津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■消えた山崎喰違丁

2024-03-05 13:27:49 | 地図散歩

 平凡社の日本歴史地名体系(地名辞典)「熊本県の地名」で「山崎喰違丁」を調べても、索引には出てこない。
宝永四(1704)亥年三月五日夜八ッ時分より熊本山崎喰違丁角住江専右衛門屋敷長屋出火右屋敷其節原田彦右衛門借宅」という火事が起こっており、過去に「■宝永四年山崎町の火事-焼けだし」でご紹介した。
ここでご紹介している地図は、「明治初期熊本町名」というものだが、ここにははっきり「山崎喰違丁」(朱線表示)が示されている。
さてこの地区は最近■我が家検索リスト、再・「山崎」-1以降数回にわたりご紹介してきたが、火元の住江仙右衛門屋敷の表示はないかと調べてみたが、見受けられない。「住江」で検索しても見受けられなかった。
火災の火元ということで、転居を余儀なくされたのであろうか。
住江氏の本家筋はもともとの屋敷は二の丸にあり、二の丸から旧・法華坂に至るところに「住之江門」の名前が残り、美術館のあたりに屋敷があった。
山崎喰違丁の山崎家は分家だったようだが、この火事が原因とも思われないが専(仙)右衛門の次の時代で絶家しているように思われる。

この「山崎喰違丁」SAKURA MACHI Kumamoto 建設により道筋自体がなくなってしまったようだが、先に記した「地名辞典」及び、熊本地名研究会編著「熊本の消えた地名」にも登場しないのは残念である。

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■一休の長文字

2024-03-05 07:18:37 | 人物

 三月五日日付の過去の記事を検索していたら「一休の長文字=し文字」に行きあたった。
一休の長文字とは童話でよく知られるところだが、細川家資料によるとこれが以下の如く利休由来の「円座のお茶入れ」と共に、徳川家に実際存在しお茶会に使われていたことが判るが、現在これがどこにあるのかはわからない。

 寛永八年二月十五日付の三齋から忠利に宛てた書状(p41)で、正月廿日城中でもあろうか「御数寄初 将軍様へ御茶被進候由目出度儀候事」とし、次にこのように記している。
    廿一日薩摩殿・宮内殿・美作殿・長門殿・越前殿其方へ 御茶被下 御機嫌残所無之由是又目出度儀ニ候
    御かさり書立被越候内圓座之御茶入ハ如何様ニ披見候哉ちと平キ様ニ可被存かと存候 昔ハ日本ニて四ツ
    の茶入ニて候つる 不入儀なから様子承度候 一休長文字と被書付候ハ諸祖菩提之事候哉長文字之天下一
    ニて候披見候事浦山敷存候

 この書状に対する返書が、寛永八年三月五日付けの以下の書状である。
忠利は、「自分が見ても事のほかの見事なものと感じたが、さては天下一の御品でございましたか」と、父・三齋の言葉に反応している。
少々「よいしょ」気味にも感じられるが・・・・

    二月十五日之御書三月朔日致頂戴候
          (中略)
    一休長文字如御意諸祖菩提ニ而御座候 是ハ我等共目にも事之外見事ニ見申候 扨ハ天下一ニて御座候哉
    表具もむかしのニて御座候哉軸已下ふかく見へ申候 中ハ白地乃金襴ニ上のかたニ候大なるかのしゝ三ツ御
    座候 下の中ハ上の金襴ニかはり地ハしろく御座候へとももんかはり申候
          (中略)
      (寛永八年)三月五日            忠利
                    貴田半左衛門殿 

貴田半左衛門は三齋の側近だから、当然三齋が目を通したことは間違いない。熊本入国一年前の春の話である。

実は「一休の長文字」に関し、かって東京の永青文庫に居られたM様が、「永青文庫 美の扉(8)三斎の愛した一休長文字」という論考を書かれていることを当時知ったが、随分探したが手に入らないままである。
茶道雑誌「茶道の研究 53(8) (通号 633) 2008.8」に掲載してあるらしいが、これを機会にもう一度探し回ってみようと思う。

 

 

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