍近くに上昇、一挙に南アフリカを抜いてアフリカ最大の経済国になったのだが、貧困度はいっこうに減少していないのだ。それでも、いまや豊富な情報があれば、それを地図にして、将来を展望し、アフリカのおもな動向を理解することは可能なのである。

人口動態――とりもどした人口と不確実性

人口転換の推移[死亡率と出生率の低下による少産少死型への移行]がもっとも遅れたアフリカ大陸では、20世紀後半以降、人口がめざましい勢いで増加している。なかでも若年層の伸びは、最近はややペースが落ちているとはいえ、大幅に増えつづけている。地域によってかたよりがあるのは、時代の変化に追いつけなかったことの反映だが、その問題はさておき、一部の状況で問われるのは、人口転換の普遍的モデルがはたして有効かどうかである。

歴史的なとりもどしと、人口増加による方向転換

1950年以降に観察される人口の伸びで、世界におけるアフリカの地位は変化した。1650年、アフリカ大陸の人口は1億人で、世界人口の20パーセント、インドや中国も同程度だった。1900年になっても、奴隷貿易による直接的、間接的な影響で、人口はいっこうに増加せず、植民地時代も武力衝突などで、人口は少ないままだった。1950年、アフリカの人口は世界人口の7パーセントだったのである。

死亡率が低下しはじめたのは、第2次世界大戦前の北アフリカと南部アフリカからで、ついでアフリカ全土で低下し、いった。おもな要因は、ワクチンが徐々に普及していったことである。いっぽう、世界でも突出して高い出生率の低下には、サハラ以南の国々では時間がかかっており、なかには中部アフリカのように上昇している地域もある。これは医療や社会的・経済的の進化のおかげである。

人口の平均増加率が最高に達したのは、1980年代のはじめ(年に3パーセント近くで、20年間で人口が倍増)以降はゆっくりと減少に転じ、2021年に2.6パーセントになって安定している。この上昇率はより多くの人口にかかわることから、まさに力強い人口増加といえるだろう。

こうしてアフリカの人口は、2021年現在で14億人(世界人口78億人の17パ―セント)。将来的な展望では、2050年には24億5000万人(世界人口97億人の25パーセント)となり、うちナイジェリアが4億人(2021年は2億1100万人)で、人口では世界第4位。エチオピアとコンゴ民主共和国も世界の上位10か国に入ると予想されている。

かたよった、不明確な人口転換

アフリカの人口転換の推移(死亡率と出生率の低下の時期的な遅れ)は、大陸全体が同じ段階にあるわけではない。北アフリカと南部アフリカは、ほぼ終わった段階だろう。人口の増加が非常に力強かったのは、1950年代から1980年代にかけてで、以降は足ぶみ状態になっている。合計特殊出生率[女性1人が15-49歳までに産む子どもの平均数]も、現在は女性1人につき子ども3人以下が多く(教育と女性解放のパイオニアであるチュニジアは2.1人)、出生・死亡数の差(自然増加)もゆるやかになっている(年に1.2から1.8パーセントの増加)。現在進行中の人口の伸びがみられるのは、おもにサハラ以南アフリカだ。歴史的に人口が少なかった中部アフリカは、2050年に向かって北アフリカを超えるはずである。その地域では、とくにコンゴ民主共和国などが、非常に高い合計特殊出生率(6人以上)を維持している。いっぽう、それよりも合計特殊出生率が高いのはサヘル地域[サハラ砂漠南縁部]の国々で、この点で長く世界記録を保持しているのがニジェール(6.9人)だ。

世界のほかの地域と同じように、合計特殊出生率の低下は発展と都市化の反映でもある。死亡率の低下と女子教育による意識の高まり、それ以外に、都市生活のむずかしさが出生率を下げている(家賃や教育、健康にお金がかかる)。その傾向がよくあらわれているのが、中程度に発展している沿岸の国々(ガボン、コ―トジヴォワール、ガーナ、ケニア)で、人口転換がより進み、そのなかでも変化の波はまず都市住民や、教育のある富裕層におよんでいる。

しかし、こうした人口転換はつねに円滑に進むわけではない。サヘル地域のように、全体的に死亡率も合計特殊出生率も低下しているものの、それらが互いに拮抗しているところもある。これは乳児の死亡率が依然として高く、それに社会的、経済的不安がくわわって、子どもを多く育てたいという欲求が維持されている結果である。同様に、ガーナやケニアなどの一部の国では、長く継続して家族政策がとられているにもかかわらず、合計特殊出生率の低下は遅々としている。アルジェリアでは、2000-2005年以降、合計特殊出生率がわずかに上昇し(2.4パーセントから2020年には2.8パーセント)、世界的なモデルの逆をいっているように見える。

若い世代の挑戦

2021年現在、サハラ以南アフリカ(南アフリカをのぞく)の人口の42パーセントは15歳以下で、25歳以下は3分の2を占めている。アフリカ全体をみると、65歳以上の高齢者は4パーセントだ。人口転換のかかわり方におけるズレは、年齢のピラミッドにもあらわれている。北アフリカでは、ピラミッドの下はどちらかというと圧縮しており、中央部がふくらみ、頂上もそれなりにふくらんでいる。いっぽう、西アフリカと東アフリカの国々では、ピラミッドの底辺は幅広く、頂上がとがっている。このような人口構成には重い結果がつきまとう。2010年から2012年にかけて、北アフリカで発生した民主化運動「アラ「ブの春」は、とくに人口の増加がきわだつ年齢層の雇用のむずかしさを浮き彫りにしている。いっぽうサハラ以南アフリカでは、出生率が上昇に転じた影響で、労働力人口率(15歳から65歳までの割合)はいまも伸びつづけている。このままいくと、サハラ以南の国々もいわゆる「人口ボーナス」期(投資と消費のための人口が多くなる)を迎えることになり、中国モデルを追随できそうだ。しかし、それには毎年、労働市場に流れこむ多くの若者たちの雇用を創出することが前提だ。ちなみに2015年に労働市場に新しく参入した若者は2200万人、2030年には3200万人になると想定されている。このような問題に挑むには、大陸をむしばむ社会的・政治的な不安定さが増大するリスクをおかしても、経済的に新しいモデルを生みだすことがぜひとも必要なのである。

教育は人口と開発の中心問題

アフリカの教育制度は、2000年代に大きく進化したにもかかわらず、そのパフォーマンスは低いままで、世界的レベルでも最低の位置を占めている。識字率がもっとも低いのはサハラ以南アフリカ(2019年度で、15歳以上の66パーセント)で、世界で読み書きができない若者(15歳から24歳)9900万人のうち、5000万人がこの地域である。若い世代の人口が増加しているアフリカでは、教育問題への挑戦が喫緊の課題になっている。

教育面でのかたよった進化

大人の識字率とその変化を見ると、対照的な状況が浮き彫りになる。この数十年で、アルジェリアは70から80パーセントに、ガーナは58から79パーセントに上昇したのに対し、その対極のギニアは40パーセントで頭打ち、ニジェールは35パーセントである。近代的な制度のなかで、アフリカの教育整備は相対的に最近のものである。この遅れは、同化とエリート主義を土台とした植民地時代の教育モデルでは教育の穴をうまく埋めあわせできなかったことで、現状の一部が説明できるだろう。教育現場での指導言語についての問題より実用的なヨ―ロッパ言語に対して、アフリカの言語を選択する正当性などが、定期的に議論になるのは別として、それでも、万人のための普遍的教育は20世紀のあいだにあらゆる地域で現実のものになっていた。

アフリカ諸国は、教育を支援する数々の計画を提示されたあとの2000年、ダカールで開催された「教育にかんする世界フォーラム」で、国連の「ミレニアム開発目標」をバッグボーンに、万人のための教育に沿った多くの目標[2015年まで]を目ざす取り組みに合意した。それでも、このアクションプランの結果はかんばしいものではなかった。サハラ以南アフリカは、初等教育の就学率ではもっとも高い数字をあげて進歩したのだが(1999年から2019年のあいだに59パーセントから85パーセントに)、しかし、都市と地方、富裕層と貧困層間のかたよりはいまも強く残っている。多くの国では、男子に比べて女子の就学率が低く、ニジェールやチャドでは、女子は初等教育の生徒数のそれぞれ46パーセントと44パーセントである。サハラ以南アフリカでは、男性の72パーセントが読み書きができるのに対し、女性はわずか60パーセントである。教育の質もまた問題で、アフリカ大陸の落第者率は記録的だ。初等教育のサイクルを終えた生徒の割合は、世界平均が83パーセントなのに対し、アフリカは60パーセント以下である。Covid-19[新型コロナウイルス感染症]のパンデミックは、就学に悪影響をあたえ、学校はほとんどの国で数か月、ウガンダでは2年近く閉鎖されている。

教育と養成は開発の中心問題

国家にとって教育制度への支出は、かぎられた予算や高い人口増加率からして、

質的にも量的にも、大きな挑戦である。1980-1990年の災害などによる10年間の危機のあと、アフリカへの貸付け投資はほかのどこよりも増加したのだが、予算全体をカバーするのはむずかしく、教育分野に投入された開発の公的援助の割合をみても、進展は見られない。

学校の建設と整備は問題を残したままである。生徒をとり囲む環境をみても、教員の養成はいきとどかず、報酬も少ないなど、同じく問題をはらんでいる。ちなみに、サハラ以南の国々では、教員1人に初等教育の生徒数は平均で42人、中等教育では25人(対して世界の平均は24人と17人)だ。このような状況を前に、宗教色のない、あるいは逆に宗教をうたう私立学校が増え(サハラ以南アフリカでは中等教育の生徒の20パーセント)、格差が広がるいっぽうの社会の上層階級や、差別化の要求にこたえている。

教育の発展にかんしては、高等教育や、専門職としての教員の早急な養成も問題として残っている。大学への入学者は急速に増えているものの、非常にかたよったままで、アルジェリアの若者の52.5パ―セントに対し、ブルキナファソの若者はわずか7.8パーセントである。いっぽう、学生数は増加していても、大学の施設は飽和状態で、ヨーロッパやアメリカの大学に匹敵するレベルにはなく(例外は南アフリカの大学)、アフリカの学生の20人に1人は欧米の大学に入学している。くわえて、失業は高等教育資格所有者にも重くのしかかり、一部は国外に移住しているのが現状だ。

キンシャサ――創造の熱気あふれるインフォーマルの中心都市

コンゴ民主共和国の地方都市かつ政治の首都キンシャサは、2018年度の人口は1300万人、世界のフランス語圏でもっとも人口密度の高い上位25都市の1つである。公的機関の管理が悪く、公共設備が不足しているにもかかわらず町が機能しているのは、もっぱらキンシャサ市民のおかげだ。多くは不安定な生活を送っているのだが、しかしエネルギーに満ちあふれ、それが首都の活力のもとになっている。

計画的な人種隔離から、制御不能の拡張へ

都市化された空間(2015年現在で約500平方キロメートル)は、当初マレボ湖[コンゴ川の中流に位置し、正確には川の広がった部分]に沿った広大な沖積平野に建設され、それから8から20パーセントの傾斜で標高700メートルまでだんだんと高くなる丘陵に広がった。

1881年、レオポルドヴィル[ベルギー王レオポルド2世の名から]という名で建設された町は、1923年、ボーマに代わってベルギー領コンゴの首都となり、1929年、首都機能が正式に移転された。当初は植民地の都市計画で、ヨーロッパ人の町と「原住民」の町は隔離され、あいだに管理設備のある中立地区があった。この人種隔離は、1950年代に新しい都市が建設されるとさらに強まった。

1960年6月30日の独立後は、中立地区での移動の管理は撤廃され、都市計画は名目だけになり、丘全体があっというまに長方形に分割された分譲地になった。このとき小区画を配分したのは「土地の長」[アフリカで雨乞いや豊作を天に祈る祈祷師]で、人口も都市空間も急増する状況のなか、恒久性のある住居(コンクリートブロック)が建てられた。こうしてキンシャサ(1966年に改名)の人口は、1960年には40万人だった(都市空間6.8平方キロメートル)のが、1975年には170万人(200平方キロメートル)、1984年には270万人(260平方キロメートル)、2005年には750万人(430平方キロメートル)になった。2030年には、2014年に計画されたキンシャサ都市戦略方針によると、人口がさらに密集して全体で1800万人(国連の予想では2200万人)、都市圏は860平方キロメートルになるとされている。

このような状況のなか、設備やインフラへの投資は、拡張しつづける都市に追いついていないのが実情だ。雨期になると丘陵や、洪水の多い地域に住む市民は浸食や泥流、洪水のリスクにおびやかされている。道路網は並以下で、アスファルト舗装は10パーセント、修繕もされておらず、鉄道の線路も機材も老朽化している。移動性はそこなわれ、市民の57パーセントは徒歩で往来、交通機関の不備が住民排除の要因になっている飲料水の生産も不十分(1人1日60リットル)なら、電線の引きこみ率も低く(40パーセント)、ゴミの収集場もめったにない。とくに、排水処理では下水道が1パーセントしかカバーしておらず、清潔でゴミ1つなかった1970年代、住民から「美しいキンシャサ」といわれていた町は、「ゴミ箱のキンシャサ」とさげすまれるようになった。それでも首都は、市民のエネルギーで活気に満ちているのである。

 映像を見ているとイスラエルが「乳と蜜の流れる」約束の地というのは本当にここなのか
「イスラエルを飢饉が襲い、ヤコブと息子たちはエジプトに逃れ、エジプトで宰相を務めていた11番目の息子ヨセフに救われた。しかし、ヨセフの死後、彼らの子孫は迫害されるようになり、400年にわたって奴隷にされた。そこで神は、アブラハムと交わした約束を、今度は、エジプトの砂漠にあるシナイ山でモーセに伝えた。神はモーセに、ユダヤの民は神が選んだ民であると告げ、「十戒」を与えた。これが、ユダヤ教の基礎となった。モーセは神の助けを得て、ユダヤの人々を奴隷の立場から救い出し、「乳と蜜の流れる」約束の地に移住させた。」

 神はどちらに約束の地を与えたのだろう。アラブ人なのだろうか、ユダヤ人なのだろうか。それとも、分かち合いの精神を学ばせるために、両方の民に与えたのだろうか。この土地の正当な所有者がどちらの民族なのかという問題は、人類史上、最も長く続く争いのもとになった。長期間にわたる宗教戦争や領土紛争にも発展し、争いは今日も続いている。 『137億年の物語』

 『現代イスラーム講義』

2023年10月24日 | 3.社会
東大塾『現代イスラーム講義』

世界に広がる預言者ムハンマドの一族「異」なるものへの共感

森本一夫東京大学東洋文化研究所教授

イスラーム史、イラン史専攻。なかでも預言者ムハンマド一族の研究を特色とする。東京大学人文科学研究科修士課程修了(東洋史学)博士(文学)東京大学東洋文化研究所助手、北海道大学文学研究科助教授などを経て現職にいたる。研究業績に『聖なる家族―ムハンマド一族―』(山川出版社、2010)『ペルシア語が結んだ世界もうひとつのユーラシア史―』(編著、北海道大学出版会、2009)、『シーア派の自画像一歴史・思想・教義-』(翻訳、慶應義塾大学出版会、2007)などがある。

はじめに

第3講の講義を担当する森本一夫と申します。私は、自分にとっては「異」なるものであるムスリム諸社会の歴史を、「異」なるものに対する好奇心に突き動かされながら、しかし同じ人間の営為として共感的に見るという姿勢を大事にしつつ、研究している者です。専門分野は歴史です。こういう私ですから、今日はまさに、一見物珍しい「異」なるものも子細に見ていくとどんどん身近に感じられるようになる。自分と同じ人間の営為なんだなあと共感が湧いてくるという、そういう体験を皆さんにしていただこうと思っています。「イスラームとどう付き合うか」というテーマの連続講義に参加されているのですから、皆さんご自身も私と同様ムスリムではない。外部から「イスラーム」という対象を眺めるという立場でおられるという前提でお話しさせていただきます。「異」なる部分は確かにある。しかし、同じ人間の営為である限り共感的に理解できる道筋はいくらでもある。この当たり前の陳腐なことがこの講義のメッセージということになります。しかし、ことイスラームに関する限り、教養豊かな受講生が集まるグレーター東大塾というような場においてさえ、この陳腐なことが繰り返し強調される必要があるというのが、日本で一般的なイスラーム認識についての私の現状理解です。

講義の主役はイスラームの預言者ムハンマドの一族だと称している人々です。いま現在、世界中にはムスリムが18億から19億人くらいいると言われていますが、そのなかにはこのムハンマド一族を称する人たちが、確実に数千万のオーダーで存在します。億を超える可能性もあるかもしれません。預言者の一族というと、ムスリムの間にごくごく少数そのような立場を称する人がいるという話だとお考えになるかもしれませんが、そういうことではないのです。この非常に広範な現象が今日の主題です。預言者の一族とされる人々が多数存在し彼らの血統が特別視されているということは、明らかに我々にとっては「異」なることでしょう。しかし、特別な血統という言説それ自体、あるいは特別だとされる血統が存在するときにそれをめぐって起こる人間模様は、多分皆さんにも身近に感じていただけるものなのではないかと思っています。例えば、ムハンマド一族に属していると特権に与ることができるということを知った上で細かく見ていくと、そこには、では誰がムハンマド一族で誰がそうでないかという問題をめぐるかなり泥臭い人間的な営みがあるわけです。

話の進め方は以下の通りです。まず、講義の前半では、ムハンマド一族とは具体的にどのような人々なのか、そうした人々はどのような理屈にもとづいて特別な人々として遇されているのかを説明します。この部分では、目新しいものに対する好奇心を全開にして、なんと世界にはそんなことがあるのかと、「異」を知ることを楽しんでいただければと思います。その上で、講義の後半では、前半でその俯瞰図をお示しした「異」なる現象の細部のいくつかにズームアップし、そこで起きてきた、またいまも起きている、人間的な営みについてお話しします。後半はしたがって、うわー、自分がこの人の立場でこのルールのこのゲームに参加していたとしたら絶対同じようにプレイするな/しないなというような、共感的な姿勢で聴いていただければ、私の狙いはうまくいったことになります。

世界に広がる預言者ムハンマドの一族

なお、以下で「ムハンマド一族」というとき、それは大方の含意としてはムハンマドの直系の子孫とされる人々を指しているとご理解ください。次の「ムハンマド一族の面々」で触れる人たちは、実際全てムハンマドの直系の子孫と称している人たちです。では、なぜムハンマドの子孫と言ってしまわないかというと、そこにはすでに、子孫こそが一族だという意見と一族はもっと広い範囲の親族を含むのだという意見の対立という人間的な営みが関係しています。これについては、また講義の後半で説明することといたしましょう。

1 ムハンマド一族の面々

過去に生きた、そして現在を生きているムハンマド一族の人々を見回し、預言者につらなるこの血統の広がりを確認するところからお話を始めたいと思います。最初にとりあげるのはヨルダンの国王アブドゥッラー2世です。ヨルダン王家は、第一次世界大戦中のオスマン帝国に対するアラブ大反乱(映画『アラビアのロレンス』の舞台となった反乱)を率いたメッカ太守の子孫です。メッカ太守の家は12・13世紀の交から1925年までイスラーム第一の聖地を支配し続けてきた超名門なので、アブドゥッラー国王はその超名門を通じた預言者の直系の子孫ということになります。アブドゥッラー国王のお母さんはイギリス出身で、前王との結婚前はクリスチャンだった方ですが、血統は父方が繋がっていればいいのでこれはムハンマド一族を称する障害にはなりません。

ヨルダン政府は2004年に「アンマン・メッセージ」というものを出していて、スンナ派やシーア派、またその他のイスラーム諸派に対し、同じムスリムとして手に手を取り合って平和的にやっていくことを呼びかけています。ここで面白いのは、なぜヨルダン政府がそうしたメッセージを出すのかという説明です。メッセージのなかでは、ムハンマド直系の子孫である我が王家には、イスラームに関わる事柄についてイニシアティブを取る責任があるのだとはっきりと述べられています。この一例だけからも、ヨルダン王家にとって、ムハンマド一族の血統はただのお飾りなのではなく、実質的な意味をもっているということがお分かりいただけるでしょう。

ブルネイ・ダルサラーム国の現国王(スルタン)、ハサナル・ボルキア国王もムハンマド一族の血統を称しています。ブルネイではいまに続く王家が14・15世紀に支配を固めるのですが、比較的初期のうちに、アラブ圏からやってきたとされるムハンマド一族の人物が王家に婿入りし、王家はそれ以降ムハンマド一族の血統を称しています。世界を見回すとき、王様というものには何らかの聖なる後ろ盾があるとされるのが普通で、マレ一世界にも王権と聖なるものを結びつけるマレー世界独自の理論が存在するのですが、イスラーム化に伴いムハンマドにつらなる血統も意味をもつようになっているわけです。

二人の国王とは大分趣きが変わりますが、いわゆるイスラーム国(IS)のリーダー(講義当時)、アブー・バクル・バグダーディーがムハンマドの子孫を称していることにも触れておきましょう。これは、彼がムスリム共同体全体の指導者を意味するカリフの位を称していることと関係していると考えられます。明確な規定によってそれが条件とされているわけではありませんが、預言者ムハンマドの権威を引き継ぐカリフにはムハンマド族出身者がふさわしいという考えがそれなりに広く受け入れられているからです。ムハンマド一族の血統という問題は、実は直近の時事ネタにも深く関係しているのです。

さて、ISがとくに敵視している相手の一つがシーア派(ここではシーア派のなかでも十二イマーム派を含意以下同様)です。イランの最高指導者アリー・ハメネイ師と言えば、そのシーア派世界の重要人物ですね。彼の前の最高指導者は、皆さんもっとよくご存じかと思いますが、ルーホッラ・ホメイニ師でした。この二人もムハンマド一族の血統を称しています。最高指導者になる資格としてムハンマド一族の血統が定められているわけでは決してないのですが、少なくともホメイニ、ハメネイという2代の最高指導者については、彼らがムハンマド一族に属していることがその権威を高める一要素となってきたと言って間違いないでしょう。

このように、イスラーム圏の政治指導者をザッと見回してみただけでも、ムハンマド一族の血統を称している人々がそれなりにいることが分かります。他にもモロッコ王家がムハンマド一族の血統を称しているのは有名です。以上からは、また、ムハンマド一族を称す人々がイスラーム圏のさまざまな場所に、またイスラームの二大宗派であるスンナ派とシーア派の両者にまたがって、生きていることも分かります。

次に宗教指導者の例を見てみましょう。イスラームについて語るときに政治指導者と宗教指導者を端から別のものとして話を進めてしまうのは方法として決して正しくはないのですが、ここで宗教指導者というのは政治的には目立った活動をしなかったタイプの宗教指導者を含意するということでお許しください。先の政治指導者というのも同様にゆるく理解していただけると幸いです。宗教指導者の間にもムハンマド一族を称する人たちがたくさんいます。図2はインドで買ったポスターの一部ですが、描かれているのは12世紀のイラクで活動した聖者、アブドゥルカーディル・ジーラーニーという人物です。一般にムハンマド一族出身とされています。ここでジーラーニーを出したのは、しかし、単に宗教指導者の一例としてのジーラーニーがムハンマド一族出身と理解されていることをお伝えしたかったからではありません。彼の例は、ムハンマド一族とされる家系には、同じくムハンマド一族とされる聖者を通じて血統を主張している例が数多く見られるという、もう一つの広範な現象をお伝えするのにちょうどよいのです。聖者ジーラーニーの子孫たちは、往々にして、イスラーム神秘主義(スーフィズム)教団の一つでジーラーニーの衣鉢を継ぐとされるカーディリーヤで指導的な立場にありました。そして彼らは、カーディリ―ヤの発展と歩を合わせるように各地に移住していったのです。その結果、仮に本人は宗教指導者としての役割を果たしていなかったとしても、聖者ジーラーニ一の血統とムハンマドの血統を合わせもつ人々が、それこそ西はモロッコから東はインドネシアまで広く見られるようになっています。このような、ムハンマド一族の血統を称す聖者を先祖とする二重の意味での聖なる家系は、さまざまな場で見ることができます。

さて次の図3ですが、これはイランのサーヴェという町の墓地で撮ったものです。この人は家族の墓参りに来た人からお金を取っては、供養のためにと言っていいでしょう、墓に向かってクルアーンだか祈疇の文句だかを詠んでいました。普通に考えて、豊かな、あるいは社会で指導的な立場にある人とは言えないでしょう。慎ましい生活をおくる人の日銭稼ぎと考えるのが自然かと思います。ムハンマド一族は、ここまで見てきたような社会の指導層に見られるだけでなく、こういう人たちも含んでいるのです。しかもこの場合、家族のお墓にお参りに来た人たちにとって、この人がムハンマド一族の一員だということには明らかに意味があります。お金を払って宗教的なテクストを詠んでもらう際、ムハンマド一族の詠み手とそうでない詠み手がいるならば、人情としてはやはり一族の人に頼みたいということになるわけです。このように、ムハンマド一族の人々は、単に庶民や貧しい人々の間にもいるというだけでなく、そのような人たちにとっても彼らが帯びている血統が得になる場面があるのです。一国の指導者からお墓のクルアーン詠みにいたるさまざまな社会階層の人を含み、しかもそうした人々それぞれが置かれた状況に応じて意味を発揮しうる血統。ムハンマド一族の血統がもつ面白さがここにあります。

さてしかし、家族の墓参りに来た人たちは、どうしてこのおじさんがムハンマド一族の一員だと分かるのでしょうか。すでにお分かりかもしれませんが、実は、このおじさんが被っている緑の帽子と肩にかけている緑のショールは、イランでは誰もがそれと理解するムハンマド一族の印なのです。おじさんは、自分はムハンマド一族だよと一目で分かる格好をして墓地で客待ちをしていたのです。イランでは、シーア派のお坊さんの場合、黒のターバンがムハンマド一族の、白のターバンがそうでない人の、印になっています。お坊さんの場合、お坊さんとしての正式な服装をすれば、否応なしにムハンマド一族かどうかが外見的に示されるということになります。それに対しお坊さんでない場合は、このおじさんが身につけているような、はっきりした緑色をしたいくつかの特定のアイテムが印となります。こちらは全くの随意で、自分の血統を外見で示したいと考える人だけが使うものになります。帽子とショール(首に巻いたり首や肩に掛けたりする、あるいは腰に巻くこともある)が代表的なものです。緑色は天国の住人の衣の色ともされ、一般にイスラームを象徴する色と考えられている色ですが、このように、ムハンマド一族の人々が一目見ただけでそれ以外の人々と区別されるような格好をしていることはかなり広く見受けられることです。図4は、16世紀末のオスマン帝国に暮らしたムハンマド一族の人々を描いたものですが、ここでも彼らが緑のターバンを被っているのが分かるでしょう(本をお読みの方は挿図を白黒でご覧かと思いますが、4人のターバンはす)。そしてもう一つ、ターバンの下から伸びている二筋の髪の房にも注目してください。この二筋の髪の房というのも、いまではどうも廃れてしまったようですが、昔はムハンマド一族であることを示す印として広く知られたものでした。

ムハンマド一族を他と区別する手段としてもう一つ大事なのは、彼らだけに使われる特別な呼び名です。例えば彼らは、モロッコでは一般に「シャリーフ」と呼ばれます。「高貴な人」という意味です(女性の場合はシャリーファ)。南フィリピンなどではこれがなまって「サリップ」となるようです。同様にイランではアラビア語の「サイイド」(女性形は「サイイダ」)がペルシア語になまった「セイイェド」が使われます(インドでの「サイヤド」というのも同じ)。このうち「サイイド」という称号について言うと、これはアラブ圏でもそれなりに広く使われていたのですが、20世紀に入ってからムハンマド一族を特別視するのはよくないという主張が言論界で力をもつようになった結果(この動向については講義の最後で少し説明します)、我々が教科書で学ぶような標準アラビア語ではムハンマドー族の意味では使われなくなり、ただの「ミスター」という意味で使われるようになってしまいました。したがって、イランで誰かが私に「セイイェド森本」と呼びかけたとすると私は「いやいや私はムハンマド一族ではありません」と言わないといけないのに対し、ヨルダンで誰かに「サイイド「森本」と呼ばれても問題ないという、やや混乱した状況が生じています。あと、私が「サイイド」と言うと意外と多くの方が「あっ、私も一人知っている」と、オリエンタリズム批判で有名なエドワード・サイードの名前を嬉しそうにおっしゃるのですが、残念ながらこの二つの単語は別物です。「サイイド」はアラビア語のローマ字転写ではsayyid、サイードの方はsaidで、似てはいるのですが別物です。ちなみに「サイード」の方は「幸せな」(形容詞)、「幸せな人」(名詞)というような意味です。

2ムハンマド一族を支える考え方 せーら

世界のムスリムの間にかなり多数のムハンマド一族とされる人々が、しかも社会のさまざまな場所に散らばる形で、暮らしてきたことがお分かりいただけたと思います。では次に、彼らの広範な存在を支えている、ものの考え方を見てみましょう。こうした現象は、ムハンマド一族の血統には意味がある、血統をもつ人は他の人とは違う、という考え方があってはじめて可能となったと考えるのが自然でしょう。主張しても誰も何とも思ってくれない血統であったならば、これほどの広がりを見せることにはならなかったと考えられます。皆が皆そう思っているわけではないにしても、ある程度は人々に特別だと認められていなければこういう状況にはならなかったでしょう。では、ムハンマド一族の人々はそれ以外の人々と何が違うとされているのでしょうか。以下では彼らにはそれ以外の人々にはない「ありがたさ」が備わっているという考え方と、彼らには他の人々はもたない、他の人々に対する権利があるという考え方の二つに分けて説明したいと思います。

まず、ムハンマド一族のありがたさですが、これには聖典クルアーンそれ自体に根拠があるとされます。最もよく知られているのが「アッラーはただ、この家のものたち(よ)、おまえたちから汚れを取り除き、そしておまえたちを清らかに清めたいと欲し給うのである」という章句です(33章33節;中田考監修『日亜対訳クルアーン』より)。この章句は、「家のものたち」が「ムハンマドの家のものたち」、さらには「ムハンマドの一族の者たち」と解釈され、ムハンマド一族が神によって「汚れを取り除」かれ、「清らかに清め」られた人々であることを示すものと解釈されます(他の解釈もあるのですが、そのことには後に触れます)。神によって汚れを取り除かれ、清められたというのですから、これはムハンマド一族の者たちが他の人々には及びもつかない神与の清らかさをもった本性的にありがたい人々であることを意味するということになります。ムハンマド一族のありがたさに関する議論のなかには、この章句にもとづき、ムハンマド一族の者はその本性的な清らかさによって、現世で罪深い人生をおくっても最後にはその罪はぬぐい去られ地獄に行くことはないと主張するものさえあります。また、さまざまな罪を犯すムハンマド一族出身の者をどぶに落ちた金貨に喩えた論者もいます。どんなに泥が表面を覆い尽くしたとしても、それは金貨の輝きに少しの影響も与えるものではないというわけです。また、一般信徒の日常的な実践というレベルでは、例えばムハンマド一族の人々には病を治す力があると信じられているケースがあることが指摘できます。そういう場合に、そう信じている人をつかまえてあなたのその信仰の典拠は何ですかと問うても、まあ大半はポカンとされるだけでしょう。しかし、そのなかにそれなりの宗教教育を受けた人がいた場合に、その人がこの章句に言及しながら自分の信仰を説明したとしたら、それはいかにもありそうなことだと思います。「清らかさ」は、広く聖性一般に敷衍可能なものと観念されているのです。

ムハンマド一族のありがたさは、彼らには信徒たちを導く使命が与えられているという意味でも主張されます。この主張がなされる際に最も頻繁に典拠として引かれるのは、ムハンマド自身が語ったとされる、私の死後、信徒たちはクルアーンと私の一族に従っていれば道を踏み外すことはないという言葉です。他にも、私の一族はノアの箱舟のようなもので、それに乗った者は救われるが乗らなかった者は滅び去るという内容の言葉も伝えられています。なお、ムハンマドの言とされるこうした伝承はハディースと呼ばれ、クルアーンにつぐ典拠性をもつとされています。

ムハンマド一族のありがたさに対する信仰は、彼らがムハンマドといったさらにありがたいご先祖さまたちと時空をこえた超自然的なつながりをもつとされることにも及びます。一般信徒向けに説教の会などで語られてきた逸話のなかにはムハンマド一族に対しどう振る舞うべきかを説いたものがあるのですが、この考えはそうした逸話のなかにとくにはっきりと現れています。ムハンマド一族の者たちに対して善行を行った人が、夢、あるいは覚醒時のヴィジョンに現れた預言者などムハンマド一族のありがたい始祖たちから褒美を与えられる、逆に、ムハンマド一族の者にすげない態度をとった人がそうした始祖たちからつれない態度をとられてしまう、というような逸話が多く見られるのです。歴史的に見ればとうの昔に亡くなってしまっているといっても、ムハンマドなどのありがたい始祖たちはこの世界とは次元の違う不可視界と呼ばれる世界で自分の一族のことを見守っており、夢やヴィジョンを通じてこの世のできごとにも介入してくることがあるというわけです。

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『社会学の歴史Ⅱ』

2023年10月18日 | 3.社会
『社会学の歴史Ⅱ』

他者への想像力のために

社会学者は社会のなかでなにを問い、新しい社会学の言葉をどう紡ぎ出してきたのでしょうか。20世紀後半から現代へとつながる社会学の歴史を、大学生への講義ライブというかたちで解説。私たちがいま直面する「社会という謎」を考えるための必読書。
ニクラス・ルーマン

ふたたび、社会という謎

きょうの最終回は、ニクラス・ルーマンについて講義します。ルーマンは、第9章でも触れたように、シュッツの現象学的社会学を独自の形で導入して、パーソンズの理論を反転させる斬新な社会システム理論を創造しました。その基本的着想は、世界は「他でもありうる」という可能性にあると思います。この考えからは、いまの社会はたまたまのものだという無根拠さと、社会は別の姿になることができるという希望を引き出すことができるでしょう。

彼が切り開いた、まったく新しい「社会学的想像力」とはどのようなものなのか。それは、ただ社会学理論を革新するだけでなく、2020年代を生きる私たちがいま直面し、翻弄されている「社会という謎」を考えるための力強い道具を与えてくれるように思います。

1はじめに

●社会は人間から成り立つのではない

「全体社会」の理論?

みなさん、こんにちは。前回の講義から思いもよらぬ休講が続きました。新型ウイルスの影響で、きょうはオンラインでこの講義をお届けしています。こんな形の授業になるとはまったく想像していませんでしたが、みなさん聞こえているでしょうか(読者のみなさんは、時間の流れがおかしいなと思うかもしれませんが、大目に見てください!)。しかもきょうは最終回.じつに難解なニクラス・ルーマンを論じる回です……。

でも、この講義を準備していて、いま目の前で起きている事態をルーマンの社会学ほど正確に描き出すものはないのではないかとも感じています。彼は1998年に亡くなりましたが、その20年以上後の社会を驚くべき精度で予言し、腑分けしているように思うのです。

まず彼の主著のひとつ、1997年の『社会の社会』から引用してみましょう。冒頭の章「全体社会という社会システム」の開始すぐ、ルーマンはこれまでのところ社会学は「全体社会(Gesellschaft)の理論に関して言えば、ある程度満足できる成果すら提出できなかった」と述べます。「古典的な社会学」(デュルケームやヴェーバーやジンメルが含まれます)も、「目下のところ存在する唯一の体系的な社「会学理論」であるパーソンズによる「行為システムの一般理論」も.「理論的に基礎づけられた近代社会の記述」をできていない。全否定です。なぜそんなことになってしまったのか。

彼は、次の4つの前提が認識の障害となってきたからだといいます。すなわち、

1全体社会は具体的な人間から、また人間の間の関係から成り立っているはずである。

2したがって全体社会は人々の合意つまり意見の一致と目標設定の相補性を通じて構成されており、また統合されているはずである。

3全体社会は領域や領土によって境界づけられた統一体である。したがってブラジルはタイと異なる全体社会であるし、アメリカ合衆国はロシアと異なるし、ウルグアイはパラグアイと異なっているはずである。

4それゆえに、全体社会は人間集団や領土の場合と同様に、外から観察することができるはずである。(『社会の社会1』、11頁)

の4つです。これを見て、どうでしょう。3は、社会を国民国家の枠組みでとらえてはいけないという、しばしば主張されることかもしれません(ウォーラーステインも賛成するでしょうね)。4は、社会を観察する社会学者は社会のなかにいることしかできない、とはっきり言語化している、ということだと思います。

でも、1は「社会は人間とその関係から成り立つ」という前提です。これが障害となって社会の理論が阻まれてきたとしたら、どんな認識から出発したらいいのでしょう。「古典的社会学」は個人と社会の関係、人間と人間の関係をひとつの焦点にしてきたわけですが、社会は「人間」から成り立つのでないのなら、いったいどう考えたらいいのか。2は、パーソンズが論じたような、人間と人間の「合意」や「共通価値」が社会を支えるという前提への疑問です。でもそうだとしたら、なにが社会を社会として成り立たせるのか。

ルーマンは、こう述べます。「以下の研究では、こういったラアンチ・ヒューマニスティックディカルに反人間中心主義的で、ラディカルに反領域主義的で、そしてラディカルに構成主義的な社会概念への移行をあえて試みる」。――「人間」を中心にしない社会学をあえて試み、そこから「社会とはなにか」を考え直す。じつにラディカルな問題設定です。

でもそんなことどうしたらできるのか。この章でのルーマンの答えを予告的に述べておきましょう。「合意による統合が、全体社会を構成するだけの意義を有していると、そもそも考えてよいのかどうか。むしろこう仮定するだけで十分ではないのか――コミュニケーションが独自のかたちで・・・・・・続いていく中で、同一性、言及されるもの、固有値、対象が産出されていくのである、と」。コミュニケーションが接続することが「社会」である。この考えからは、ヒューマニズム「《人間中心主義》は••••••難破する。・・・・可能性として残されているのは、身体と精神を備えたまるごとの人間を、全体社会システムの環境の一部分と見なすことだけである」。そして、「人間はコミュニケートできない。コミュニケートできるのはコミュニケーションだけである」。――人間は社会システムの「環境」である?コミュニケーションだけがコミュニケートできる??

ちょっと急ぎすぎですね。きょうの講義はルーマンの大胆な構想を、私が理解できる範囲で伝えようとするものです。ただ、いまこのオンライン画面を通して行っている授業は、ルーマンのいう「社会」と似ているようにも思います。いまは一方向的に私が話していますが、ディスカッションを始めると私とみなさんの発言や表情の画像が画面上に次々と「接続」して、「社会」のようなものができるでしょう。そして、私とみなさんそれぞれの「身体と精神を備えたまるごとの人間」は、この画面=社会の「外」にある。画面上のコミュニケーションが「社会システム」、その外にいる「人間」は「環境」。こう考えると、少しだけイメージできるかもしれません。

もうひとつ、彼は晩年にエコロジーやリスクを論じ、「社会システム」がその「環境」とのあいだでどんな危機に直面し、それにどう対処するか(対処できないか)を鋭く描いています。そこには、このオンライン授業を生むことになった現代社会の特徴を考える重要な手がかりが含まれていると思います。講義後半では、こうしたアクチュアルな論点にも触れたいと思います。

生涯

ルーマンは1985年の「伝記姿勢、そしてカードボックス」というインタビューで「伝記というのは偶然の集成です」と語っています。「偶然」という言葉もきょうのキーワードのひとつですが、このインタビューをもとにその生涯を見てみましょう。

ニクラスルーマン(NiklasLuhmann)は、1927年12月8日ドイツ北部のニーダーザクセン州リューネブルクで生まれました。父は高等教育を受けておらず、祖父から醸造と麦芽製造工場を引き継いだ人(いつも厳しい経済状態だったとのこと)。母はスイス人でホテル経営の家系出身で、ルーマンの兄弟2人も大学に行っていません。ただ寛容な両親で、好きなことを自分で決定できたと彼はいいます。

1943年、ルーマンは15歳で高射砲部隊補助隊員として動員され翌年末に入営、第二次大戦の最前線に送られますが、捕虜となってフランスの収容所で強制労働に従事します。ドイツ敗戦時17歳だった彼は、「以前も以後もすべてが正常のように見えたのですが、すべてが別のようになり、そしてすべてはそのまま同じものでした」と感じます。敗戦後「すべてが自然に正常になるだろう」という希望に反して、彼は9月までアメリカ軍の捕虜収容所に収容されます。「私がアメリカの捕虜収容所で体験した最初のことは、私の時計を腕から剥がし取られ、殴られたことです」。ナチズムは終わりましたが、他でありうる可能性と思っていた別の世界はなにも変わらなかった。「私は1945年以後、単純に失望したのです」。

ルーマンは1946年からフライブルク大学で法学を専攻し、比較法に興味をもちます。もともと弁護士志望でしたが、卒業後弁護士事務所で司法研修生として働く時期に、上司の不当な要求を断れないのが嫌だと考え、「もっと自由があると思われた」役所に入ります。1954年リューネブルクの上級行政裁判所で行政裁判判決用参照システムの組織化に従事、裁判所長官の秘書としても働き、1955年にはニーダーザクセン州政府の文化省に入ってナチス時代の損害の著作目録で単行本72冊、論文他465点(1)という彼の仕事をどう扱えばいいのか。本章では思い切って『社会システム』前半と『社会の社会』のひとつの章に焦点を絞ろうと思います。じつは、助走として1968年の『信頼—社会的な複雑性の縮減メカニズム』を紹介することも考えたのですが(シュッツとの関係の理解にも有用で、コンパクトなルーマン入門書としてお勧めです)、『社会システム』との重複もあり長くなりすぎるので、残念ながらカットします。以下、彼の社会学がどのように視界を反転させ、どんな新しい地平を切り開くのか、見ていくことにしましょう。

 2012年『137億年の物語』より
『モーセは神の助けを得て、ユダヤの人々を奴隷の立場から救い出し、「乳と蜜の流れる」約束の地に移住させた。
アブラハムの長男イシュマエル (ハガルの息子)は、旧約聖書からは早々に姿を消すが、 本書では、後に重要な役割を演じることになる。イシュマエルも12人の息子を授かり、その子孫がアラブ人だとされているのだ。
それでは、神はどちらに約束の地を与えたのだろう。 アラブ人なのだろうか、ユダヤ人なのだろうか。 それとも、分かち合いの精神を学ばせるために、 両方の民に与えたのだろ うか。この土地の正当な所有者がどちらの民族なのかという問題は、 人類史上、最も長く続く争いのもとになった。長期間にわたる宗教戦争や領土紛争にも発展し、争いは今日も続いている。』

 vFlatはこれだけ 波打っても読み取ってくれるありがたい
 トークはてれさにした

『インド』

2023年10月15日 | 3.社会
『インド』

グローバル・サウスの超大国

人口大国若い人口構成、人材の宝庫

1人口増加の内幕

インドの人口増加率の推移

インドは14億1200万(国連の報告書による2022年時点の推計)の人口を抱える人口大国である。1947年の独立当時に4億5000万であった人口は99年に10億を超し、その後も増え続けて、現在は独立時の人口の3倍強になっている(図4-1)。

2023年1月には、インドの人口がすでに中国を上回って世界最多となった可能性が大きいと世界的に報道された。インドの国勢調査は1年以来行われていないため、正確な人口統計の把握は難しいが、中国政府が22年末の人口が前年末より56万人減って14億1175万人になったと発表したことから、インドの人口が推計ベースで中国を上回っていると見られたのである。

国連が2022年に発表した報告書の予測によると、2050年にはインドの人口が1億6800万、中国の人口が1億1700万と、かなり大きな差がつく。同年の世界の総人口は9億人と推測されており、世界人口の5・8人に1人がインド人、7・4人に1人が中国人ということになる。国連の予測の中位推計によると、インドの人口は50年代後半に16億人強のピークを迎え、その後減少に転じて、2100年頃に約15億人に落ち着く見通しである。

このように、現在もインドの人口は増加し続けているが、人口の増加率」はすでに減少に転じている。インド保健家族福祉省が2022年に公表した「全国家族健康調査(NFHS)」によると、インドの合計特殊出生率(1人の女性が生涯のうちに産む子供の数の平均)は2・0と、人口増減がない状態となる人口置換水準の2・16~2.0を下回った。NFHSによると、1992~98年、98~99年、2005~10年、15~16年、1~2年の合計特殊出生率は3・4、0と低下していたが、コロナ禍が一段落した20年に低下が落ち着いたと見られている。

人口動態は出生率、死亡率によって決まるが、一般に経済発展とともに死亡率の方が出生より先に低下し始めるため、人口増加率はある時期まで増加してその後減少に転じる。ンドの出生率(合計特殊出生率とは別で、その年に生まれた人数を全人口で割った1000人当たりの人数)は1960年に2・0、80年に360・2、2000年に2・4、20年に17・4と低下し続けており、1000人当たりの死亡率も1960年に2・2、80年に1・3、2000年に8・7、20年に7・3と低下している。出生率と死亡率の差が最も大きかったのは1980年代初頭で、この時期がインドの人口増加のピークであった。死亡率の低下とともに、平均寿命も60年4歳、80年34歳、2000年66歳、20年70歳と順調に伸び続けている。その結果、将来的にはインドでも高齢化の問題が生じることになると考えられるが、現状では問題視されていない。

「人口ボーナス期」と雇用問題

インドは若い国である。その人口の3人に1人は10歳から24歳の間にあり、人口ピラミッドは日本とは違う綺麗なピラミッド型である(図4-2)。現在のインドは所謂「人口ボーナス期」の真っ只中にあり、出生率の低下による生産年齢未満の若年人口比率低下とともに、従属人口(15歳未満の年少人口と65歳以上の老年人口の合計)の比率が減少して、15~64歳の生産年齢人口比率が上昇している。

国連によると、今後30年間に世界の労働市場に参加してくる年齢層の22%がインド人であると予測される。2003年の「BRICsレポート」をきっかけにインド経済が注目されるようになった理由の一つにも、この若い人口構成があった。

国連の推計によると、2021年から4年の20年間に、インドの人口の2人に1人が労働人口となり、インドの「人口ボーナス期」は2040年代前半から後半まで続くが、40年代後半には「人口オーナス期」に入る。これは、40年代後半になって、ようやく生産年齢人口の従属人口に対する比率が減少に転じることを意味する。

日本や韓国、台湾、中国といった東アジア諸国が「人口ボーナス期」に高い経済成長率を実現できたのは、生産年齢人口に対して十分な雇用創出が、製造業を中心になされたことが大きい、この「人口ボーナス期」を東アジア諸国と同じように有効に活かすことは、インドの経済発展にとってきわめて重要である。製造業はとりわけ雇用吸収力が大きいため、モディ首相が「メイクン・インディア」「自立したインド」と題して国内の製造業育成に力を入れているのも、そうした理由によるところが大きい。

人口抑制策

ンドの人口抑制政策は1950年代から導入されてきたが、その道のりは平坦でなかった。76年から77年、当時のインディラ・ガンディー首相と次男サンジャイ・ガンディーが強制的に避妊手術を推し進め、それまでの3倍に及ぶ800万人が避妊手術を受け、うち600万人の男性がバイブカット手術を受けた。数値目標達成のために当局にはノルマが課せられ、警官が貧しい人々を捕えて、強制的に避妊手術を受けさせることさえまかり通った。当然のことながら、これは国民の反感を買い、1977年の総選挙における与党の大敗にもつながった。その結果、直接的な人口抑制政策はインドの政治で触れられにくい、タブーに近い問題となった。

こうしたことから、インドでは人口を抑制するために避妊を推し進めるのではなく、女性の教育や保健政策といった間接的な効果にゆだねるやり方が一般的となった。成功例としては、1970年代のケララ州で、州政府が教育と公衆衛生に力を入れたことにより、出生率転換がいち早く始まった。ケララ州でとりわけ注目されるのは、女性の教育水準の高さで、女性の識字率9割は他の州を大きく上回る。

ケララ州のこの流れは、その後他の州にも波及していった。とりわけ南インドでは北インドに比べて教育水準が高く、農村部での医療の質も高いため、出生率を下げやすかった。これに比べて、北インドでは人口抑制が遅れがちであった。とりわけインド中部から東部にかけてのウッタル・ブラデシュ州やビハール州では深刻で、多くの女性は教育らしい教育を受けないまま、法律で婚姻が認められている18歳になる前に、親の決めた男性と結婚することが多かった。しかし、今世紀に入ると北インドでも合計特殊出生率が置換水準を下回る州がいくつか出てきており、徐々にではあるが、教育の普及が人口抑制につながりつつある。

女性教育の推進は、間接的に避妊具の使用比率上昇にも結びつく。インド政府の調べでは、避妊具を使う女性の比率は66%へと増加しており、この数字はバングラデシュやネパールやインドネシアにはまだ劣るものの、上昇傾向にある。女性の教育は児童婚の比率の減少にもつながり、それは合計特殊出生率の低下にも貢献している。

南インドで低い人口増加率

インドのように巨大な国では、地域間、都市農村間、宗教間で、それぞれ人口増加率に違いがある。地域間格差を見ると、先に述べたように、北部や東部で人口増加率が高く、南部では低い。東部ビハール州では合計特殊出生率が3・2と最も高く、ウタル・プラデシュカンド州、メガラヤ州、マニプール州でも出生率が高く、マディヤ・プラデシュ州、ラジャスタン州などがそれに続いている。それに比べて南部5州では出生率が一様に低く、それ以外にもマハラシュトラ州、西ベンガル州、パンジャブ州、ヒマエル・プラデシ州、シッキム州、ナガランド州、トリプラ州など教育水準の高い州で出生率が低い。都市と農村の人口増加率格差も大きく、インドでは農村で生まれた人々が若いうちに都市に移住して、都市化の進展につながっている。最新のNFHSによると、インド都市部の合計特殊出生率の平均は1.6となっており、この数字は日本の沖縄県や宮崎県の数字を下回る。ただし、NFHSのこの調査が行われた調査の時期は、コロナ禍の不況とインドのロックダウンの措置があったため、それがどの程度影響を及ぼしているかはもう少し詳しい調査の必要があろう。

近年政治問題化しているのは、宗教間の出生率格差である。イスラム教徒の出生率はヒンドゥー教徒と比べて相対的に高く、このことがヒンドゥー教徒を支持母体とする与党BJPにとって、懸念材料となっている。2021年には、国会で人口抑制に関する4つの法案を審議することが提案された。その将来的な狙いは、一家族につき子供2人までとすることだった。表向きは人口増加の圧力を減らすことが目的だが、実際には、将来を見据えてイスラム教徒の人口比率の上昇を食い止めようという意図が感じられた。また、ウッタル・プラデシュ州やアッサム州で、「3人以上の子供がいる人には公務員の就職や昇進、州議会選挙における被選挙権を制限する」とした法制化の動きもあった。

2人材の強み

インド工科大学(IIT)は国内でトップクラスの高等教育機関である。現在では、インド全土に23のキャンパスを持っている。その中でも、デリー、ボンベイ(ムンバイ)、マドラス(チェンナイ)、カンプール、カラグプールのIIT5校は設立の時期も古く、最も入学が難しいとされる。全世界に多数のIIT卒業生がおり、米シリコンバレーで設立された企業のうち6割は、IITの卒業生が創設者やトップレベルの役職についているとも言われる。IIT以外の超一流校には、インド経営大学院(IIM)、インド科学技術大学院(IISCバンガロール)、全インド医科大学(AIIMS)がある。このうちIITは学部教育が主体であるが、IIMやIISCは大学院大学である。経営大学院のIIMの学生も、大半は学部が理工系である。これらの大学は競争率が500倍を超す超難関である。日本のある予備校は、IITと東大理系の入試問題を比べて、「IITの方が難しい」と結論づけた。こういったインドの一流大学に入学することは、欧米の一流校に入ることよりも難しいと、インドではよく冗談半分に言われている。

IITのような超一流大学のトップクラスの学生は、学部を卒業すると同時に米国企業によって本社採用されることも少なくない。米国企業はこれらの一流校に青田買いに訪れ、米国本社に直接採用される卒業生の15万ドル(1950万円)を超す初任給が、毎年話題となっている。日本の大学では考えられないことである。インド政府はこれまで海外の大学のインドにおけるキャンパス設置を認可してこなかったが、最近イェール、スタンフォード、オックスフォードといった英米の大学がキャンパス設置を計画していると報道されている。

 奥さんへの買い物依頼
クリームシチュー        238
手羽元         312
トンテキ       322
スーパーカップ           98
牧場の朝      108
きたあかり    180
玉ねぎ         280
コロッケ        100
ししゃも        100

『13歳からのイスラーム』

2023年10月06日 | 3.社会
コーランを知ろう

  • コーランってなに?

◆コーランの作者

ユダヤ教やキリスト教では「聖書」が、仏教では「お経」がそれぞれ重要な教えです。これと同じく、イスラームにも重要な教えがあります。それが「コーラン」です。では、このコーランの作者はだれでしょうか。

Qコーランの作者はだれ?

  • 神②天使③ムハンマド

くり返しになりますが、ムスリムにとって神は唯一で、世界を創造し統治する、他にはない重要な存在です。ムハンマドは名前を持つ一人の人間です。そのムハンマドが神から授かった言葉は、のちに一冊の本にまとめられました。それがコーランです。「朗誦されるもの(口に出して唱えるもの)」という意味で、アラビア語では「クルアーン」といいます。コーランはすべてアラビア語で記され、全部で114章からなっています。それぞれの章はさらにいくつかの節に分けられます。3節だけのごく短い章もあれば、200節以上の長い章もあります。

では、コーランの作者はだれになるのでしょうか。ムスリムの考え方では、コーランは、神が預言者を通して人間にあたえた一冊の書物です。それに従えば、答えは①ということになります。

◆ムスリムの4つの啓典

神に由来する書物を啓典と呼びます。ムスリムにとっての啓典は全部で4つあります。1つめは紀元前1200年ごろの預言者ムーサー(モーセ)が授かったとされる「律法の書(トーラー)」、2つめは紀元前900年ごろのダーウード(ダビデ)の「詩篇」、3つめは紀元前後の預言者イーサー(イエス・キリスト)が授かった「福音書」です。600年ごろの預言者ムハンマドを通じてもたらされた4つめの啓典が「コーラン」です。みなさんのなかには、「あれ?!?!モーセはユダヤ教で、イエスはキリスト教じゃないの?」と疑問に思った方がいるかもしれません。前にも触れましたが、イスラームとこれらの宗教はすべて一神教で強いつながりがあるのです。

なお、ここからはコーランの内容の解説になるので、先に第2部を読んでもよいでしょう。

◆神のお告げを書き留めたもの

さて、コーランははじめから現在のような書物の形になっていたのではありません。もともとは、ばらばらの短い啓示がムハンマドに伝えられたのでした。最初の啓示は、前章で説明したようにムハンマドが4歳のころに下されたと言われています。そのときのようすを伝える、こんな逸話があります。

ある日、ムハンマドは、メッカ郊外にあるヒラー山の洞窟で瞑想にふけっていました。すると突然、何者かが目の前にあらわれて、「よめ」と言いました。ムハンマドは、文字の読み書きができなかったため、「よめません」と答えました。

すると、その訪問者は、ムハンマドの首をおそろしく絞め上げました。「よめ」「よめません」「よめ!」「よめません」。そんな押し問答の末、ムハンマドは観念し、「よめ」という言葉を繰り返しました。

すると、その訪問者は言いました。

「よめ、創造主であるあなたの主のお名前において。彼は人間を血の塊からおつくりになった。」

これが最初にムハンマドが受け取った神の言葉でした。そして、その訪問者は、啓示のなかだちをする天使、ジブリール(ガブリエル)だったということが後にわかりました。

以来、ムハンマドは20年以上のあいだ、ジブリールを通じて、いろいろな瞬間に啓示を受け取り、それを周囲の人びとに伝えました。人びとは、その言葉を忘れないように、木片やラクダの骨、ナツメヤシの葉などに書き留めておいたそうです。神の言葉がすべて集められ一冊の本の形になったのは、ムハンマドの死後20年を経た650年ごろだったと言われています。

コーランのなかの言葉は、神がムハンマドに伝えた順番で並んでいるわけではありません。たとえば、「よめ」に始まる、最初の啓示は、コーランの9番目の章「血の塊章」に入っています(1、2節)。言葉の順番は、神の意図の通りにムハンマドが生前に指示していたと言われています。

  • コーランの主題(1)―神のこと

◆コーランの4つの主題

ムスリムの人びとにとって、コーランのなかにある言葉は、すべて神に由来するもので、どれも大切なものです。そのなかにはいったいなにが書かれているのでしょうか。

コーランの主題は大きく分けて4つあります。1つめは「神のこと」。神とはどのような存在なのかが、コーランのさまざまな箇所で語られます。2つめは「現世のできごと」。この世界がどのように生まれたのか、天地創造や人間の誕生、それから神の預言者たちや使徒たちにまつわるできごとについて語られます。3つめは「来世のできごと」。ここでは、現世には終わりの瞬間があり、その後来世が始まることが示されます。最後は、「人間に対する神の命令」です。そのなかには、罪や断食など宗教儀礼にかかわる命令と、食事や装い、家族や社会のあり方など生活にかかわる命令があります。

◆開始の章のなかの神

コーランのなかでも、多くの人びとにとってもっともなじみ深いのが、「開始の章」と名づけられた第1章です。7節からなるこの章は、ムスリムが毎日の礼拝で必ず唱えるものです。礼拝を覚えたばかりの子どもたちでも、みんな知っている部分です。

  1. 慈しみ広く、情け深いアッラーのお名前において

◆ビスミッラーヒッラフマーニッラヒーム

  1. アッラーよ、あなたを称賛します、諸世界の主よ

ルハムドリッラーヒラッビルアーラミーン

  1. 慈しみ広く、情け深いお方

◆アッラハマーニッラヒーム

4.審きの日をとり仕切るお方

◆マーリキヤウミッディーン

5.わたしたちはあなたを崇め、あなたにこそ救いを求めます

イイヤーカナアブドゥワイイヤーカナスタイーン

6.わたしたちを正しい道へとお導きください

イフディナッスィラータルムスタキーム

7.あなたの怒りをこうむったり、道を踏み外したりしない、あなたが恩寵を授ける人びとの道へと

スィラータッラズィーナアンアムタ
アライヒムガイリルマグドゥービアライヒムワラッダーリーン

世界のすべてを創り出したのは、この唯一神である。天地を創ったのも、人間を創ったのもそう。そして神は、この世のすべてのものに対して優しく、良い行いには良い事柄で報いてくださる。ムスリムのあいだではそのように信じられています。

一方、神は厳しい顔も持っています。この世が終わるとき、神はすべての人の一生の行いを確かめ、人ひとりが来世をどこで過ごすべきかを判断します。善行を多くした人は楽園のある天国へ、悪行のほうが多かった人は灼熱の地獄へと送られます。

全能で、優しく、厳しい神。そんな神を崇め、そんな神に救いを求めてムスリムは生きていく。この開始の章のメッセージは、コーランのなかでその後もくり返されています。

  • コーランの主題(2)―現世のできごと

◆天地創造

天地や人類は、いつから、どうやって存在しているのでしょうか。コーランには、神による天地創造に関する表現がたびたび出てきます。たとえば、神が「あれ」と言っただけですべてのものがあらわれたという表現(2章117節)や《目に見える柱もなしに天を創り、地上にがっしりとした山を据えつけてあなたたちの足元がぐらつかないようにし、そこにありとあらゆる動物を散らばせた》という言葉(31章10節)などがあります。

コーランには、神が最初の人間であるアーダムとその妻を泥土からつくったとあります。神は2人にこう言いました。《アーダムよ、あなたとあなたの妻は楽園に住みなさい。そして、どこでも望むところで食べるがいい》。そのとき、一本の木についてだけ、こうつけ加えました。《ただ、この木に近づいてはならない》(7章14節)。

◆地上に降り立ったアーダム

コーランによると、神は人間を創造する前に、光から天使を、火から悪魔を創りました。悪魔は人間が自分よりも神から大切にされていることに不満を抱き、アーダムとその妻にこうした。

《おまえたちがこの木に近づくことを主が禁じたのは他でもない、おまえたちが天使となるか、永遠に生きる者となるからだ》。2人は悪魔に欺かれ、神に禁じられた木の実を食べてしまいました。すると突然、自分たちが裸でいることを恥じるようになりました。楽園の葉で体を覆い始めた2人を見て神は言いました。《私はあなたたちにその木を禁じ、悪魔はあなたたちの明白な敵だと言わなかったか。2人は楽園を追放され、地上に住むようになりました(7章20〜25節)。

神の言葉を預かり、地上に降り立ったアーダムは、最初の預言者となりました。その後、次のページで紹介しているヌーフやイブラーヒー、ユースフをはじめ、数多くの預言者があらわれました。コーランにはそれぞれの人物に関する物語が記されています。

  • コーランの主題(3)――来世のできごと

◆現世のおわりと来世

コーランのなかでたびたび言われているのが、現世(この世)にはやがて最後の日がやってくるということです。その日は「終末のとき」と呼ばれます。それがいつなのかは明らかにはされていません。ただしコーランには、その日、あらゆる天変地異が起こると書かれています。《そのとき、大地はぐらぐらと揺れ、山々は粉々にくずれ、ちりとなって吹き散らされる(5章4~6節)。さらに、太陽の光は失われ、星々は流れ落ち、海はふつふつと煮えたぎり(8章1~6節)、人は皆、死に絶える(50章13節)とあります。

突然、ラッパの音が鳴り響きます。それを合図に、すべての死者が墓場や死に場所から甦り、ぞろぞろと列をつくって、神の御前へと向かっていきます(50章4節)。これが「復活」と呼ばれるできごとです。神の前で人びとは生前におこなったことを記録した帳簿を手わたされます。コーラン〈もっとくわしく>によると、帳簿を右手にわたされた人は喜びいさんで天国へ行き、左手にわたされた人はいやいやながらも地獄に送られることになります。

「真実の日章」6章の2~3節には、次のようにあります。

自分の帳簿を右手に渡された者は言うだろう、「みなさん、私の帳簿を読んでみてください。私の善行が報われる日が来ると思っていた」。そして良い暮らしを送るのだ。天の楽園の中で。……だが、帳簿を左手に渡された者は言うだろう。「こんな帳簿はもらわなければよかった。自分の行いの報いなど知らないほうがよかった。(現世の死で)すべてがおわればよかったのに。財産も役に立たなかった。権威も消え失せた」。(地獄の番人に対して)おまえたち、彼を捕まえて縛れ。そして、灼熱の地獄にくべるのだ。

◆天国と地獄

天国は「楽園」と呼ばれます。コーランによると、そこには「水」、「乳」、「酒」、「艦」が流れる清らかな4つの川があり、豊かな木々にはあらゆる果実が実っています(4章15節)。楽園の住人は金の腕輪で身を飾り、上質の緑色の衣服を着て、毎日寝椅子に寄りかかり、ゆったりと過ごしています(1章3節)。おなかが空くこともありません。黄金の大皿や杯が回ってきて、そこから好きなものを飲み食いすることができるのです(4章7節)。

一方、地獄は「火獄」と呼ばれます。コーランには、地獄の住人が、首に枷や鎖をかけられ、湯や炎のなかを引きずり回される姿が描き出されています。

コーランの主題の最後、4つめは生活に関わるさまざまな決まりごとです。これは、次の章でくわしく説明します。

⚪コーランに登場する「旧約聖書」の預言者

●ヌーフ(旧約聖書のノア)

神を信じない人びとに最後の警告を伝えつかかれるために遣わされた預言者・使徒。彼の言葉ほろを聞きいれなかった人びとを滅ぼすために、だいこうずい神は大洪水を起こしました。ヌーフは神の命はこぶね令によって、箱舟をつくり、自分の家族とすべての動物の雄と雌を連れて船に乗りこみ、のが難を逃れました(23章23~30節)。

●イブラーヒーム(旧約聖書のアブラハム)

イスラームでは一神教の礎をきずいた、重要な預言者・使徒の一人として知られています。神からの試ぎせいささ練として息子イスマーイールを犠牲として捧げようしんこうあつとし、その信仰心の篤さを神に認められ、祝福されまいけにえす。左の絵は天使が息子の代わりに犠牲となる動物をもって降りてきたところ(37章83~113節)。イブラーヒームは後にイスマーイールとともにメッカにカアしんでんバ神殿を建設しました(2章125~127節)。

●ユースフ(旧約聖書のヨセフ)

コーランの中で、ユースフの物語は「もっとも美しねたい「い物語」と言われます。兄弟に妬まれ、幼いころに井戸に捨てられたユースフは、商人に拾われ、エジプトの大臣に売られます。大臣の家で美しく、知識の豊富な若者に成長したユースフに、大臣の妻が思いを寄せます。右の絵はこの物語を土台にして、1540年ごろのイランで描かれたもの。ユースフのあまりの美しさに大臣の妻の友人たちが驚いているところです(12章)。

イスラームと他者

  • イスラーム社会を支えるしくみ

◆寄付は当然の行為

この章では、イスラーム世界を支えるしくみについて見ていきましょう。

巡礼などと同じように、ムスリムの義務とされたものに「喜捨」があります。「喜捨」とは、他人の利益のために寄付をおこなうことで、アラビア語ではザカートあるいはサダカとよばれました。をして他人を助けることは、当然ながら善い行いとされ、来世で天国に行くためにも必要な行いと考えられていました。そのため、義務として強制される喜捨(ザカート)だけでなく、自発的な喜捨(サダカ)もさかんにおこなわれていました。とくに、支配者や大商人など裕福な人びとにとり、自発的な喜捨をおこなうことは天国に行くためだけでなく、自分たちが善きムスリムであることを社会に示し、権威や名声を保つためにも重要なことでした。

◆ワクフのしくみ

自発的に喜捨をおこなったことを広く社会に示すために、ムスリムはアラビア語で「ワクフ」とよばれるしくみを用いました。ワクフは、自分の土地や建物をアッラーにささげ、だれの手にもわたらないようにし、土地や建物が生む利益を末長く他人のため、社会のために活用できるようにするしくみでした。

たとえば、畑の持ち主は、自分の畑をアッラーにささげ、畑で栽培した作物、あるいはその作物を売ることで得たお金をモスクの運営のために役立てました。あるいは、建物の持ち主が、自分の建物をアッラーにささげ、建物を人に貸して得たお金(賃料)を学校の運営のために役立てることもありました。また、ワクフにより運営された施設には、その施設を建設し、土地や建物を喜捨した人びとの名前が付けられました。これにより、その人が喜捨をおこなった事実が広く社会に知らされ、来世のみならず現世における利益ともなったのです。

下の絵は、エジプトのモスクの内部のようすです(1840年代)。ワクフによって運営されたこの建物は、学校の機能も兼ね備えた大きな複合施設で、たくさんの人がここで勉強しました。

◆社会を支えたしくみ

ワクフというしくみがイスラーム社会で広まったのには、ムスリムとして善い行いをしたいという思いのほかにも理由がありました。それは、自分の子孫にまとまった財産を残したい、という思いです。ワクフによりアッラーにささげられた土地や建物には、有給の管理人を置くことが定められていました。その管理人の仕事を子孫が代々受け継ぐことにより、子孫の生活を保証することができましたし、ワクフによりアッラーにささげられた土地や建物は以後、他人の手にわたることが禁じられたため、財産が一族の手を離れる事態も防ぐことができたのです。このように書くと、ムスリムは個人の利益のためだけにワクフを利用したと思うかもしれません。しかし、ワクフにより数多くの公共の施設が支えられていたことは紛れもない事実です。また、一族の生活を守るためにこのしくみが使われた場合も、一族が死に絶えたときには、孤児など苦しい立場の人びとのために役立てると決められていました。

ワクフを通じ支えられていたのはムスリムだけではありませんでした。たとえば、水飲み場などイスラーム社会全体に不可欠な施設を維持するためにも用いられました。キリスト教徒やユダヤ教徒などムスリム以外の人びともまたこのしくみを用いて、自らの財産を守るためだけでなく、公共のために土地や建物を活用していたのです。

  • ムスリム以外の人びととの関係

◆共存のしくみ

第3部の冒頭で見たように、ムスリムに征服された土地の人びとがイスラームに改宗するまでには、い時間がかかりました。また、イスラームに改宗しなかった人びともいました。歴史上のイスラーム社会はムスリム以外の人びとの存在を当たり前と考える社会だったと言えるでしょう。

イスラーム社会の支配者はムスリムであり、イスラームはその他の信仰よりも優位に立っていました。そのことをムスリム以外の人びとが認めさえすれば、平和に共存するためのしくみがイスラーム社会にはありました。ムスリム以外の人びとはイスラームの保護(ズィンマ)の対象、すなわち庇護民(ズィンミー)となり、信仰の自由が認められ、生命や財産も保障されました。ズィンミーとなりえたのは、当初はイスラームと同じ一神教であるユダヤ教やキリスト教の信者のみでしたが、後にはそれ以外の宗教の信者がズィンミーと認められる場合もありました。

◆ズィンミーの苦労

しかし、ズィンミーとして生きることは、ムスリム以外の人びとにとって良いことばかりではありませんでした。常にそうするように強制されたわけではありませんでしたが、彼らはさまざまな決まりごとを守らなければなりませんでした。

たとえば、ムスリムと簡単に区別できるように定められた服装をすること、特定の色(預言者やイスラームに深い関わりのある緑色)を使用しないこと、武器を持ち歩かないこと、さらには馬に乗らないことなどが定められていました。現在は、このような決まりは廃止されています。

 夢の中で詳細から概要に移るような指示があった
 詳細から 概要を作り出す決意
 なんとなく この壁紙(8月2日)だけで生きてる感じ #早川聖来
 なんとなく 60年前のロシア版 『戦争と平和』の舞踏会のシーンを思い出させる #早川聖来
 ヒントはムスリムにありそうです アラーは偉大なり そのアラーを内に持つ私も偉大なり 後段部分を言い切れないムスリムが変わらない
 おかわりはいつもワンモアアイス
 しーちゃんがプログラミングスクールの単独コマーシャル 電算部はアセンブラー から始まった。12技術部は8x ともに機械言語 だからロジックはよくわかった

 豊田市図書館の8冊
  209『人類の歴史を変えた8つのできごと Ⅰ:言語・宗教・農耕・お金編
209シ『人類の歴史を変えた8つのできごと Ⅱ』民主主義・報道機関・産業革命・原子爆弾編
302.25『インド グローバル・サウスの超大国』
302.27『「アラブの春」の正体』欧米とメディアに踊らされた民主化革命
135.23『情念論
317.3『公務員の「お仕事」と「正体」がよ~くわかる本』
162『宗教が変えた世界史』ビフォーとアフターが一目でわかる
302.27『獅子と呼ばれた男』
304『日本の歪み』
134.97『ウィトゲンシュタイン『論理哲学論考』を読む』

『シリア・レバノンを知るための64章』

2023年10月04日 | 3.社会
『シリア・レバノンを知るための64章』

ワイン源流の地

  • レバノンワインを楽しもう★

レバノンを初めて訪れたのはアメリカで1年を過した帰り途、1975年の6月だった。この国が十七年戦争とも名づけた長い内戦に突入する直前、すでに不穏な情勢であった。

しかしベイルート入りした3日後、私たちは幸いにも一気に千メートルのベカー高原を昇り、聖書の時代からあこがれをもって眺められたという美しいレバノン山脈や葡萄畑を、反対側には荒寥とした赤土の谷間などに見とれながら1時間半、世界最古の町シリアのダマスクスに通じる道を走り、バアルベッンの町に到着した。

バアルベックの遺跡は不思議な複合神殿アクロポリスである。そもそもはフェニキア人(レバノン人の祖先)が自分たちの神バアルを祀った地だったが、ギリシアの時代が来ると彼らはここを太陽の町(ヘリオポリス)と名付けた。次に来たローマ人たちはこの地に最大規模の複合神殿を建立した。

西暦60年ごろにまずジュピター神殿ができ、その150年後にはバッカスとヴィーナスの二つの神殿が完成した。葡萄とワインの神バッカスを祀る遺跡が現存するのはバアルベックが世界でただ一ヶ所という。

私のワインに対する好奇心は、実はその半年ほど前から始まったのだった。カリフォルニア・ワインが禁酒法の不遇をようやく脱して、かなりの味わいを誇るブランドや名門ワイナリーがテレビで宣伝され始めた頃だったので、私は何冊かの本を買い込んでアメリカだけでないワイン世界とその歴史に興味を持つようになった。

ワイン発祥の地についても、グルジア、アナトリア、メソポタミアとある中にレバノンの山々という説があったのを記憶していたし、イエス・キリストが結婚の祝宴で水をワインに変えたあの奇蹟の起きた村、ガリラヤのカナがベカー高原に近い事実にも気がついた。

もしかして、レバノンこそワイン源流の地ではなかったのか?

その時は拡がる好奇心を満足させることもできずに帰国したのだが、やがて私は物書きとなり、フランス、イタリア、スペインなどワインの取材に出掛ける幸運に恵まれた。しかしレバーを再訪するようになったのは、二十余年を経た90年代末からだった。

一方で「ワイン源流の地・レバノン」説についての勉強は山形孝夫先生(宮城学院女子授)の著書『レバノンの白い山』のおかげで、私の中では確かなものになっていた。

レバノンは旧約聖書の中ではカナンの地として登場する地域に全土が入ってしまう国でもあり、古代イスラエルの神が何としても自らの民のために獲得したいミルクと蜂蜜、そして美酒ワインに象徴される土地だった。

ことにワインはエジプト王朝全盛期から引っぱりだこの人気だったし、中世ヨーロッパでも贅沢で高価なものとされたのがカナン産だった。しかしそれは当然であり、この地にはバッカス神殿ができる前に、先住の神として人々の厚い信仰を集めていたバアルクの主、バアル神が存在していたからだ。彼こそがワインと深い関係にある神だった。

――紀元前13世紀頃彫られたバアル神のレリーフは、現在はパリのルーブル美術館に収まっているが、発掘されたのは1928年、ベイルート北方の丘だった。神殿跡や楔形文字でびっしりと神話が記された粘土板など、大量の出土品があったという。

その楔形文字はウガリット語といわれる言葉でそれまで未知のものだったが、学者たちの熱烈な研究のあげく3年で解読され、3000年以上も埋もれていたバアル神話が現代の光を浴びたのだった。バアル神は古代オリエント世界の農耕神であり、大地に雷鳴を轟かせて雨をもたらし、万物の生命を蘇らせる主だ。カナンの地は沙漠に生きるイスラエルの民の憧れであり、緑濃い作物の豊かに実る肥沃な土地であった。この地に暮らす人々は平和と子孫繁栄を願う農耕民族であり、バアル神も同じくペアの神アナトと結婚し家族を守る優しい神だった。

しかし人間を生かす穀物は一年草の実であり、一年毎の儚い生命である。人間の関係もやがては滅びるものだ。ところが血は子孫に伝えられて何年も生き続ける。その事実こそがキリストの言葉ならずとも農耕文化の中でワインを造る人間存在の証ではないだろうか。ワインは農耕社会の絆とも要とも言えよう。

バアルにはモトという弟があり、彼は火の空を支配して大地を干上がらせてしまう神である。彼は壮絶な戦いを繰り広げるが、やがてバアルの方が力尽きて屍を野にさらす。すると大地は旱魃し、野山は枯れ果ててしまう。

ペアの女神アナトはバアルを失った悲しみにくれて野山をさまよい歩き、ようやく彼の亡骸を見つけると、さめざめと泣きくれる。するとアナトの涙は、何と、尽きることのない芳醇なワインであった。彼女は目から溢れ出る悲しみの水、ワインの中でバアルの復活を願い、モトへの復讐を誓った。アナトは大地母神であると同時に勝利の女神であり、豊穣と多産の象徴として乳房がたわわに実る葡萄でできていた。

モトは息の根を止められて、やがて干からびた大地に雨が降り注ぎバアルは復活する。穀物神バアルに連続した命を与えるのは、アナトの流す涙、ワインだったのである。

ワインをめぐるこのレバノン神話に魅せられた私はやがて十年足らずの間に4回もレバノンを旅することになった。私にはかつてベイルートで日本料理店「ミチコ」を経営していた姉がいた。不幸にして彼女は突然に亡くなり、その後だったが、友人たちが私のワトリー訪問の世話をしてくれたのだった。

シャトー・ケフラヤは内戦の真最中にフランスから醸造技術者などのスタッが移住し、この国にフランス流のワイン造りを指導して、西欧で80年代の終わりから毎年さまざまな賞を獲得するようになったワイナリーだ。いわばレバノンにワイン・ルネッサンスをもたらした名門であるという。

私は日本から十数人のツアーと共にシャトー・ケフラヤを訪ね、レバノンの人々は料理との相性で白を好むことを知った。フランス流の赤もなかなかおいしく、当時は日本にも輸入されており、愛飲していたのだが……

このときは十九世紀半ば開設のシャトー・クサラも訪問した。このワイナリーの造るワインは多岐にわたり、フランス種はもちろんスペイン系のテンプラーニョも、アルザス流のゲヴェルツトラミナーもおいしい。さらに古代からの貯蔵庫かと思うような洞穴じみたカーヴへのツアーも楽しいものだった。

2003年に夫と娘と訪ねた時は、98年開設のシャトー・マサヤへ案内された。フランス人との共同経営と聞いたが、若い当主ゴスン氏自らの案内でワイナリーの敷地にあるレストランで、主に赤(ムールヴェルドなど)を味わった。

新しいワイナリーの心意気をことさらに感じたのは、ワインそのものの故か、ゴスン氏の印象だったのか、興味深い体験だった。

さて私がレバノン・ワインについて最も大切なことを学んだのは、2005年国際交流基金の機関誌『遠近』の仕事で、すでに西欧の多くのワイン評論家が「世界におけるグレート・ワイン」と賞賛するシャトー・ミュザールのオーナー、セルジュ・ホーシャル氏と対談するために彼の地を訪問した時のことだ。

最初にワイナリーを見学に行った私を、葡萄畑から工場も貯蔵庫もテイスティングまで、すべてホーシャル氏自信が案内して下さった。私は「レバノンの自然の味」という言葉を新たに耳に止めた。翌日は日本大使館が氏のために晩餐会を催してくださったので、かなり長時間にわたってお話することができた。

さて、対談はそれまでに私が学んだワイン体験を全部合わせても学べなかったほどの、ワイン造りの哲学から古代の歴史、そしてレバノンの土壌や山々、太陽の光の特殊性から宗教にまで及び、私は氏によって奥深いレバノンのワイン世界に入り込んでしまった。

「レバノンでは一度葡萄を搾ったら手をかけないワイン造り」であり、「この国には植物の病気がなかった」。さらに「レバノンは薬用植物の最大輸出国の一つであるほど生物学的多様性に恵まれています」などの言葉が忘れられない。さらに私が最も感動したのは次の言葉だった。

「この国は度重なる破壊を受けてきたが、もし私たちが復興しなければ、ここはただの難民の国になってしまう。戦争によって民族の心は引き裂かれても、ワインは民族的感情を癒す大切なものだ。ただの歓びを越えて今日と深く関わり、破壊の時に創造があることを、無政府状態のときに秩序があることを示してくれた。そして死と再生はめぐり来るものだということも、そもそもはバアヘックで示されたように、今またワインが明らかにしつつあると思う」。

今日レバノンではワイン造りが活撥になってきている。世界各地……日本でも盛んだ。

この現代においてこそ、ワインの源流はレバノンであることを思い起し、私たちはレバノンワインに深く親しみたいと思う。

世界に広がるレバノン・シリア移民

★際立つ存在感と深刻な頭脳流出★

「兄はドイツで医者、母方従妹はアメリカの大学で研究していて、父方の叔父はオーストラリアで貿易をやっている。曾祖父から分かれた別の親戚は3代にわたってブラジルで商売、はスーパーのチェーン店を経営している。」シリアでもそうだが特にレバノンで、こんな話を耳にすることが多い。かつて、日本の商社マンが高度成長期に世界各地に出かけて事業を展開したとき、あちこちで地元の手ごわい商業ネットワークと対峙したのだが、そこで「レバ・シリ商人」はインド・パキスタン系の「イン・パキ商人」や「ユダヤ人商人」「華僑」よりも商売上手だと話題になったという。

レバノン・シリア移民とその子孫はさまざまな分野で非常に目立っている。際立った人物を思いつくままに挙げてみよう。ビジネス界では、まず世界長者番付第1位のカルロス・スリーム。(資産690億ドル=6兆9000億円で、東京都の一般会計予算を超える!)1940年メキシコシティ生まれ、父親は南バノン山間部の出身で1902年メキシコに移民、母方祖父はベイルート近郊の出身でメキシコ初のアラビア語新聞社の創業者。カルロス氏自身はメキシコの電信会社経営から事業を拡大した。今やニューヨーク・タイムズ紙の大株主でもある。日本でおなじみのカルロス・ゴーン(アラビア語名ゴスン)日産CEOは、1954年ブラジル生まれのレバノン移民3世。小・中学校を中心に1年間をレバノンで過ごし、1971年に高等教育を受けるためフランスに移った。コピー印刷や製本で世界的なチェーンを展開するフェデックス・キンコーズ創業者のポール・オルファリーは、カリフォルニア生まれのレバノン移民2世。アップル創業者の故スティーブ・ジョブズは、アメリカで生後すぐに離別した実の父親がホムス出身の政治学者なので、シリア移民2世と言える。

政界では、アメリカ大統領選に二大政党以外からの候補として顔を出す消費者運動家のラルフ・ネーダー(ナーデル)はレバノン移民2世で、1989年から10年間アルゼンチン大統領を務めたカルロス・メネム(マヌアム)は両親がダマスクス近郊出身、2010年のトヨタ車リコール問題でその厳しい姿勢により有名になったアメリカ運輸長官レイ・ラフードはレバノン移民3世である。ブラジルには「レバノン系国会議員団」という40人ほどの組織がある。

文化・芸能・(医)学界・ファッション界など数え始めるときりがないが、こうした著名人を別にしても、世界各地のレバノン系・シリア系の人々は、概ね経済的に豊かな生活を確立しているように見える。中には失敗して表に出ない人々もいるだろう。しかしこの目立ち方は尋常ではない。もちろん傑出した人たちは、その才覚・努力や育った環境が重要なのであって、人種的に優れているという話では毛頭ない。ただ、レバノンとシリアの国内人口それぞれ400万人、2300万人を考慮すれば、実に注目すべき現象なのである。

もう一つ在外人口の動きを象徴する例を挙げよう。2006年7~8月イスラエル軍は対レバノン戦争で真っ先にベイルート空港の滑走路を爆撃したため、外国人の避難が大問題になった。欧米諸国は艦船を送って自国民の救出に努めたのだが、そこでわかったのは、当時レバノンにはカナダ人が5万人、オーストラリア人とアメリカ人が各2万5000人、イギリス人とフランス人が各2万人余りいたことである。大半はそれらの国のパスポートを所持して夏休みに帰省していたレバノン移民とその子孫だった。(なお、外国人労働者としてスリランカ人8万人、フィリピン人3万人がいた。)

それでは現在、世界のレバノン・シリア移民(とその子孫)の人口はどれほどなのか。正確な統計的データはどこにもなく、雲をつかむような話になるが、レバノンについてのある推計によれば、中南米に858万人(うちブラジル580万人)、北米に257万人(うち合衆国230万人)、西欧、オセアニアにそれぞれ4万人、湾岸アラブ諸国に35万人、西アフリカに7万人で、全世界に1200万人という数字が現れる。ブラジルでは、そこだけで1000万と言われていて、いかにも誇大な推計に見える。一方で、レバノン国内人口がざっと400万人なので、世界全体でもせいぜいその程度だろうという推測もある。この推計のバラつき自体が政治性を帯びているのだが、これほど混乱する理由はいくつかある。これまでの移民の歴史をざっと眺めながら考えてみよう。

レバノン・シリアから本格的な移民が始まったのは19世紀末で、その後第一次世界大戦までが第一波の時期で、東・南欧からアメリカ大陸への大量移民の時期と同じである。移民の大半は、レバノン中北部の山間部とシリア中部のキリスト教徒の農民で、南北アメリカを中心に、西アフリカ、オセアニアからフィリピンまで、当初からグローバルな移住が進んだ。当時レバノンもシリアも国としては存在せずオスマン帝国領だったので、各地で「トルコ人」と記録された。このためレバノン系移民を語りながらシリア系移民も含めたり、その逆が起こったりする。

また移住先では名前が変わることがしばしばだった。「ユースフ・ファフリー」が「ジョセフ・フェアリー」になると、名前からの追跡は難しくなる。運よく移住先の移民管理局の記録が残っていても、ほとんど役に立たないのである。ギリシア正教の移民は移住先でロシア正教会に、マロン派はローマ・カトリック教会に吸収されて独自の教会を持たないケースもあったので、教区資料もない。さらに南北アメリカで顕著だが、他のエスニックグループとの結婚が進むと、世代を経るにつれて「レバノン人」なり「シリア人」なりのアイデンティティは急速に薄らいでゆく。

この移民第一波の時期、大金を稼いで帰還する者もいたが、は家族を呼び寄せて永住し、結果的に一族もろとも移住して、出身村の人口が激減することが多かった。長い船旅の末、移住先にたどり着いた農民は、ほとんどの場合、まず行商から身を起こし、徐々に資金を築いて(世代を経て)都市中心部の商店街に卸や小売りの商店を持ち、各地で社会上昇を遂げた。

移民第二波は、レバノン、シリアとも独立して20年ほど経った1960年代で、主にオイルブームに沸く湾岸産油国に向かうものだった。ムスリムの比重が高く、社会インフラが立ち後れた湾岸諸国で、石油産業の管理運営や技術部門、教職や行政職、商業に従事した。出稼ぎの感が強く、距離的な近さから頻繁に一時帰国する例も多かった。またイスラエル建国前後からユダヤ教徒の移住が続いていたが、1967年の第3次中東戦争は決定的なプッシュ要因となった。この時期、宗教を問わず南北アメリカへの移民も続いていた。

第三波は1975年から1990年までのレバノン内戦期、そしてそれ以降の政治的不安定期である。レバノンでは高水準のフランス語・英語教育が行われてきたため、若者が単身で、あるいは家族と一緒に主に西欧・北米・オーストラリアに流出することとなった。ムスリム・キリスト教徒を問わず、おそらく人口の4割が、間断ない戦闘による閉鎖の合間を縫ってベイルートの空港から、あるいは陸路でシリアやヨルダン、海路でキプロスに向かい、そこの空港から、あるいはレバノン沿岸港からの密航船で、続々と戦火を逃れた。内戦後に戻る者も多かったが、欧米で活躍の場を見つけた者はそこで永住する方向だ。また内戦後も移民は依然ハイペースで続いており、おそらく50万人近くがレバノンを離れたとの推定がある。シリアからも高等教育を受けた若者の留学と移民が相次ぎ、頭脳流出は今日まで深刻な問題である。

そして2011年以来、動乱のシリアからトルコやヨルダン、レバノンに、そのレバノンからさらに欧米に向けて、新たな難民・移民の人口流出が始まっており、これが第四波となるであろう。

在外レバノン系・シリア系の人々は、送金や投資などを通じてその経済的支援が本国で期待されるだけでなく、レバ人有権者の帰国投票行動(そのために湾岸諸国から莫大なカネが流れて無料航空券が世界各地で配布される)やシリア反体制派の運動など、双方向的にさまざまな力が交錯する空間を作り出している。

一方、長期的な観点からすると、移民はこの地域のキリスト教徒とユダヤ教徒の人口比率を著しく低下させ、宗教的多様性が失われてゆく過程にある。同時に誰がレバノン・シリア人なのか、という問題が世界的に拡散しているのである。

スンナ派とシーア派

★国が変れば立場も変わる★

世界のイスラーム教徒の大多数を占めるスンナ派と、1から2割を占めると言われるシーア派との間の教義の違いやそれぞれの成立の歴史については、事典類の解説に譲り、本章では主にシリア・レバノンにおける両宗派の位置と今日の問題について扱う。ドルーズ派やアラウィー派、イスマーイール派など、シーア派からの分派とされる宗派については、それぞれの章をご覧いただきたい。

預言者ムハンマドの没後3年目の635年、初代正統カリフのアブーバクルの時代にムスリム軍がダマスクスを占領し、それまでビザンツ帝国領だったこの地域のイスラーム化が始まった。661年からダマスクスに都をおいたウマイヤ朝は、現在の国で言えば東はパキスタンから西はスペイン、ポルトガルとモロッコに至るまでの大帝国を築いた。歴史地図帳を見ると、圧倒的な軍事力による「大征服」で、この広大な領域の住民が一気にイスラーム化したかのような印象を受けるかもしれないが、この時期、まだムスリムは少数派で、多数の異教徒を支配する形だった。一方、この段階ですでにウマイヤ家の支配の正統性を否定する一派が、今日私たちが「シーア派」と呼ぶ宗派として出現していた。

ウマイヤ朝は、750年にアッバース朝に取って代わられるまでの約90年間、「歴史的シリア」の中心都市ダマスクスを都として繁栄したのであるが、この歴史的事実はシリアの(特にスンナ派の)ムスリムたちにとって誇らしい、重要なよりどころとなる意識を植え付けたと言える。イスラームの共同体は、アラビア半島という生態的に厳しい環境に生まれ、世界中に拡大することになったが、最初に「歴史的シリア」という肥沃な農業地帯に多くの人口を擁する地域に政治的中心を移し、一挙に版図を広げたのである。

この当時からメッカへの巡礼路には、イラン・イラク方面からアラビア半島の沙漠を縦断するルートや、エジプト方面から紅海を渡り沿岸を進むルートなどいろいろあったが、都のダマスクスから陸路南下してメッカに向かうルートが一番主要なものだった。これは時代が下ってオスマン帝国の時代になっても変わらなかった。都のイスタンブルをはじめアナトリア方面からメッカ巡礼する際、ダマスクスは陸上ルートの最後の拠点都市として位置づけられた。毎年巡礼月が近づくと、何千人もの巡礼者が各地から集まり、町は1ヵ月以上にわたり祝祭的な雰囲気に包まれた。出発の日には華々しく飾り立てられた千頭単位のラクダがキャラバンをなし、楽器が多数鳴らされるなか、ダマスクス総督が先頭に立ち、護衛の軍勢を従えて、長い列をなす巡礼団が賑々しく南に向かった。メッカまで4日弱の行程だった。

ダマスクスとアレッポという主要都市の中心の大モスクが、ウマイヤ朝期に建立された「ウマイヤ・モスク」であることは、以後今日に至るまで14世紀間にわたりイスラームが絶えることなく生活に根付いてきたことを、常に思い起こさせる。ユダヤ教やキリスト教に比べれば新しい伝統ではあるものの、世界中のムスリム社会を眺望すると、シリア・レバノンのムスリム社会が最長の時間的伝統の上に成り立った地域の一つであることは明らかである。そして今日のシリアとレバノンの地域を総体で考えれば、ここで約8割の人口を占めているのがスンナ派であり、密度の差こそあれ、ほぼ全域に分布している。正統派の宗教として、地域全体に浸透・定着してきたことは疑いようがない。

ただし、この地域の地中海沿岸の山地に国境線を引いて、レバノンをシリアから切り離すと、そこではスンナ派がもはや多数派ではなく、あまたの宗派の合間に入って急にマイノリティになる。レバノン国内の分布は、ベールートやトリポリ、シドンといった沿岸都市部とベカー高原の一部にほぼ限定され、山間部の町村にはほとんどプレゼンスがない。このためスンナ派は、レバノンという国を「レバノン山地」(アラビア語で「ジャバル・ルブナーン」)を基盤とする社会と認識する立場――マロン派とドルーズ派を中心とする――に対して明確に異を唱える傾向がある。全世界のスンナ派ムスリムの巨大な海の中にいつでも一体化できるのであり、より近くのアラブ地域のスンナ派とはそもそも自他を分かつ必要性はあまりなかったのである。これは独立前後の時期から、レバノンのスンナ派の多くをアラブ民族主義に向かわせる原動力となった。

シーア派も国境線が引かれることでその勢力図がガラリと変わる。現在のシリア・レバノンの地域全体からすれば、あくまでも少数派である。ざっくり言って、2700万人のうちの6パーセントくらいであろう。それがレバノンに限っては、400万人のうちの130万人、この3割ほどで、個別の宗派としては最大勢力となる。

つまり(アラウィー派・イスマーイール派・ドルーズ派といった分派以外の十二イマーム派としての)シーア派は、シリアにはほとんどプレゼンスがない、といってよい。ただし、ダマスクスのウマイヤ・モスクの内部(東端の方)には、イラクのカルバラーでウマイヤ朝軍に殺されたフサイン(第4代カリフ、アリーと預言者ムハンマドの娘ファーティマの間の息子)の首がここに運ばれて葬られたという廟があるし、ダマスクスの東部郊外、グータの森の中にはフサインの妹ザイナブの墓廟がある。いずれもイランやイラク、湾岸地域のシーア派の人々にとって、重要な参詣地となっている。

スンナ派国家たるオスマン帝国において、シーア派はしばしば弾圧の対象となることがあったが、レバノン山間部のシーア派も例外ではなかった。さらに加えて、シーア派の領主層はドルーズ派やマロン派の領主層と対立しながら、峡谷に散在する農村部の支配をめぐり、勢力争いを繰り広げていた。当初はレバノン山地の北部にも大きな縄張りを持っていたが、17世紀から18世紀を通じてだんだん押し込まれて、現在シーア派の本拠地として知られる南部レバノンとベカー高原に落ち着くことになった。南部レバノン、とりわけシドンとティールの間で地中海に流れ込むリタニ川の東部上流域とそこから南にかけての山地が「ジャバル・アーミル(アーミル山地)」と呼ばれていたが、ここはシーア派法学者を輩出したことで知られており、イランのサファヴィー朝(1世紀初めにシーア派を国教とした)にウラマーを多数送り出した。オスマン帝国とサファヴィー朝はしばしば戦火を交えたが、シーア派同士の人的交流を維持していたのである。

南部レバノンはレバノン内戦(1975~90年)の時期以来、度重なるイスラエル軍の侵略に苦しんだ。戦火を逃れて首都ベイ下に移り住んだ人々も多く、ダーヒヤと呼ばれる南部郊外地区は多宗派混住の田園都市から、シーア派一色の稠密住宅地へと変貌した。

2003年のイラク戦争以来、中東全域を覆い始めたスンナ派・シーア派間の亀裂は、レバノンにも及んで国内政治の主要な対立軸をなすに至っている。西べイル-の中南部地区は両派の住民が近接して居住しており、政治的緊張の高まりと共にしばしば衝突が伝えられるところである。しかしこうした両派の明確な対立状況が、レバノンでは21世紀的現象であることも忘れてはならない。(黒木英充)

曖昧なシリア・レバノン国境

★浸透性が国際的にも問題に★

レバノンは、シリア、イスラエル両国と計450キロの国境線を有しており、その内シリアとの国境線は370キロに及んでいる。フランス委任統治時代の1920年に、「歴史的シリア」地方(現在のシリア、レバノン、イスラエル、ヨルダン、パレスチナ自治区に相当)から切り離された領域をベースに、レバノンは1943年に主権国家としての独立を達したが、シリアとの国境線には現在に至るまで画定されていない部分があり、帰属が不明確な地点が多数(36か所以上)存在している。

両国の国境線が曖昧な状態に置かれている背景には、シリアの歴代政権が基本的には同国の独立(1946年)以来、「二つの国家における一つの人民」という認識の下、レバノンの主権を尊重する姿勢を示してこなかったことがある。レバノン、シリア両国共に歴史的シリアに含まれる上に、首都ダマスクスから僅か20キロほど西に向かうだけで国境線に到達してしまう事実が、政権のこうした認識に影響を与えてきた。他方で、レバノンにおいてもアラブ世界との結びつきを重視するムスリムを中心に、シリアとの一体性に長らく重きを置いてきたことから、国境線の画定が両国間の政治的なイシューとなることは殆どなかった。また、レバノン北部の都市トリポリはシリア中部の都市ホムスと、レバノン東部ベカー高原一帯はホムスのみならずダマスクスと、とりわけ密な経済関係を有している。更に、レバノン北部や東部の国境地帯においては、両国間に分かれて家族が居住していることが珍しくないことから、相互の行き来は元より、買い物や学校、通院などに伴う越境が今もなお日常的に行われているのである。

このように、国境線が一部画定されていないことは、両国間での密輸が横行する原因になっており、その特徴が顕著に表れたのがレバノン内戦期(1975~90年)であった。戦闘状況の激化に伴い、レバノン中央政府による国内統制が緩む中、1980年代にはシリアの年間輸入量の七割ほどがレバノンからの密輸で占められる一方、シリアでは補助金を受けて低価格に抑えられているセメントやガソリン、砂糖などが数千トンも同国からレバノンへ密輸され、高価格で販売されているという事態が報告されるに至った。また、ベイルート内外における戦闘によって首都の機能が低下する中、相対的に平穏であったベカー地方の中心都市ザハレが、レバノン東部における商業活動の中心的地位を占めるようになるにつれて、多くのレバノン人やシリア人が同地を訪問するようになった。と同時に、日用品のみならず麻薬をも扱う密輸ネットワークが両国間で築かれることになり、ベカー高原に駐留していたシリア軍兵士もこうした非合法な経済活動に携われるようになっていった。さらに、大麻栽培や密輸業にはハーフィズ・アサド大統領の弟であるリファアトアサド副大統領や、同大統領の「側近」であったムスタフートゥラース国防大臣らを含む、国軍や治安機関に関係する多くのシリア政府高官が当時関わっていたとされており、「清貧な」同大統領は彼らの非合法的な手段による蓄財を内心快く思っていなかったものの、自らに対する忠誠心を維持するために基本的には黙認したと言われている。

シリア・レバノン国境における未画定領域は、1990年のレバノン内戦終了後もしばらくは、両国のみならず国際的にも大きな問題としては取り上げられなかった。しかしながら、2000年5月にイスラエル軍が南レバノンの大部分から撤退すると、未画定領域の問題がやにわに持ち上がった。と言うのも、イスラエル軍撤退をもたらした功労者であるシーア派組織「ヒズブッラー」のハサン・ナスルッラー書記長が撤退完了後直ぐに、「シャブア農場」を含む数箇所のレバノン領土が未だにイスラエル占領下にある、と発言したからである。ゴラン高原の北端に位置し、256平方キロメートルの中に14の農場を有しているシャブア農場は、イスラエルが1967年の第三次中東戦争以来占領しているシリア領ゴラン高原の一部であると、国際的には見なされている。だが、シリア・レバノン両政府とヒズブッラーが、1951年に両国間で交わされたとされている「口頭合意」を根拠にして、シャブア農場がレバノン領に属するとの見解を取っていることは、同国領内における占領地を解放するために武装闘争を継続しなけれらない、とするヒズブッラーの主張に正当性を与える根拠になっている。また、シリアがヒズブッラーの武装闘争を引き続き、ゴラン高原解放に向けた対イスラエル戦略の一部として利用することも可能にさせているのである。

イスラエルによるレバノン占領が国際的には終了したと認定されているにもかかわらず、ヒズブッラーがシャブア農場解放を名目として、その武装闘争の維持が可能になったことは、レバノンにおけるシリア覇権が終わりを告げた2005年以降にレバノン国内で問題視されるようになった。こうした中で、ファード・シニオーラ内閣(同年7月樹立)は「反シリア」勢力基盤にしていたことから、対シリア国境の画定作業がシャブア農場の帰属問題を解決するのみならず、同国とヒズブッラーの拠点を結んでいる武器供給ルートの遮断や、引いてはその武装闘争の終焉につながると計算し、国際的な助力を求めた。その結果、2006年にはドイツからの支援を得て、シリア・レバノン間の国境線画定作業が着手されたが、シニオーラ内閣の反シリア姿勢などにより、シリアからの充分な協力を得ることができず、進捗しなかった。こうした中で国連は2007年6月に、その国境査定チームの報告書において、レバノン・シリア国境における武器密輸の取り締まりが不十分であると指摘した。その後2008年10月には、シリアが1946年に、レバノンが1943年にそれぞれフランスからの独立を達成して以降、両国間には外交関係樹立されず、また相互に大使館も設置されない状態が続いてきていた中で、国交樹立に関する共同宣言が調印されるに至ったことから、国境線の画定が進むとの見通しが生じた。だが、レバノンにおいて「反シリア」の内閣が続いたこと(2009年1月にサアド・ハリーリー内閣が樹立)や、シリアが対イスラエル戦略の観点から国境線画定に消極的であったことにより、進展はやはり見られなかった。

2011年3月以降にシリアで反体制運動が勃発すると、対レバノン国境が確定されていないことは、両国にさまざまな影響をもたらしている。シリアにおける戦闘が激化するに伴い、同国からの避難民がレバノン北部や東部の国境地帯に逃れてきている他、武器搬入や戦闘員の出入り、あるいは負傷者搬出のためのルートが、国境管理の曖昧さを衝く形で両国間に形成されてきている。シリア政府は反体制運動の発生間もない2011年4月に、同国との国境に近いベカー地方選出のレバノンの国会議員が、反政府勢力に武器や資金を提供しているとして非難したが、同国からシリアに向けた武器の需要は高まっており、ベイルートではカラシニコフ銃などの値段が倍増する現象が生じている。の後2012年4月には、シリアの反体制派に向けた武器を密輸していたとされている貨物船が、リポリに向けて航行中にレバノン国軍によって同国海域で拿捕されるという事件も発生した。

シリア国軍は他方で、同軍からの脱走兵が組織した「自由シリア軍」や、その他の反対勢力がレバノン領内に攻撃拠点を構えていることから、越境しての軍事作戦を頻繁に遂行している。このような状況は、レバノン民間人や取材を行っていたジャーナリストらが、シリア国軍の発砲によって負傷する事件を生じさせていることから、両国国境の現状は昨今、国際的な懸念や注目をより一層集めている。(小副川琢)

 『ニュルンベルク裁判1945-46』でパウルスが証人として出廷していたことを知る

『ケニアのくらし』

2023年09月13日 | 3.社会
『ケニアのくらし』

ケニアと東アフリカの歴史①

人類誕生の地の東アフリカ

●中部アフリカからやってきたケニア人

サバンナの大地をつくるアフリカ大地溝帯は、野生動物たちの宝庫であるとともに、人類誕生の地としても知られています。

大地溝帯にあるケニアのトゥルカナ湖畔では、人類の祖先とされる一四〇〇万年まえのラマミテクスという猿人化石がみつかっています。タンザニア北部のオルドバイ峡谷では、二〇〇万年以上もまえのホモ・ハビリスとよばれる人骨の化石や石器など、人類のはじまりとされる証拠がいくつもみつかっています。

紀元前六〇〇〇年ころ、ナイル川やサハラ砂漠ふきんにすんでいた人々が、ケニアのサバンナ地帯にうつりすんできます。そして紀元二世紀ころ、今のケニア人の多くをしめるバントゥー系とよばれる民族が、中部アフリカからやってきました。

●交易でさかえた東アフリカ沿岸

やがて八世紀ころから、東アフリカ沿岸のモンバサ、ラムなどに、アラブ人の商人がうつりすみ、都市をつくりはじめました。アラブ人たちは、各地の民族から、金や象牙、皮革などばかりでなく、奴隷も買いいれ、大きな富をえました。

ポルトガルのバスコ・ダ・ガマが、アフリカ大陸南端の喜望峰をまわって、インド洋沿岸にやってきたのは一四九八年のことです。ガマの報告をうけ、数年後にポルトガルの軍艦がおしよせ、アラブ人がつくったまちをせめました。抵抗するものはことごとく殺し、あらゆるものをうばいさりました。そしてこれをさかいに、アフリカ大陸は数世紀にわたってヨーロッパの国々からの侵略になやまされることになったのでした。

ポルトガル人による奴隷貿易がさかんになりました。南北アメリカ大陸には、一六世紀には九〇万人、一九世紀までに一四六五万人もの人々が奴隷としてはこびさられました。しかも、せまい船底におしこめられてはこばれたので、五人にひとりしか生きのこれなかったといわれます。アフリカ大陸から七〇〇〇万人以上のアフリカ人がうばいさられたと推定されています。

奴隷貿易に反対するイギリスのリビングストンは、キリスト教をひろめるとともにアフリカ探検を一八四一年にはじめます。探検家スピークは、一八六二年に、ビクトリア湖がナイル川の水源であることをつきとめます。しかし、これでアフリカがさまざまな資源の宝庫であることがわかると、ヨーロの国々は植民地をえようときそいあうようになりました。

一八六九年のスエズ運河開通は、さらにヨーロッパの国々による侵略をしやすくしました。

●ヨーロッパの国々がきめた領土

一八八五年のベルリン会議では、イギリスをはじめフランス、ドイツなどのヨ―ロッパの国々が、アフリカ大陸をどのように支配するかとりきめました。

ケニアの地は、イギリスが支配する東フリカ保護領になりました。今のケニアの中央高地の原住民の土地は、農園をつくるのにてきした土地であるということで、白人にうばいとられました。原住民だけでなくインド洋沿岸のアラブ人も、交易の仕事ができなくなるので、これにはげしく抵抗しました。

一八九五年、イギリスはモンバサからキスムにむけて鉄道建設工事をはじめました。この鉄道は、内陸の鉱物資源や農作物を、モンバサの港からイギリス本国におくりだすための鉄道でした。鉄道建設のために、イギリスの支配するインドから三万五〇〇〇人ものインド人が移住させられてきました。

●白人入植者のための法律

現在のケニアの首都ナイロビは、この鉄道建設工事のキャンプ地としてつくられたのがはじまりです。ナイロビはやがて、「ホワイト・ハイランド」とよばれる中央高地の入り口の重要なまちとしてさかえるようになります。そこに元からすんでいた人々は原住民指定地においやられ、焼畑農業でほそぼそとくらなければならなくなりました。

一九〇一年、モンバサーキスム間の鉄道が開通します。自分たちの土地をうばわれた原住民は、鉄道の開通をじゃまして抵抗しました。イギリスの保護領政府は、原住民のキクユ族やマサイ族のなかから、協力者をたくみにこしらえ、住民の抵抗をおさえました。

東アフリカ保護領政府は、イギリス本国からたくさんの移民をよびよせ、ワタのさいばいをさせました。これは、それまでの象牙、皮革、トウガラシなどにかわる重要な輸出品目となりました。

保護領政府はさらに、農園の労働者をしばりつけるための法律もつくりました。やとわれている期間がおわらないうちに職をすてたものは、法律でばっせられることになったのです。東アフリカのアフリカ人たちは、自分たちがたべる食料をつくりたかったので、長い期間を農園ではたらきたくありませんでした。それなのにアフリカ人は、むりやりにコーヒー農園にはたらきにでなければならなかったのです。

人類誕生の地であるアフリカ大地溝帯の底には、サバンナの原野とともに、湖がいくつもつらなる。ナクル湖には、断層でできたがけがせまっている。

ケニアと東アフリカの歴史③

苦難の道をあゆむ独立後の国々

●弾圧をはねのけて独立

さまざまな弾圧をうけても、「マウマウ団」は、白人から土地をうばいかえし、独立をかちとろうという運動をねばり強くつづけました。政府軍と戦い、多くの死者もだしました。

独立のための戦いは、ケニアだけでなく、アフリカ各地の植民地でくりひろげられていました。一九五八年に、「全アフリカ人民会議」がひらかれ、独立をかちとるために、アフリカ人が力をあわせようという決議が採択されました。

そして一九六〇年、ソマリアをはじめ一七か国が独立をかちとりました。このかがやかしい年は、「アフリカの年」とよばれました。

ケニア植民地政府も、民族運動をしずめようと、「ホワイト・ハイランド」にアブリカ人がすむことをみとめたり、ケニヤッタを釈放したりしました。しかし、ケニア独立への流れをとめることはできませんでした。九六三年一二ケニアはイギリス連邦自治国として独立をはたし、ケニヤッタが初代大統領にえらばれました。

●かえられなかった経済のしくみ

一九六七年、ケニアは国境をせっするウガンダ、タンザニアとともに、東アフリカ共同体を結成しました。鉄道、港湾、郵便、通信などを共通のしくみで運営し、先進国にまけない国づくりをしようというものでした。しかしそれぞれの独立後は、工業化がすすんでいるケニアに有利であるということで、三国の足なみがそろわなくなりました。それどころか、ウガンダでは反対者を虐殺するという恐怖のアミン政権ができ、三国の国境はとざされてしまいました。

ケニヤッタ大統領は、外国の資本をとりいれ、工業化もすすめました。一九六四年から一九七三年にかけてのケニアの国内総生産の平均成長率は、年六・六%にのぼるほどになりました。

農業にも力をいれ、「ハランベー(わけあいたすけあう)」という大統領のスロガンのもと、かつてのホワイト・ハイランドにアフリカ人がぞくぞくと入植しました。九七〇年までに、三万五〇〇世帯が入植しました。しかしこの人植計画は白人入植者といれかわりに大農場をもつほんのひとにぎりのゆたかなアフリカ人農民をつくることになってしまいました。

一九七八年に、ケニヤッタ大統領が死去すると、モイ副大統領が大統領にえらばれました。

●アフリカの大きな問題、難民と飢餓

いまケニアのまわりには、内戦のためにあれはてたエチオピアやソマリアなどの国々がとりまいています。

そして、これらの国々がケニアに深刻な影響をあたえています。

一九九二年、国境をせっするソマリアでは、内戦がはげしくなり、戦火をさけてケニアにたくさんの難民がにげてきました。一九九四年には、ソマリアだけでなくスーダンでも内戦がおこり、難民がおしよせてきました。ケニアへの難民は、あわせて四〇万人にもたっしたといわれます。これにおいうちをかけるように、ケニアでは三年つづきの干ばつで、五〇〇万もの人々が食料不足になやまされました。

このように、内戦や飢饉のため国境をこえてはいってくる難民をかかえた国は、アフリカ大陸のなかだけでも二〇か国以上もあるといわれます。そして、難民をうけいれた国で、国民の食料すら不自由している国もたくさんあります。

ケニアにはいった難民は、職をもとめて大都市ナイロビにもおしよせ、スラムがふくれあがりました。失業者がまちにあふれ、大都市ナイロビの治安はきょくたんに悪くなってしまいました。

モイ大統領は、国連難民高等弁務官務所に、難民が自国へかえれるようにしてほしいともうしいれました。しかし、国連が兵をだしてソマリアの内戦を解決しようとしたことが失敗におわり、ソマリアでの和平が遠のいてしまいました。と同時に、難民が自分の国へもどれる日てしまったのです。

ケニア略年表

◆2世紀ころ中央アフリカのバントゥー系がインド洋沿岸にうつりすんできた。
◆730年ころインド洋沿岸のモンバサ、ラムに、アラブ人の商人がおとずれる。
◆16世紀はじめポルトガル人が進出して、インド洋沿岸のアラブ人とあらそう。
◆16世紀ころ西アフリカでの奴隷貿易がさかんになる。
◆1750年ころ東アフリカでも奴隷貿易。
◆1807年イギリス、奴隷貿易禁止令。
◆1841年リビングストン、キリスト教の宣教と探検を開始。
◆1863年アメリカ、奴隷解放令を公布。うんが◆1869年スエズ運河開通。
◆1884~85年ベルリン会議で、イギリスをはじめフランス、ドイツなどの国々が、アフリカ大陸をわけあった。ケニアを中心とする東アフリカ保護領は、イギリスに。
◆1895年モンバサからナイロビーキスム間の鉄道建設工事はじまる。
◆1901年モンバサーキスム間の鉄道開通。
◆1903年東アフリカ保護領で、原住民の土地所有を制限する条令が制定。
◆1905年ナイロビが首都となる。
◆1914年第1次世界大戦がはじまる。
◆1918年アフリカ人がコーヒーをさいばいすることが禁止された。
◆1939年第2次世界大戦はじまる。
◆1952年キクユ族のマウマウ団による土地の返還と独立をもとめる民族運動。
◆1958年人種差別撤廃と独立をめざし「全アフリカ人民会議」がひらかれる。
◆1960年ソマリアなど17か国が独立。「アフリカの年」とよばれる。
◆1963年12月12日、ケニア独立。
◆1964年ケニヤッタ、大統領につく。
◆1978年ケニヤッタ大統領死去。モイ副大統領が大統領にえらばれる。
◆1992年ソマリアで内戦。戦火をさけて、なんみんケニアに難民がにげてきた。

『ニュージーランドのくらし』

2023年09月12日 | 3.社会
『ニュージーランドのくらし』

ニュージーランドの歴史②

イギリスの海外農園からの自立

●帆船でやってきた人々

一五世紀の終わりごろから、世界の海には新天地をもとめるヨーロッパの帆船がいきかうようになりました。ニュージ―ランドに最初にきたヨーロッパ人はオランダ人のタスマンで、一六四二年のことです。そして一七六九年には、イギリス人のクックがやってきます。

その後、アザラシの毛皮やクジラのあぶら、木材などをもとめて欧米人たちがきます。マオリ人はこれらの人々に食料を提供するかわりに、おのや釘などの鉄製品、毛布などを手に入れました。

●ワイタンギ条約とマオリ戦争

一八四〇年、イギリスはニュージーランドを植民地にするために、マオリの各部族の首長をあつめて、北島の北部にあるワイタンギで条約をむすびます。条約では、この地の主権はイギリス国王のものとなること、マオリ人たちはイギリス国民として権利を保証されること、マオリ人の土地所有を保証するとともに、土地の売買はイギリス国王とのあいだでだけおこなうことなどがきめられました。

しかし、実際にはマオリ人の土地が不正にうばわれたりして、とうとうマオリ人とイギリス軍とのあいだで戦争になってしまいます。戦争はおもにマオリ人の多くすむ北島でくりひろげられ、二〇年近くにもわたりました。

戦争はマオリ人の敗北に終わり、このあいだにマオリの人口も減りました。減ったのは戦争のためばかりではありません。ヨーロッパ人がもたらした病気も原因でした。長いあいだ、孤島にくらしていたマオリ人たちは外界からの新しい病気に対して抵抗力がなかったのです。マオリ戦争のあいだ、南島では牧畜農業がさかんになっただけでなく、金鉱が発見され、移民もふえて発展しました。

●つぎつぎとうちだされる社会政策

一八六〇~七〇年代は、この国の風上にあった羊の品種改良がされたり、小麦枚培が軌道にのったりして、牧畜農業の基礎ができた時代です。また、国内外の交通や通信網も発達しました。

一八八〇年代には、集約的な農業が発展して、バターやチーズなどの輸出がふえました。それに冷凍技術が確立し、羊肉が冷凍船でイギリスに輸出されて、順調に成績をのばしていきます。

一八九〇年代は、議会で政党による政治がはじまり、数々の進んだ政策がうちだされます。一八九三年には世界で最初の婦人参政権が確立。一八九八年には、この国最初の社会保障制度として、老齢年金制度がうちだされました。

●参戦、そして独立国家へ

20世紀に入ってからも、羊毛や羊肉、酪農製品などの輸出はさかんで、ニュージーランドの農産物輸出国としての地位はゆるぎないものとなります。なかでもイギリスとのきずなは強く、ニュージーランドはイギリスの海外農園とまでいわれるほどでした。

  • 第二次世界大戦のいずれも、ニュージーランドはイギリスを助けるために、戦地に兵をおくります。そのことが人々に、自分たちの国が独立した国であることを意識させました。

二つの大戦にはさまれた一九三〇年は世界的な不況の時代で、この国も影響をうけましたが、大規模な事業をおこして雇用をふやし、年金制度も確立し、国による医療活動をはじめました。

第二次世界大戦はイギリスをふくむ連合国の勝利に終わりましたが、イギリスにとって二つの大戦の犠牲は大きく、経済的にすっかりおとろえてしまいました。一九四七年、ニュージーランドはイギリス連邦の一員となり、ひきつづきイギリスとの深い関係がつづきます。

ところが一九七〇年代になると、イギリスがヨーロッパ共同体(EC)に加盟今までのようにニュージーランドの輸出品がイギリスにうけいれられなくなってきました。このころから、この国はアメリカやオーストラリア、日本などに市場をもとめはじめます。そして、それは近年、ますますさかんになっています。

●社会保障、福祉のゆくえ

数々の先進的な社会保障、福祉政策を打ちだしてきたこの国ですが、一九七〇年代は石油ショクや農産物の国際的な価格低迷のために、国の財政は赤字になってしまいました。

そこで八〇年代になって、いろいろな行政改革をしたり、経済活動にじゃまな規制をゆるめたりしました。そのかいあって、やがて財政は黒字にかわりました。しかし、思い切った改革のために、社会保障や福祉政策が後退してしまいました。現在、国民はこの国にふさわしい政策を政府に問うています。

↓ウエリントンにある戦争記念館。第一次・第二次世界大戦では、3万人近くものニュージーランド兵が戦死した。

ニュージーランド略年表

◆9世紀ころタヒチ島方面からポリネシア人がLONて、モアを狩猟しながらくらす。
◆13~14世紀ころ現在のマオリ人の先祖がきて、焼畑農耕と狩猟採取の生活をはじめる。1642年オランダ人、タスマンが南島に到達。●1769年イギリス人、クックが南北両島を探検。
◆18世紀末~19世紀はじめアザラシ、クジラ、木材をもとめて欧米人がくる。
◆1814年マオリ人に対してキリスト教布教。◆1840年ニュージーランド会社による移民はじまる。ワイタンギ条約がむすばれる。
◆1841~45年第一次マオリ戦争。
◆1848年オタゴ協会による入植開始。
◆1850年カンタベリー協会による入植開始。
◆1854年ニュージーランド国会開設。
◆1860~72年第二次マオリ戦争。
◆1861年オタゴ地方でゴールド・ラッシュ。
◆1865年ウエリントンへ遷都。
◆1867年マオリ男性の選挙権みとめられる。
◆1882年羊肉をのせた冷凍船が就航、
◆1893年世界最初の婦人参政権みとめられる。
◆1898年老齢年金給付法成立。
◆1899年南アフリカ戦争に派兵。
●1907年イギリスの植民地から自治領になる。
●1914~18年第一次世界大戦に派兵。
1938年医療の無料化、年金制度の拡大。
1939~45年第二次世界大戦に派兵。
1947年ウェストミンスター憲章を批准し、イギリス連邦の一員になる。
●1965~72年ベトナム戦争に派兵。
●1973年南太平洋での仏の核実験に抗議行動。
●1984年行政改革、規制緩和に着手。

正義は超の一つかもしれない個の存在の力を発揮させるせーらは正義#早川聖来
それが福祉だとかということよりも国家が国民にサービスすることを自覚してるかどうかが重要です