1、宇土細川藩初代の行孝(宮松)3歳から荻原兼従に預けられたが、それが7年にも及んでいたこと。
1、三斎の死の時期、興津弥五右衛門は愛宕下屋敷(三斎屋敷)詰であったこと。
1、「志方半兵衛御暇申上候故、願之通御暇被下候得共、不届之子細在之ニ付、行孝公ヨリ身上御構被成、
熊本江被召出候事も不被為成、御扶持方被下一生埋レ罷在候也」
この記述は、その後も志方家五家が枝葉を広げており、何かの間違いではないか。
■志方一族略系図
細川家記では伺えない、側近の記述である井門文三郎著の「井門家文書」が著すところだが、疑義も残る。