津々堂のたわごと日録

わたしの正論は果たして世の中で通用するのか?

■松井氏知行地・八瀬というところ

2024-04-06 09:48:44 | ご挨拶

     一、百六拾石壱斗七升  本地城州神童子    (現在の京都府木津川市山城町神童子
     一、拾三石壱斗弐升   母地同 八瀬村    (現在の京都府京都市左京区八瀬
            合百七拾三石弐斗九升
          右令扶助之訖、可全領地候也
            文禄二年十一月十一日  (秀吉)御朱印
               松井佐渡守(康之)とのへ

 この宛行状は秀吉が松井佐渡守にあてたものだが、のち徳川幕府にも引き継がれ明治に至っている。
松井家は将軍の代替わりの時は、御禮の為に江戸へ下り江戸城に登城して将軍に御目見している。

元々は康之の母へ、茶湯料として13石余が与えられたのが始まりらしい。
この宛行状には「八瀬村」とある。あの天皇の棺を担ぐ八瀬童子(げら)がすむ村である。
八瀬村の村高は271石であり、松井家の他は儒者・林大学頭100石、施薬院65石、寂光院30石などの記録が残る。
東京都知事を務めた現参議院議員で作家の猪瀬直樹の作品に「天皇の影法師」があるが、その八瀬の童子について相当のページを割いて触れているが、これがなかなか面白い。
                                                       
ウイキペディアによると、八瀬童子とは「比叡山延暦寺の雑役や駕輿丁(輿を担ぐ役)を務めた村落共同体の人々を指す。室町時代以降は天皇の臨時の駕輿丁も務めた。」とある。
都が東京にうっつてからも、明治天皇・大正天皇崩御の際には駕輿丁を勤めている。
これらのことについて猪瀬氏は80頁余(文庫本)を費やして書かれている。

      明治天皇ご葬儀の際棺をかつぐ八瀬童子

 隆慶一郎の小説「花と火の帝」は、後水尾天皇の女御たちが徳川幕府の隠密に次から次へと殺されていく悲惨な様が描かれているが、これに後水尾帝と八瀬童子(げら)達の抵抗ぶりを絡ませた痛快傑作な作品だと私は思って愛読している。

 松井家のどなたかが八瀬を訪れられたという話を聞いたが、これが何方であったのかどういう話であったのかを、すっかりど忘れしてしまっている。                                             

                  

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■万年筆発見

2024-04-06 08:48:08 | ご挨拶

 昨晩はあることを調べるべく、八代松井家に関わる図録二冊を取り出して調べようとしていたら、なんと探し回っていた「万年筆」が挟まっていた。
週初めには懸命に探したのだが見つからず、これはいよいよ新しく買わずばなるまいと考え始めた矢先である。
随分長く使って手になじんだ万年筆だから、壊れるまで・・(自分が?)使っていこうと思う。
筆ペンも購入してまた私のデスク回りのペン皿に納まった。

ちなみに図録は「肥後松井家の名品」でした。

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■隱見細倉記・閑話休題-縁戚の人々

2024-04-06 07:11:44 | ご挨拶

          織田信舊
            ‖
       +ーーー(異母妹)芩
       |
細川宜紀ーーーーーー+ーーー(異母弟)重賢
       |
       +ーーーーー細川宗孝
            ‖
       +ーーーーーー 友
徳川宗直ーーーーーー|       
       +ーーーーーー 峯
            ‖
          伊達宗村

1、宗孝の異母妹・芩が織田山城守信舊に嫁いでおり、宗孝の江戸城中における凶事に際しては、幕府からの指図により細川邸に詰ている。
   宗孝の療治や、家中の動揺などを治めるために数日泊まり込んだらしい。
   織田信舊室・芩と後継藩主となる重賢は同母兄妹であり、揃ってこの難事に対応した。
1、一方、徳川宗直の姫を通じて相聟となる伊達宗村は、城中にあって宗孝の側にあっていろいろ斡旋の労をとったと伝わる。
  即死状態であった中まだ生存しているとして、急ぎ上屋敷に連れ帰って療治させるようにと声を上げて走り回った。
  又、重賢をして末期養子の届け出を促すなど尽力した。
  宗村の生母は久我通名女であり、通名は実弟・通誠を養子としているが、その通誠の息・が通兄でありその妹が重賢室となっている。
  遡ると、久我家と細川家とのかかわりは、細川綱利が弟・利重(新田藩主)の女・具姫を養女として久我惟通簾中となしたことによる。

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