Sunday Song Book #1447

2020年07月05日 | Sunday Song Book

2020年07月05日プレイリスト
「ジャニー喜多川さん一周忌 初代ジャニーズの洋楽アプローチとアメリカ進出計画」
1. リトル・ホンダ / ザ・ジャニーズ '64
2. AUTUMN AFTERNOON / THE JOHNNYS '66
3. AUTUMN AFTERNOON / TEDDY NEELEY '67
4. AUTUMN AFTERNOON / THE ASSOCIATION '11('67)
5. NEVER MY LOVE / THE JOHNNYS '66
6. NEVER MY LOVE / THE ASSOCIATION '67
7. I REMEMBER / THE JOHNNYS '67('66)
8. NOTHING SACRED / THE JOHNNYS '67('66)
9. THE VISIT / THE JOHNNYS '66
10. THE VISIT (SHE WAS HERE) / THE CYRKLE "NEON" '67
11. バットマン / ザ・ジャニーズ '66
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■内容の一部を抜粋
・近況
豪雨で熊本県の球磨川が氾濫したことに触れて。「被災された方が出てまいりまして、本当にお見舞い申し上げます」と達郎さん。そして新型コロナウイルスの感染者がまたじわじわと増えてきている。時節に関して山のように申し上げることが出てくるという。「みなさん、考えてること、おそらく同じなので(笑)、ですので、もう申し上げません。でこうなったらもう、ですけど、まぁ、毎週申し上げておりますけれど、ワクチンできるまでの我慢なので。ファイザーがワクチンの治験はじまったとか、前向きなニュースも入ってきております。一人ひとりがですね、手洗い、うがい、マスク、自衛するしかありません。で、やばいとこ行かないという。そういうかたちでですね、いくしかないので。隣近所の人たちで助け合っていくしかない。そういう感じでございます。みなさんで引き続きですね、感染お気をつけください」と達郎さん。
スタジオに戻ってきて音の調整も技術の丸山くんと結論が出てテレワークと同等の音質でやれるようになったという。

・ジャニー喜多川さん一周忌 初代ジャニーズの洋楽アプローチとアメリカ進出計画
今週7月9日はジャニー喜多川さんの一周忌。ジャニーさんがいちばん最初にジャニーズ事務所をスタートさせたのが1962年。初代ジャニーズの結成でジャニーズ事務所が設立された。達郎さんは当時、ジャニーズをよく聴いていたという。1966年に初代ジャニーズがアメリカに行って、ダンスのレッスン、ミュージカルの鑑賞が目的だったが、レコーディングをする機会に恵まれて何曲か作品を録音したが、残念なことに日本では発売するチャンスがなかった。その後、マスターが紛失したり、いろいろなことがあって、現存するマスターがない。でも、その中の曲が、後に他の人にカヴァーされてヒットしたり、先に枝葉が分かれた。そのような当時のジャニーズのレコーディングの歴史を一度特集してみたいと達郎さんは思っていて、いろいろと音源を集めたり、カヴァーの作品を検証したり、資料を集めたりしていたそうだ。ちょうどジャニーさんの一周忌なのでその機会がきたということで、今週は追悼特集「ジャニー喜多川さん一周忌 初代ジャニーズの洋楽アプローチとアメリカ進出計画」と題して、初代ジャニーズの海外レコーディングのソースをオンエア。

初代ジャニーズは真家ひろみさん、飯野おさみさん、中谷良さん、あおい輝彦さんの4人。ジャニー喜多川さんはアメリカで生まれて朝鮮戦争のときに日本にやって来た。今の代々木公園とNHKのところにあったワシントン・ハイツという旧陸軍の施設で子どもたちを集めて野球チームを作っていた。そこから選ばれた4人が、ウエストサイドストーリーを観に行って感化されて、そういうのを自分たちもやりたいとなった。その4人のマネージャーになって事務所を設立したのがジャニーズ事務所の最初。その当時は歌いながら踊る若い子がそんなにおらず、それのいちばん最初のアプローチだった。当時の歌謡曲、例えば御三家と呼ばれた橋幸夫さん、舟木一夫さん、西郷輝彦さん、そういうような既成の歌謡曲ではなくて、洋楽アプローチの和製ポップスを中心に活動していた。

・リトル・ホンダ
ビーチボーイズの「LITTLE HONDA」は1964年にホンデルズのヒット曲として有名になった。本田技研工業はプロモーション用の「LITTLE HONDA」のソノシートを作った。1曲目がビーチボーイズで、2曲目がジャニーズの日本語歌詞の「リトル・ホンダ」。作詞(日本語詞)は安井かずみさん、作曲はブライアン・ウィルソン、演奏は寺内タケシとブルー・ジーンズ。裏の解説は高崎一郎さんが書いている。1964年の販促物。

ジャニーズは1964年に「若い涙」でレコード・デビュー。邦楽作品の紹介をすべきなのだが、時間がないのと初代ジャニーズの作品はほとんどCD化されてない。そういった芸能の裏面史には興味がないので今回は割愛。テレビのバラエティー・ショーの時代で、たくさん出演したことにより、だんだん人気が出てくるようになった。1965年に紅白歌合戦に出場して「マック・ザ・ナイフ」を歌った。1965年8月に勉強のため渡米。ダンスのレッスン、ミュージカルの鑑賞が目的だったが、偶然にもバリアント・レーベルのオーナーのバリー・デ・ヴォーゾンと出会いレコーディングすることになった。全部で16曲と言われているが現存するのは9曲。そのうちの5曲を今回オンエア。すべてアメリカ・ロサンジェルスでのレコーディング。

・AUTUMN AFTERNOON
初代ジャニーズの1966年の「AUTUMN AFTERNOON」。曲を作ってるのはドン・アドリシとディック・アドリシのアドリシ・ブラザーズ。ジャニーズのヴァージョンが発売されなかったので曲が売られて、後に他の人がカヴァーしているヴァージョンが出た。俳優、シンガーのテディ・ニーリーは映画の『ジーザス・クライスト・スーパースター』の主演で知られているが、この人が翌年1967年にカヴァー。プロデュースがスティーヴ・ダグラスでアレンジがペリー・ボトキン・ジュニア。アレンジはジャニーズのヴァージョンとほぼ同じ。もしかしたらジャニーズのヴァージョンもペリー・ボトキン・ジュニアがアレンジしたのかもしれないが、資料が全くないのでわからない。2011年に発売されたアソシエーションのアルバムにボーナス・トラックとして、1967年にレコーディングされた「AUTUMN AFTERNOON」が収録されていて、アソシエーションのヴァージョンも発掘されている。このヴァージョンはリマスターされた音源が出たときに番組でオンエアしたとか。

・NEVER MY LOVE
ジャニーズの1966年の海外レコーディングで、最も達郎さんの仲間の間で伝説的に語られたのが「NEVER MY LOVE」をレコーディングしたことだとか。「NEVER MY LOVE」もアドリシ・ブラザーズの作曲。この曲はアドリシ・ブラザーズ自身が自分たちの名義で一度発売していて、そのときはチャート80何位くらいだったという。それでジャニーズのレコーディングにつながってゆく(1966年)。この曲は翌年1967年にはアソシエーションのところに持ち込まれて大ヒット・ソングに生まれ変わることになる。

・I REMEMBER
ジャニーズが1966年にレコーディングした楽曲は全部お蔵入りしたわけではなく、アメリカでシングルが一枚発売されており、2曲だけ発表されている。ジャニーズのレコーディングをセッティングしたバリー・デ・ヴォーゾンは、アソシエーションがデビューしたバリアント・レーベルを1967年にワーナーに売却。そんなわけでワーナーのカタログとしてジャニーズのシングルが1967年にリリースされている。このシングルだけ今回の特集では音のいい音源。シングルのA面になった「I REMEMBER」。

・今後の予定
今週はジャニー喜多川さんの一周忌なので追悼特集「ジャニー喜多川さん一周忌 初代ジャニーズの洋楽アプローチとアメリカ進出計画」と題して、初代ジャニーズの海外レコーディングのソースから現存している9曲のうち5曲をオンエア。来週は残りの曲、フォー・リーブスも同じように海外レコーディングしているので、その中からもオンエアする予定で「続・初代ジャニーズの洋楽アプローチとアメリカ進出計画+フォー・リーブス」。

・NOTHING SACRED
1967年のシングル「I REMEMBER」のカップリング曲「NOTHING SACRED」。こちらの方が現存しているテープを知っている人の中では評判がいい。曲を書いてるのはボディ・チャンドラーとエドワード・マッケンドリー。この二人のコンビの作品でいちばん有名なのはカスケーズの「THE LAST LEAF」(邦題は「悲しき北風」)。「NOTHING SACRED」のアレンジはボディ・チャンドラー、プロデュースは書いてないが多分バリー・デ・ヴォーゾン。A面の「I REMEMBER」は作曲・編曲がジャック・ウォーカーとなってるが誰だかわからないそうだ。ニューヨークのサキソフォン・プレーヤーにジャック・ウォーカーという人がいるがイマイチはっきりしないとか。

・THE VISIT
達郎さんの仲間の間で初代ジャニーズの海外レコーディングの音源の中で最もインパクトがあったのは「THE VISIT」という一曲。翌年の1967年に「RED RUBBER BALL」でお馴染みのザ・サークルが取り上げている。1967年のジョン・サイモンのプロデュースしたアルバム『NEON』は細野晴臣さんが当時持っていて、大瀧詠一さんが必死になってアルバムを探していたそうだ。達郎さんも当時聴かされて、「THE VISIT」ってなんていい曲だろうと思って探していたという。後にジャニーズがレコーディングしていた作品の一曲だと知り、それでジャニーズの海外レコーディングに興味を持って、今までずっと音を探し続けてきたのだそうだ。
曲をかけ終えて。「今の人が聴くといわゆるソフト・ロックの範疇でございますが。でもちゃんとハーモニーもきれいですしね」と達郎さん。

・THE VISIT (SHE WAS HERE)
ザ・サークルの「THE VISIT (SHE WAS HERE)」。曲を書いてるのはボディ・チャンドラーとエドワード・マッケンドリー。いつか特集したいコンビだと達郎さん。

ジャニーズの海外レコーディングはなぜ発売されなかったのか。アメリカではやはり発音の問題だとする意見が大多数。でも今の耳で聴くとそれほど問題ではないように思える。よくハモってるし、あおい輝彦さんの声も滑らかでとてもいい表現。一言で言えば早すぎたんじゃないか。特に日本では。当時1ドルは360円で、アメリカに行くには500ドル以上持ち出せなかった。為替レートで18万円。当時のサラリーマンの初任給が4万円から4万5千円。そういうような時代にアメリカでレコーディングするのはまだ大変な時代だった。今回の特集でジャニーズに興味を持った人がいたら、A.B.C-Zが初代ジャニーズの歩みを舞台化している。DVDも出ていて『ジャニーズ伝説2017』がいちばん詳細だと達郎さん。

・バットマン
今日の最後は渡米直前にレコーディングした作品で、テレビ版のバットマンの主題歌。バックはブルーコメッツが担当している。1966年の「バットマン」。

■リクエスト・お便りの宛て先:
ハガキ
〒102-8080 東京FM
「山下達郎サンデー・ソングブック」係
メール
https://www.tfm.co.jp/ssb/
2020年07月12日は、「続・初代ジャニーズの洋楽アプローチとアメリカ進出計画+フォー・リーブス」
http://www.tatsuro.co.jp
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