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津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■「生田又助覺書」閑話休題

2024-04-15 11:08:05 | 人物

 宗孝公江戸城殿中で凶事に遭遇された際、介抱のために殿中に入ることが許された供頭で小姓頭の生田又助のことに触れておきたい。
その後熊本に帰国した際、自宅に帰るより早く藤崎宮に詣で、「日頃は弓矢の御神といとも崇み奉りつれども、萬民の事は扨置、君(宗孝公)の御身一人をだに擁護し玉はねば、此後は敬ひ奉る事も候はじ」といいて絶交をつたえた。「生田の神義絶」というが、又助の無念のほどがひしひしと伝わる話である。
享保19年家督、560石、元文2年2月川尻奉行、其後御使番に召直、寛保元年8月御奉行、延享元年9月御小姓頭、延享4年8月15日・宗孝公逝去、同5年7月御役御断、寛延4年2月御番頭、宝暦2年5月同役御断、同年10月隠居43歳、号・長風。
養子の又兵衛が跡を継いだが、いつの頃か御暇となり生田家は断絶している。又助隠居後の約32年間どう過ごしたのだろうか。
天明4年10月22日歿・75歳 墓・高麗門禅定寺。

  御小姓・御使番・大阪御留守居   御使番・御側弓頭・同筒頭      御切米触頭     
 初代・生田又助ーーーーー 2代・又助(坂崎清左衛門三男)ーーー 3代・又助(小坂半之允三男)ーーー 4代又助(上月十郎大夫二男)ーーー5代・又兵衛   
                                                       (貴田角右衛門二男)御暇・断絶

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■熊本大林區署・・?

2024-04-15 07:07:53 | 古写真

 オークションに「熊本大林區署」なる熊本の古写真が出品されている。
熊本に大林區なんて行政区ないぞ、しかし戦前の話のようだが・・聞いたことがない。何かの間違いではないのかとググってみた。
どうやら行政区ではなく、営林局をそう呼んでいた時代があったらしい。「小林區」もあったらしい。
「市政100周年記念 熊本・歴史と魅力」には掲載されているのではないかと思ったら・・あった。
この写真の建物がどこにあったのかはよくわからないが、熊本大林區署は明治22年に草場丁にあったものが24年には船場川端町、35年には京町台に移転したとある。今は「九州森林管理局」と称する京町にかってあった建物ではなかろうか。
明治45年の「官庁分布状況」という地図を見ると、現在の京町8丁目の中央くらいの位置に熊本小林區署があったらしい。
私が現役時代に使っていたゼンリン住宅地図・熊本市【西部】には、九州森林管理局は熊本営林局・熊本営林署と表記されている。
三人の子供が京陵中学に通っていた時代を思い出しているが、私の中では熊本営林局である。

             
              

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■生田又助覺書(3)

2024-04-14 07:33:49 | 史料

       (生田又助、殿中に入り介抱に勤める)
                   大御目附        水野對馬守様

                   御目附         中山五郎左衛門様
                               土屋長三郎様
  右御三人之内五郎左衛門様被仰聞候は 越中守殿不慮ニ御手疵被負候得共随分御元気も能氣遣成事は無之候  上様ゟ早速人参御拝領
  被成り武田叔安其外御醫師共も御付御療養被成候間罷通御介抱仕候様ニと御老中被仰聞候間左様相心得御看病仕候 先ッ可被仰聞候御
  相手も早速被召捕候間此所は心安可存候 只々御介抱第一之儀候と被仰聞候ニ付又助申達候は御相手之儀は何某様に而御座候哉手疵負
  候旨趣は如何様之訳ニ而候哉と御尋申候得は御大法ニ而相手之名は不被仰聞候 右之通被押■候条各之心懸りは無之候、越中守殿被成
  方宜候ニ付 御上ゟも御懇之御尋候間心安存御介抱致候様ニと被仰聞候ニ付申達候は越中守儀如何躰之仕方ニ而殿中の御■被成申候
  哉と其所恐入居申候處右之通被仰知奉承知候 此上は一刻も早御通シ被下候ハゝ解放仕度由相達申候得は御三人様ニ而直ニ被召連大広
  間之廊下筋江被召連候 御徒目附其外御役人六七人程跡ニ付添参り候 右廊下江 隆徳院様被成御座候 御様躰見上候處存外之重手二而御
  惣身血ニ御染被成御後之方ゟ御身ニ當テ小キ箱腰掛ケ御身之邊を両手ニ而抱居申候 御足は御延不被成様御役人中押居候而武田叔安・
  西玄哲老其外御醫師衆御役人大勢集りニ三十人も可有之と相見申候 忠右衛門儀は直ニ久下善兵衛ニ代り御役分奉抱候 又助ハ御前右之
  方ゟ両人名を申上候節御斑岩ニ被成御座候而名を被聞召斗被成御■候得共御後之方忠右衛門を御覧被成候 力ハ無御座候 扨御相手之名ハ
  何と申候哉如何様之首尾ニ而御手疵被為負候哉右に付而被仰候御儀も御座候ハゝ疾ニ被為仰聞候様ニと相伺候處内そ被仰候御事ハ無之と
  斗被仰候 右御目附様も御家来江後用事之儀無御遠慮被仰候様ニと御申被成候得共其後はいか様とも御意無御座候 早速猖参湯之由叔安老
  御渡候ニ付差上候得共漸被召上候 其已後差上候得は御通兼被成候 再應御相手之儀相伺候得共右之通ニ而殊之外御様躰重ク御見被成候御
  筋も出御しやくりも御座候而最初御役人様被仰聞候通人参共被成御拝領武田叔安様とも御付被成其外御醫師衆御付添 上様ゟ御懇之御尋
  二而御座候由御役人様方被仰聞難有可被思召と奉存候段申上候 左候而叔安老ゟ御相談仕候は殿中之御支無御座候ハゝ屋敷江引取養生加
  へ申度段申達候得は尤ト思召候由ニ而御目附様方江右御挨拶被成候ニ付又助儀も右御三人様江元氣も能相見候間御支無御座候ハゝ退出療
  養を加へ申度候 且又重キ手疵ニ而御座候間此所迄駕を上ケ申度候不案内ニ御座候条此砌之儀可然様御沙汰奉願候段申達候得は■之御支
  も無御座候其通御沙汰被成候由 右之内ニ御召替之御衣類参り候由ニ而御役人持参真白御袷を替シ申候間外之色は無御座候哉と尋候ヘハ
  黒御単物有之候間御単物を召せ申御足ニも毛さんを懸有之候間取除可申存候得共其侭ニ而御駕ニ召せ候様ニと御役人衆叔安老も御申ニ付
  其通ニ而差置候


                 (書き込み中)

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■精読中「興津弥五右衛門の遺書」

2024-04-13 11:47:29 | 書籍・読書

 来週土曜日(20日)の熊本史談会で、森鴎外著「興津弥五右衛門の遺書」引用史料の虚構と真実を担当しお話するために、その著の「初稿」「二稿」を精読を始めた。
「二稿」は本を持っているが、「初稿」は「青空文庫」のお世話になっている。
又初稿の典拠となった「翁草」と照らし合わせてみると、翁草自身が細川三斎忠興の三回忌の年月を間違えたりしているが、ほぼほぼ全体の話のつじつまは合っている。
一字一句とはいかないが、精読していると、長編小説ではないのだが時間もくうし、草臥れてしまう。
ただ寛永元年に横田清兵衛を殺害したという「初稿」「二稿」の時代設定が間違っているため、この小説全体の形が虚構となってしまっている。
殺害の原因となった、細川家と伊逹家の入札で争ったという事実は、細川家・伊達家資料で否定されている。
虚構だと思いながら読むと、何とも虚しさを感じてしまうのが正直な感想である。
「真実は小説より奇なり」といえるこの内容を、どう皆さんに判りやすくご説明しようかと考えていると、残り一週間は胃痛ものだが、三四日で声を出しながら精読したいと思う。
        

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■生田又助覺書(2)

2024-04-13 06:11:40 | ご挨拶

   右之通御供廻り二而五時(8時)早速 御登城被成候 御玄関二而毎之通御刀は山田嘉左衛門并村山傳右衛門共二四人惣構懸二参り
   居申候前五半時(9時)前御役人参り知せ申候ハ殿中騒動候 口論二而も有之候弥と申候二付脇方之御供中も一同二御玄関前江立寄
   居申候内所々之口々締切二相成り只今下城之者は無之哉一人も通間敷由御徒目附御玄関ゟ御門迄通シ左候得共登城之分ハ通シ候様二
   と有之 追々御出仕之御衆多有之候処無程御門二も締申候而出入堅仕せ申間敷候 右之内書付を以テ此分ハ通シ入候様二而御門ゟ御役
   人相渡候様子二相見候 御三家様方ハ大御門ゟ御入其外御老中様方若御年寄衆重キお役人方ハ小門ゟ其已下之御役人方ハ御自身迄御
   入御家来ハ一人も通シ不申候 右之程強候内御年若越中様御手疵被負候旨之事申候得共軽成事知レ申候 何も見知候者にハ尋候へとも
   松平越中守様之よし又は此方様之御席ニ而は無之由軽ニ承候と松平兵部大輔様御留守居知せ申候ニ付此節ハ御同席方之御供中何連も
   少シ息を突流シ申候 所々之沙汰ニ而不分明候 井上周碩・宇田川元覚抔も御門未タ締り不申内御玄関前江参り候共口々締り急ニ難入
   込暫ハ御玄関前江扣居申候 然處ニ水戸様御登城ニ付彼方様之御城使江村山傳右衛門承り候処軽ニは不相知候 いつ連軽キ御事之由氣
   遣仕間敷由申聞候 扨ハ弥此方様ニ而御座候と無是非何とそと存居候内内田玄徳・太田友巴・土田門嘉・吉田長佐番所口ゟ罷出御手
   疵餘程之御儀ニ候御召替之御袷に而も御小袖ニ而も急ニ取寄候様ニ申候ニ付傳左衛門儀御役人方江申達御徒目附同道ニ而中舊御門外
   御挟箱可有之所江取ニ参り候 御坊主四人江御相手之事尋申候得とも相知不申由申聞候 然處御目附中山五郎左衛門様右張番所口ゟ御
   出細川越中守殿之家来と御呼候ニ付又助参候得は供頭ニ而候哉と御尋其
通と答候得は御側之者も有之候ハゝ両人上り候様にと被仰聞
   候ニ付忠右衛門・又助両人之刀ハ御城使江持せ五郎左衛門殿江付候而上り申候 張番所ニ而被仰聞は脇差を相渡候様ニと御申付いか
   様之御様筋ニ付脇差御受取候やと相尋候得は 越中守殿御解放之為御通し被成候間左様ニ相心得候様御定法ニ候間刀■渡候様帰候時
   分御渡可申成名を申聞候様付札ニ致置候由御申ニ付左候ハゝ畏り候と而脇差相渡候 銘々名を申達候 扇子も渡し候様被仰聞其通被致
   候 其上ニ而右之所ゟ表御玄関掛板之上十間程御出候而左之板之上ニ御座着申渡候

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■「永青文庫研究 第7号」の寄贈の案内

2024-04-13 06:10:39 | 熊大永青文庫研究センター

                 紀要7号表紙.jpg

 本年も又、熊本大学永青文庫研究センターが発刊された「永青文庫研究 第7号」の寄贈の案内が下記のごとく発表されています。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・            

      本紀要をご希望の方には寄贈申込みを受付いたします。ご希望の方は、必要事項をご記入の上、はがきにてお申込み下さい。
      先着順とし、無くなり次第受付を終了いたします。また、発送は4月26日以降となります。ご了承ください。

      ※メール・電話などでのお申込みは受付けいたしません。 

      宛 先:〒860-8555 熊本県熊本市中央区黒髪2丁目40-1
             熊本大学永青文庫研究センター

      はがき記載事項:
           ・『永青文庫研究』7号希望の旨
           ・送付先の郵便番号、住所、氏名

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■小笠原長基手前不成、銀20貫借用

2024-04-12 16:39:15 | 人物

     (寛永五年正四月)十二日         

         | (長元)小笠原備前家二代・長基、ガラシャ夫人に殉死した少斎の嫡子 6,000石      
小笠原長元困窮シ |一、小笠原備前殿御手前不成ニ付而、寛永四年ニ 御袖判壱枚被仰請、上方にて銀弐拾貫目御借用
借銀二ツキ忠利ノ |  候、左候て、当春被成御請返、 御袖判被差上候、則飯田才兵衛を以、 御前へ上申候処、御前
袖判ヲ乞ウ    |                                            〃
銀二十貫上方ニテ |  判御やふりなされ御出候、又備前殿右之 御袖判請返上可申との請状、 御前ニ上被置候をも、
ノ借状ヲ請返ス  |                         (松井興長)
忠利借状ヲ破棄ス |  同前ニ 御前ゟ出申候、明日上方へ便宜御座候ニ付、式ア殿ゟ備前殿へ御上せ可有由、■■被仰
         |  越候間、則式ア殿へ持せ遣候、

 頭注には長元とあるが、長基が本当だと思う。豊前時代の話である。
寛永四年に家政が立ち行かないので、忠利公の袖判をお願いして上方で銀20貫を借用したが、その返済が済んだので借用書を受け
取り返上したというのである。
すぐさま破却(焼却か)するようにとの仰せつけであった。

この時期の金と銀・銭の関係は、1両=銀50匁=銭4,000文といわれるから、銀20貫=20,000匁/50=400両、1両=10万円とす
ると4,000万円という膨大な金額である。
なぜこのような借銀が必要であったのかは良くわからないが、6,000石の御大身ともなれば家臣その他相当数抱える必要があるから
その経費は莫大であったろう。
しかし、1年ほどで返却ができたということは、ざっと米400石+利息がコメ相場を見ながら返却されたのだろう。
袖判とは、藩主の確実な保証があることを示すために、藩主の花押が入った借用書の事である。
6,000石の大身であるとともに、ガラシャ夫人に殉死した小笠原少斎の嫡子であるということもあるだろう。
袖判での借銀だから利息は普通より安いのだろうが、それでも10%くらいは取られたのではないか。
侍の借金は年率18%だともいうから、身代はつぶれてしまう。

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■生田又助覺書(1)

2024-04-12 06:10:47 | ご挨拶

 先に細川宗孝公の江戸城内での凶事を取り上げた「隱見細倉記」をご紹介してきた。
実はこの記録は何方が書かれたものかがはっきりしていない。今回ご紹介する「生田又助覺書」は、其日に江戸城登城に
供頭として随伴した御小姓頭・生田又助の記録であるから、これぞ正確な報告書であろうと思う。

御紹介する順番を間違えたようにも思うが、44頁に及ぶもので読み下しながらタイピングしてご紹介してみたい。
3頁で15日、4頁で11日、頑張りましょう。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

隆徳院様御変之記録也
    生 田 又 助 覺 書

  延享四丁夘年八月五時早速 御登城御供左之通
     御小姓頭     生田又助
     御側御取次    伊藤忠左衛門
     右同       山田嘉左衛門
  右三人御城御玄関迄御供仕候
     御側御取次下乗江残候
              平野庄太夫
              篠原喜左衛門
              高岡吉左衛門
     御駕奉行     平野太郎四郎
              門岡弾之允
     御小姓組     梁瀬八左衛門
              宇田又左衛門
              田屋尉左衛門
              高瀬喜左衛門
              安井左内
              神西長右衛門
     御中小姓     村上又太郎
              續 彦太夫
              坂口文次
              多田段助
              神戸尉右衛門
              魚住弥兵衛
     歩御使番     鈴木伴助
              三宅才右衛門
              永原新蔵
              吉川五大夫
              矢田郡次右衛門
              浅見源右衛門
     御供押御側足軽  佐藤順右衛門
              中津伊三
              荒木五太夫
              池田仲右衛門
              中原新助
              三和及平
     御注進外様足軽  前原伴七
              津林庄兵衛
     合羽支配外様足軽 江藤傳右衛門
              黒瀬團平
     御中間小頭藤井徳右衛門、御駕小頭下川加右衛門・御手廻小頭鹿島次右衛門
     御留守居御城御供御行列之外村山傳右衛門

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■尺貫法と漬物文化

2024-04-11 15:16:31 | 爺の遠吠え

 私が建築設計の世界に入ったころは、メートル法と尺貫法が両立していた。
そして、現在でも建築の世界では尺貫法の名残として、柱は10尺ものとか2間ものとかで製材されるし、ベニヤとかボード類も36物というのは3尺×6尺である。
一時期尺貫法をなくそうという動きがあったとき、反対運動の旗を振ったのが永六輔氏である。
建築の曲尺に限らず、いろんな職人さんが尺の世界で働いていた。着物を仕立てる職人さんは鯨尺であり、曲尺の一尺(30.3㎝)は鯨尺では一尺二寸五分(37.8㎝)と独特の世界があった。
その騒動の結果は、うやむやの内に収束したが、鯨尺の物差しをある筋(Y)が買い占めたなどの話が残る。製造は禁止されたが、使用するものを罰するまでには至らなかった。
永六輔氏著「明治からの伝言」に20頁ほどを割いて「計量法を粉砕せよ」という項に、一部始終が書かれている。

 今般の食品衛生法の改定などの話を聞くと、六輔氏黄泉の世界から大激怒されること間違いない。
道の駅などを訪ねると、地元の方々が細々と作られた地方の豊かなお漬物が並んでいる。
メーカーさんが大量に作る漬物とは違い、手作りの魂が感じられる。態々それを好んで購入するほどのことである。
昨今「紅麹」の問題で、食品・薬品の製造管理に関して役所が神経質になっている。
そのうちには、ウナギ屋さんの「タレ」とか、クサヤの干物の「タレ」とか、そんなものまで規制し始めるのではないか。
規制が過ぎると、日本の文化が失われることになる。かって「地方創生」という言葉があり、「一村一品運動」などが盛んになり地方の知恵が具現化されて、つまるところ「道の駅」などの賑わいを作り出した。
担当役所のお役人からすれば、事件につながるようなものはすべて規制の網をかぶせてしまえという、余りにも安直すぎる発想ではないか。
永六輔氏の後を引き継いで、大声を張り上げていただけるような人は居られないのだろうか。
誠に残念極まりない。

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■正保年以降死去までの光尚公と宇土支藩の創立

2024-04-11 06:30:52 | 歴史

御代々様御参勤帰国(3)光尚公」における、正保年以降死去されるまでの記録には以下のようにある。
叔父・細川立孝や祖父・三斎の逝去による八代分領の解体や、宇土支藩の創立、家老・松井興長を八代城城代に定めるなど、
種々難しい判断を強いられ、
31歳の若さで逝去された。
参勤・帰国のスケジュールに、それら宇土支藩創立に関わる記事を重ねてみた。

一、正保元年 寛永二十一年改元 四月廿四日御暇被仰出 五月三日江府御発駕 同廿七日熊本御着
一、同二年二月十二日熊本御発駕 三月十二日江戸御着 同十五日御拝礼
     ・同年五月十一日、叔父・細川立孝逝去・31歳(江戸中屋敷)
     ・  同 廿三日、同上の次第八代へ使者清田清十郎十一日出立、この日着す
     ・同年十二月二日、祖父・細川三斎逝去・83歳(八代城)
     ・同    五日、泰勝院にて葬儀、
     ・同  四~八日、殉死者・4名
     ・同 十二月九日~三年四月半ばまで 丹羽亀之丞の八代御附衆の動向の報告・8件
     ・同 十二月廿一日付光尚書状 八代に宮松(立孝)は置かない。宮松屋敷は領内二ヶ所(木山・隈部)に何れか。

     ・同三年二月二日・光尚書状 「宮松の屋敷構えは宇土」に内決
     ・同三年四月十七日、幕府三斎養女お三・宮松の身上問い合わせ。同日返答。
     ・同三年六月十一日、老中より「宮松殿之儀御内分之事候間、御心次第ニ可被成之旨被仰達候」の承諾
     ・同上、光尚使者家老小笠原備前・小姓頭田中左兵衛、宮松江「宇土・益城ニ郡之内ニ而御知行三万石、宇土ニ而屋敷被遣之旨」を伝。

      宮松、帯刀と改名す。
一、同三年四月十八日御暇被仰出 六月十三日江戸御発駕 七月十一日熊本御着     
     ・同年八月朔日、細川忠興嫡男・忠隆逝去・67歳(京都)
     ・同 八月四日、細川帯刀、将軍家光に御目見し行孝と改名す。
     ・同 八月六日、光尚「八代之侍共ニ申渡覚」伝達す。
     ・同 八月十日、三斎側室立法院・養女お三(後の行孝正室)、小川お茶屋に移る。
     ・同 八月十三日、松井興長、八代に入城
     ・同 八月廿六日、光尚宇土へ赴き、家老佐方与右衛門に土地境界その他を指示。
     ・同 九月廿六日付、行孝より光尚へ種々御礼の書状
一、同四年三月十三日熊本御発駕 四月四日江戸御着
     ・同年九月ころ、行孝居館完成。
     ・興津弥五右衛門、殉死を願い出十月廿九日御暇乞い、十一月二日江戸出立
     ・同年十二月二日、三斎三回忌ー京都にて興津弥五右衛門殉死す

一、慶安元年( 正保五年改元) 二月御暇被仰出 同十四日江戸御発駕 三月三日熊本御着
     ・同年春ころ、立法院・お三屋形完成、小川お茶屋から移る。
一、同二年三月三日熊本御発駕 同廿五日江府御着 四月朔日御拝礼
     ・同年十一月廿四日、御母堂保壽院様逝去・53歳(江戸)
一、同年十二月廿六日御逝去(31歳)

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■興津一族「興津九郎兵衛の法華坂での殺害事件」・他

2024-04-10 06:40:09 | 人物

■沖津九郎兵衛、米田家馬乗り衆を殺害す (上妻文庫-風説秘話から)
     忠利公御代沖津九郎兵衛とやらん四尺斗の長刀を差ける

     か法花(華)坂而小便を志けるま監物殿の馬乗通り懸り小尻を
     蹴沖津振返て何者そと咎しに馬乗却悪口せし故
     沖津抜打に斬殺けり 夫より今のの後四角迄来     榭 = 時習館の東・西榭のことか?
     りしに早此事監物殿聞へ討手を向らる様子て大勢
     門前集り既可押懸躰なれ者沖津引返て大頭志水
     伯耆殿 今の小笠原大部殿屋敷 只今様/\の訳て手打仕候処監物
     殿ゟ討手を向様子見へ候故差圖を受可申ため参
     上仕候と云しか伯耆殿聞て早々御通りし得とて沖津
     を座敷通し扨有合家来共に下知して門を打せ鉄
     砲を持て長屋の屋根に上らせられし中早監物殿の者共ハ
     沖津伯耆殿馳込たりとて志水殿門前押寄監
     物申候 沖津何某手前家来を討て其元罷在由早々
     御渡可成と云しか伯耆殿返答御家来不届之儀御座
     候沖津九郎兵衛討果申候然るを相渡申候儀決而不相成
     申候と云れしかとも監物殿家来共猶強而御渡可成と
     云募しか伯耆殿申たるそ一應不相渡旨理り候を強而
     受取度候て何様共致候へ被見通鉄砲をも賦置候条可
     致覚悟と云れしか監物殿家来共ハ俄の事て着込
     抔せし者も無く勿論鉄砲も不持者兎や角と暫く猶豫し
     たる中使を馳て主人の方云遣ハせしかハ監物殿怒られ
     自身行向て請取べしとて大騒動なりしかハ此事早
     尊聴達シ俄沼田殿を召て仰渡しハ監物家来の
     敵討手を向候由尤左も可有事也 然るに若伯耆様討れ
     候ハゝ監物か討手ニ者汝を差向候間早々其覚悟致居候得との
     上意也 沼田殿警なから御請申上退出し斯成行てハ以の
     外の大事也と直監物殿内々て此由云送られしかハ監
     物殿聞て我忠義を忘たりとて大後悔し早速手の者
     共を引取たるとなり

この事件に於いて知行召し上げ等の目立った処分は為されていないが、後始末はさぞかし大変だったろうと思われる。
殿様の近くにあったと思われるが外様に出されている。この事件がきっかけで出頭の道は閉ざされた。
この事件の時期は、以下に記すごとく九郎兵衛は天草島原の乱で戦死するから、入国の寛永9年の暮れから14年の暮れあたりの5年の間の話である。
知行は弟・弥五右衛門が引き継ぐが、この人物も寛永5年ころ(新資料による私の見解)横田清兵衛を殺害している。
又、弥五右衛門の嫡男・才右衛門は綱利の大なる勘気を蒙り(■推参者・・・おれも 真源院様御子)
知行召し上げになるなど、九郎兵衛と弟・弥五右衛門、その嫡男・才右衛門などの共通する荒々しい性格が見て取れる。

■天草島原の乱における、死者の報告
        口上

    今日八ッ過ニ御人数不残御本陳へ御引取被成候、
    松平右衛門佐殿手ニ未弐百ほとも有之由候を、爾
    今御せめ被成候、もはや弐百迄ハ御座有間敷儀ニ
    候へ共、有之との被申分ニ而御座候、今度討死衆
    之書立御陳場ニ而立なから書進候
        尾崎金左衛門 岩越惣右衛門 小坂半之丞
        山川惣右衛門 平野弥平太
        野瀬吉右衛門 沖津九郎兵衛 神足八郎右衛門
        弓削与二右衛門 猿木勘左衛門 楯岡孫市
        西沢文右衛門 松岡久左衛門 外山平左衛門
    此外ニも可有御座候へ共、未与々より差出不参候、
    手負ハ殊外御座候、与七郎殿・角助殿御無事ニ候、
    角助殿ハ石疵少御おい候
   一五郎右息八助殿石疵ニ而候、少ハ御痛可有之と相
    見へ申候、其外之御息ハ御無事之由
   一椋梨殿御息も無事
   一ゑへの四郎首も参候事
    何も/\手柄を被仕候、跡より可申上候
      二月廿八日    堀江勘兵衛
                    
           監物様
           河喜多五郎右衛門殿
           椋梨半兵衛殿
           沖津作大夫殿        (九郎兵衛三弟)
                  以上

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■熊本史談会4月例会のご案内

2024-04-10 06:39:12 | ご挨拶

         熊本史談会・令和6年4月講演会の御案内                            
                    記
 期日:令和6年4月20日(第三・土曜日)午前9時45分~11時45分(質問時間を含む)
 場所:熊本市電交通局電停前・ウェルパルくまもと(熊本保健所入居ビル)1階「アイポート」
 講師:サイト「肥後細川藩拾遺」主宰、史談会会員・眞藤國雄
 演題:森鴎外著「興津弥五右衛門の遺書」引用史料の虚構と真実
         副題・横田清兵衛は生きていた

 一般参加自由:

    講演前に本会の「総会」を開催いたします。入場は9時30分頃とさせていただきます。
    資料準備のため、事前にご電話申し込みをお願いします。電話(  090‐9494‐3190 眞藤)
    参加費 500円(資料代を含む)を申し受けます。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
 
  今回は予定変更で私が講師を務めることになりました。
 副題にありますように、寛永元年に殺されたとされる「横田清兵衛は寛永五年まで生きていた」という
 ことを示す資料を発見するに及んで、森鴎外の史伝小説「興津弥五右衛門の遺書」の内容には大き
 な齟齬が生じ、小説自体が成り立たないことになります。内容を精査してお話しようと思っています。
 又、次のブログで御紹介する、兄九郎兵衛の「法華坂における殺害事件」や、弥五右衛門の嫡男・
 才右衛門は綱利の大なる勘気を蒙り知行召し上げになるなど、兄弟・嫡男に共通する荒々しい性格
 を感じたりしています。時間が許せばそんなことにも触れてみたいと思っています。  (津々堂)


 
 
 
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■初物の苺は三齋公へ進上するのが恒例

2024-04-09 06:27:09 | 歴史

 寛永六年四月九日の小倉における奉行所日帳にある記録である。
土手廻りに苺が採り入れ時期になっていることから、加々山主馬(可政)が担当である御掃除方の頭・上林甚助に、採り入れの願いを出してきたので許可した旨を奉行所へ報告したら、お叱りを蒙ったらしい。
土手の「初物の苺は忠利公が三齋公へ進上するのが恒例」であるから、主馬に初物を許すのは甚助の落度で沙汰の限り(=言語道断)であるというのである。
「主馬が進上しておれば、忠利が二番目になるではないか」というのがなかなか面白い。

   上林甚助より使ニて申越候ハ 土手廻之いちごう時分も能御座候御取せ候而可然存候 左様ニ御座候ヘハかゝ山主馬殿より
   先日取せ可申由被仰候間各様へ御尋可申と存候つれとも 其砌すきも無御座 又各様へ主馬殿より御尋候而も被仰越候哉と
   存とらせ申候 いま(ほと)時分ニて御座候間御とらせ可然由申候間いつもはつをとらせ候而 三齋様へ上申候ニ主馬より
   被上候ヘハ殿様より被進候ハ二番ニ成申候 主馬所ヘハ遣候儀ハ甚助越度にて 三齋様へ 殿様より御上ケ候てのち主馬
   より上候てこそ可然存候ニ主馬より上候てのち 越中様より御上候とハ成かね申儀ニ候 さたのかきりにて候由返事申候事

 このような話は、柿や山桃などについても同様な話がある。すべからく領内にある者は殿様の所有物であり、勝手に採る事はできない。
「苺」とあるが、今日のような粒の大きいものではなく、野イチゴだろう。旧暦の4月と言えばまさに採り入れ時であろう。

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■「竜馬がゆく」と「海援隊始末記」

2024-04-08 07:06:47 | 書籍・読書

 本棚のどこにどの本があるというのがまだよくわからず、色々探し物をする中で、平尾道雄氏の「海援隊始末記」(文庫)があらわれた。
久しぶりに小一時間ページをめくってみた。

  司馬遼太郎の「竜馬がゆく」が世に出たのは、昭和38年から42年にかけてのことだというが、発刊されるのを待ちわびて次々に購入して
読んだものだ。

今になると青春歴史小説だなと思う。2,500万部売れたというから空前絶後、文藝春秋社も大いに潤ったことは間違いない。
紀尾井町にある同社社屋(現本館)の建築年は昭和41年だから、当たらずとも遠からずだろう。
後に上京した折、わざわざ見学に出かけたことを憶えている。

 司馬氏は多くを語ってはおられないと思うが、竜馬研究の第一人者は土佐藩・山内家の史料編纂所におられた平尾道雄氏に他ならない。
「海援隊始末記」が有名だが、司馬氏も当然これを読んでおられることだろう。竜馬のことを知るためには、この本は必読書である。

その後「竜馬がゆく」を再読していないし、のちには全巻処分した。処がこの「海援隊始末記」はいまだ大事に所蔵している。

私はこの本を、「竜馬がゆく」のブームの後の、昭和54年に購入した。
それは何と平尾道雄氏が亡くなられたその日に購入しており、本の末尾に次のように書き込んでいる。忘れようにも忘れられない本である。

              

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■隱見細倉記-3・了

2024-04-07 07:31:27 | 史料

(目次なし)
1、織田山城守(信舊)殿ハ細川殿塩類之事ニ付越中守殿宅ニ参り相詰心を付可申旨被仰付山城守殿ニハ越中守殿屋敷ニ被罷越家中之面々
   何茂さわき申間敷旨被申渡廿三日修理殿切腹被仰付候迄ハ相詰被申候
   (津々堂注:織田山城守信舊夫人が、宗孝の異母妹・岺姫(重賢・同母妹)である。)
1、松平筑後守(定郷)殿ニ茂 上意ニ而相詰被申候 右之両人衆相詰被申候事茂細川家中鎮メ之為と聞候
1、当日水野監物殿ニ茂登城之事也 則修理殿を為迎左之通人数平川口迄罷越候

1、水野監物殿江修理殿御引渡之事           板倉修理
    右水野監物江御預被仰付候 私共立合監物江引渡家来受取之駕ニ而無別条中之口ゟ平川通御門差出申候 依之申上候 以上
       八月十五日       大目付
                   御目付
               御奏者 永井伊賀守

1、越中守殿江 上使之事
     右越中守疵 御尋之 上使被御遣之
                    堀田相模守
                    細川越中守江
    上意之趣
    手疵弥療治相届快方ニ而候哉無 御心許 思召候様子聢と承候様ニとの御事ニ候
    万一及大切候共跡式之儀は去年仮養子ニ相願候弟有之儀ニ付此度願不及候条致安
    堵保養候様ニ被仰遣候

1、越中守殿頼之御城坊主衆之事  (省略)

1、修理殿一類中 御目通并指扣之事
   一親類之内ニ而
      御目通并指扣面々              
               差扣    酒井雅楽頭
                     堀田加賀守
               御目通差扣 板倉佐渡守
               差扣    板倉周防守
               御目通差扣 板倉式部
               差扣    建部丹波守
               御目通差扣 建部内膳
               右同断   板倉帯刀

                     花房近江守
                     堀田兵部
    右両人修理屋敷江代り/\罷越諸事可申付旨仰付之
                     花房近江守
    右近江守儀修理供廻り引連退出致候様被仰付之

(目次なし)
      評曰
    細川越中守殿平生慎深くして家中万民の憐ミを守りとして肥後国熊本を治給ふ 此前何の不幸に依テかゝる及大切給ふといへ共
    此節者別而 御上之儀奉恐慎ミ給ふ事難の可及事にあらす 中々申モ猶おそ連あり一人の慎ミなき時は万民のかなしみ有事を能
    知り給ふと聞人感しあへり 退出のせつ玄関迄諸士迎に大勢出し内旧■とミへたる老人左の手に人参を持早速籠に立寄て戸を開御
    有様を見て悲之躰其人に限らす家中之面々の心中さつし入りられたり 私曰細川殿上屋敷の家中不残下馬江欠(懸)付しと云事
    有りいかさま左も有之事尤至極なり 家中之面々下乗へ入しと云事有無若や外ニ置なは万一平川口へ廻り■しきものニもなし板
    倉と出会なは後の咎の事ハさし置乱の場ニも及間敷者ニてもなし 仍下馬迄入しものと見えたり 是又乱の治の一ツなるへし 板倉
    殿監物殿へ被引渡の後細川殿ニ者平川ゟ退出と披露候處家中之面々聞て急き帰りしと也 又細川殿江御小人目付四五人茂付候由
    定而頼ミ仁ニ而も可有之哉供廻り守護之上ハ外人の附可申事にあらすと也   

1、修理殿跡屋敷有馬中務大輔殿江御預之事
    板倉修理殿見たの家舗ハ八月廿六日迄に家類引払候様ニと花房近江守江被仰渡候 右諸屋敷ハ有馬中務大輔殿江御預ケニ罷なり
    家来被指で請取之 右屋敷ハ先手有馬伊予守殿居屋敷之よし 伊予守殿故有之(改易)■嶋被仰付候節被召上候屋敷之由儀ニ不吉
    なる屋敷のよし

1、八月十五日詰合之御城坊主町奉行所ニ而御吟味之事
    八月廿日町御奉行能勢肥後守殿御役所江細川殿は出入之御城坊主衆之内當日御城江詰合候者并當番之者ともに都合三十人被召呼
    御詮議有之候之処小用所江被参候節私共儀付添参不申候由再往御尋候得共何茂一同之口に付て御詮議之内吉田長佐・伊佐幸縁・
    土田門賀外ニ六人右之面々當分 組頭に御預ケ被 仰付候 尤表坊主組頭御数寄屋組頭も出御座候と也

1、越中守殿死去并法名之事
    越中守殿帰宅後色々療治尽さる候といへとも手疵おもく候故次第に元氣うすく成り給ふゆへ御殿醫師は不及申聞へ有なとの醫師
    手を尽といへとも養生かなわす終に翌十六日果給ふ 其愁傷云計なし 依之品川東海寺地中妙解院江八月廿七日葬送有之候と也
    則法号左之通
    隆徳院殿 中大夫前拾遺兼越州太守 廓然義周大居士

1、越中守殿於殿中慎之事
    細川殿江為 上使金森兵部大輔殿を以御香典白銀五拾枚拝領有之候事

1、修理殿家来并供之者御願之事
    修理殿切腹段々延引ニ付細川殿家中何も待■留守居役一人御老中本多伯耆守殿江参上廣間ニ而取次衆ニ申達候は修理殿御儀如何
    被仰付哉家来中何も安堵不仕候 御内意承度奉存候よし申達候処伯耆守殿尤之由ニ而後呼ニ遣申候間先引取可申候旨被申候付細
    川殿留守居は引取申候由廿三日之夕七時分ニ伯耆殿ゟ細川での一類之中一人参り可申旨申来り織田山城守殿(宗孝妹聟)被参候
    処伯耆守殿御申渡候は板倉修理儀教切腹被 仰付由此段主馬(重賢)初メ家老家中之面々へ可申聞候由御申渡候付山城守殿龍口
    屋敷江被参早速主馬殿初メ何もへ被申聞候由 惟ニ而家中之面々落着申したると也

1、監物殿江修理殿御請取行列之事 (省略)

1、修理殿江被仰渡之御書付之事
1、検使お役人中之事
    八月廿三日被 仰渡之趣
                 板倉修理江
       去ル十五日於殿中細川越中守江手疵負せ乱心といへとも
       越中守右手疵ニ而相果候付切腹被 仰付候者也
    右之通大目付水野對島守殿江被 仰渡之
       右ニ付而検使
            大目付  水野對島守
            御目付  橋本阿波守
              同  八木十
三郎
            御徒目付四人
            御小人目付拾二人

1、監物殿ニ而修理殿切腹一件之事
  一、水野監物殿居宅書院江庇被申付 尤六畳敷ニ而書院之方右役人衆並■出御座候也
  一、修理殿江監物殿家来申達候は今日御用之儀御座候 御沙汰ニ付御入湯被成間敷哉と申達候へ共乗兼而入湯ハこのミ不申候由被申
    候付左候ハゝ御認被成間敷哉と申候処未料理も望ニ無之段被申候ゆへ左候ハゝ髪御揃被成候様ニと申傳罷出髪取あけ見申候処殿
    中ニて鋏ニ而被切候髪故難結差懸之儀故則御目付衆江被伺候処其分ニ而不苦候由乱髪のまゝ麻上下白帷子着し書院ニ而被 仰渡
    候節修理殿両脇ニ侍六人字之間江監物家来之同心扣罷在候

                  監物殿家来給人
                        吉田弥五右衛門
                  介錯仕候給人袴着
                        寺嶋文太
    右弥五右衛門刀を持脇差をさし麻上下着之廿三日七ッ三分時切腹也
  
      (以下諸役人之名前等省略)

                       

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